第33話 異世界と一生

「なんで」


 色麻はもう光らなくなった地蔵を、じっと見つめて、そう呟いた。


「なんでなんでなんで」


 色麻は縋り付くように地蔵に触れる。でも、もう何の反応もない。

 俺は、色麻が異世界に行くのを、止めることは出来なかった。というのに、偶然吹いた風によって、色麻が幼い頃から目指してきた異世界行きは、ご破産になってしまったのだ。


「……え?」


 すると、空から、色麻に向かって、ふわふわと白いものが舞い降りてきた。

 直ぐに光で目を閉じたので確証は無いが、恐らくあの白いものが、色麻を驚かせ、異世界へ行くのを止めたのだ。


 それは、コンビニの袋だった。

 何の変哲もない、よく宙を舞っているゴミ。あそび山の近くにはコンビニチェーンのビックストップがあるから、ここに袋が飛んでくるのは、別段不思議なことではなかった。


「お母さん……っ」


 色麻はそのビニール袋を掴むと、その場にへたり込んで、ぼろぼろと涙を零し始める。朝の光が木漏れ日となって、辺りを照らした。ただ、色麻の立ち位置にだけは、光が差さない。ずっと、静かで暗いままだ。


 結果的に、色麻は俺が望んだ通り、異世界へは行けなかった。でも俺は、こんな結末を望んだわけではない。


 母親に裏切られ、俺に裏切られ、それでも、偶然と母との思い出が、異世界行きを許さない。こんな残酷なことがあるだろうか。

 色麻の胸の内は、彼女にしか分からない。それでも俺は、否が応でもその心情を想像してしまう。胸が張り裂けそうな思いだった。


「ねぇ」


 色麻は涙を零したまま、俺の方を向いた。

 その瞳に光は無く、俺はまるで宵闇を覗き込んでいるような錯覚に襲われる。


「私を殺して」


 震えたその声は、真剣だった。


「色麻」


「……殺して」


「無理だ。それは、できない」


「殺してよ」


 色麻は壊れたおもちゃのように、同じ意味の言葉を繰り返す。


「殺さない」


 俺が首を横に振ると、色麻は肩を落とし、俯いた。


「……ねぇ、なんで私を追ってきたの? だって、時間の無駄じゃない。貴方には明るい友達が居て、家では両親が待っているんだから。私なんかに構ってる場合じゃないでしょう?」


「言いたいことが、あるんだ。だから追いかけてきた」


「もう謝るのも、同情するのも、優しくするのも、必要ないから。私、本当の本当に、全部がどうでも良くなっちゃった」


 色麻が力なく笑う。笑うしかない、といった表情だ。


「まず、その……取り敢えず、謝らせてくれ。勝手に色麻の未練ノートを見てしまった。ごめん」


 俺が頭を下げると、色麻は「……そう」とか細い声を出す。


「見ちゃったのね」


 色麻は俺と目も合わせず、自分の髪をそっと撫でた。


「もし、あそこに書かれてた未練をまだ抱えてるんだったらさ。未練を無くす手伝いを、させて欲しいんだ。色麻が、俺にしてくれたみたいに」


 俺はしゃがんで、へたり込んだままの色麻に目線を合わせる。


「無理よ。今まで、何をしたって上手く行かなかった。十数年かけて考えた計画も全部ぱぁになった。それこそ異世界にでも行かなきゃ、私の運命は変わらない」


 色麻は目を逸らし、吐き捨てるように言い放つ。

 俺は顔を覗き込むようにして、無理やり色麻と目を合わせた。


「俺は、その……色麻を、友達だと思ってる。いや、勝手かもしれないけどさ。失恋して落ち込んでた時に、俺は本当に色麻に助けられたんだ。一緒に共感して泣いてくれて、一緒に異世界へ行こうって言ってもらえて……。色んな人に迷惑をかけたかもしれない。でも、すごく、楽しかった」


 俺は真っ直ぐ、色麻の瞳を見つめた。青臭くて、恥ずかしい台詞を言っている自覚はある。でも、この気持ちは、ストレートな言葉じゃないと伝わらないような気がした。


「色麻と会って、俺は、世界がちょっとだけ、違う風に見えたんだ。まるで、異世界に行ったみたいに。東也と友達になった時も、そうだった。加美ちゃんに恋をした時も、失恋した時も、この世界は、全然違ってた」


 俺は色麻の手を取る。


「あ……」


 彼女の手をぎゅっと握ると、色麻はようやく顔を上げて、自分から俺の方を見てくれた。


「色麻が、この世界が嫌で嫌でしょうがないなら。俺が、色麻の世界を変える。異世界は無理でも、ちょっとでも楽しい世界に連れて行くよ。絶対連れて行くから」


 また、木がざわめく音がする。風によって木漏れ日はその形を若干変え、色麻の泣き腫らした顔を照らした。


 色麻がお母さんのことを忘れるなんてことは、無いだろう。異世界に行けなかったことも、ずっと胸の奥にある傷として残っているだろう。その記憶を無くすことは、俺にはできない。でも、彼女の寂しさをほんの少し紛らわせることくらい、できるはずだ。


 色麻から、返事はなかった。ただ、その代わり、彼女は俺の手を、強く、強く握り返してきた。


「帰ろう」


 俺がそう言うと、彼女は俺の手を支えにして立ち上がる。足元を見ると、サンダルが片方失くなっていた。


 そうだ。日の出の時、色麻のサンダルは、地蔵に触れていた。

 地蔵の周りを観察してみたが、サンダルは影も形もない。あのサンダルは、異世界に行ったのだ。そして、この世からはすっかり姿を消した。


 俺は色麻に肩を貸してやることにする。色麻は特に抵抗もせず、俺に支えられながらゆっくり歩いた。


「ねぇ」


 色麻が、横目でこちらを見てくる。


「ん?」


「……信じていい?」


 色麻の瞳が、不安げに揺れる。その瞳の奥には、空虚な闇があった。

 異世界への旅。母親との再会。それが、今まで彼女の目標だった。それを失い、彼女は、何を支えに立てば良いのか、すっかり分からなくなってしまっているのだ。


「もし、期待はずれだったら、次に異世界への扉が開いた時、行ってくれて構わない。でも、そんなことにならないように、俺はこれから色麻がやりたかったことを、一緒に沢山やるよ。一生かけてでも、全部やる」


 色麻を励ましてやりたい一心で話していたら、何だか表現が大仰になってしまう。


「……」


 色麻はいつまで経っても黙り込んだまま、歩いている。何だか気まずくなってしまって、俺はわざとらしく笑ってみた。


「な、なんか今のは、ちょっと気持ち悪かったな」


「……そんなこと、無いと思うけど」


 色麻はそれだけ言って、また黙る。


 しばらく黙った後、色麻はこちらの肩に体重をかけてきた。どうかしたのかと思って立ち止まると、色麻は体重をかけてくる。そしてとうとう、俺の肩辺りに顔を埋めてきた。


「……ありがとう」


  耳がこそばゆくなる程の距離で、色麻がささやく。


 急に接近されて、俺は何も言葉を発することが出来なかった。俺も色麻も汗だくで、肌が触れ合っている部分がじっとりとする。しかし、汗臭いなんてことはなく、花にも似た香りが辺りには漂っていた。


 色麻は、そのままの体勢で、静かに泣き始めた。肩に温かい涙が染み込む感覚。俺は彼女が泣き止むまで、ずっとそのままでいた。

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