第32話 扉と風

 あそび山に着いて、俺は迷わず塀を登ろうとする。


「何やってる!」


 すると、突然強い光で照らされた。光の方を向くと、知らないお爺さんがこちらへ懐中電灯を向けている。


「えっと……」


 俺は塀に片足を引っ掛けたまま固まった。こんな時間に人が居るなんて、思いもしなかったのだ。もしかしたらこの前の不法侵入に目撃者が居て、管理人に報告があったのだろうか。


「さっきの娘といい、こんな夜に山に忍び込んで、何をするんだ」


 お爺さんは半ば呆れたようにため息をつく。その話を聞いて、俺は自分の目が大きく見開かれたのが分かった。


 さっきの娘。


「その娘って、小柄で、白いワンピース着てませんでしたか?」


「なんだ、知り合いか?」


 お爺さんが怪訝な顔をする。


「その娘を連れ戻しに来たんです!」


 俺は塀を登りきって、お爺さんをもう一度ちらと見る。


「危ないから止めなさい!」


 お爺さんの制止を無視して、俺はあそび山に入る。良かった。少なくとも、あのお爺さんの話を聞けたおかげで色麻が別のところに居るという不安は無くなった。


 あとは、追いかけるだけだ。

 俺はスマートフォンのライトを頼りに、道を進んでいく。真っ暗で先は見えなかったが、あそび山の構造は小さい頃からよく知っているから、問題ない。


 木がざわめく音がする。夜空に浮かぶ名も知らぬ星が、やけにはっきりと見える。自分の荒くなっている息の音が、体の内側から響く。


「あぁ……」


 俺はようやく地蔵の前まで着いて、風呂にすっぽり肩まで浸かった時のように声を漏らす。ここに着くまで、長かった。


 俺は取り敢えず辺りを見回して、色麻の姿を探す。そう遠くは離れてはいないはずだ。夜明けの正確な時間なんて分からないが、もう日付が変わってから大分経っている。そろそろ地蔵のところに来なければ、間に合わなくなってしまうだろう。


 すると、地蔵がぼんやりと、青い光を放ち始めた。それはまるで、今まさに時が満ちようとしているのを示すような光だった。


 やっぱり、夜明けは直ぐそこまで来ているのだ。

 しかし、周辺の色麻の姿は見えない。ここまで来る道中もかなり確認したが、人の気配すら無かった。


「……そういえば」


 俺はふと、色麻と一緒にここに来た時のことを思い出す。

 確か色麻は、向こうにある獣道について話していたはずだ。さっきから俺は舗装されている道ばかり探していたが、もしかすると……。

 そう思って、俺は獣道の方へ入る。

 すると、そこには草の上でしゃがみ込んでいる色麻の姿があった。


「……どうして」


 俺の姿を認めると、色麻はその黄金色の瞳を、大きく、本当に大きく見開いた。


「なぁ、色麻」


 俺が声をかけると、色麻は突然走り出す。

 足場が悪かったのもあり、俺の咄嗟に色麻を追うことが出来なかった。


「おい、色麻!」


 追いかけると、色麻は既に地蔵の前に立っていた。


「やめて」


 俺が話しかけようとすると、色麻は短く鋭い言葉でそれを制止した。


「もう、いいって言ったじゃない」


 色麻は、殆ど泣きそうな表情を浮かべていた。


「駄目なんだ。例え、色麻が良くても、俺が駄目なんだよ。色麻がそんな、泣きそうなのを堪えながら異世界に行くのは嫌だ」


「同情しないで!」


 色麻の叫びの振動が、肌にヒリヒリとした感覚を与える。

 色麻は涙目のまま俺を睨んだ。


「私をこれ以上、惨めにしないで。どうせ裏切るなら、初めから期待させたりしないでよ……」


 せき止めていた水が流れるように、色麻は俺への怒りを爆発させる。いや、それはもしかしたら、この世界への怒りでもあるのかもしれなかった。


「それは、本当に申し訳ないと思ってる。でも、このままで本当に良いのか?」


「異世界に行くんだから、今の世界がどうだろうと、私には関係ない。さっきも言ったでしょ? もう未練なんて無いの。全部、もうどうでもいいの!」


 最終的に、色麻は何かを振り切ろうとするように金切り声を上げた。


「全部どうでもいいなんて、そんなことないだろ?」


「貴方が私の何を知ってるの!?」


 色麻は両手を使って自分の頭をガシガシとかきはじめる。見るとワンピースの裾も土で汚れており、彼女の姿はボロボロだった。

 すると突然、色麻が顔を上げる。


「……空が」


 色麻が掠れたような声で呟くので、俺は色麻が見ている方向を見る。

 木々の隙間から見える空は、少しずつ、白み始めていた。

 夜明けが、来るのだ。


「うわっ!?」


 すると、地蔵が纏っていた青い光を益々強くする。

 その光に怯んでいる俺をよそに、色麻は地蔵へ近づいていった。


「我、異世界を志す者なり!」


 色麻が合言葉を口にすると、何処からともなく、辺りに声が響く。


『ならば、日の出の瞬間、この像に触れよ』


 その声は、男性のような、女性のような、低いような、高いような、何とも表現し難く、この世のものとは思えないものだった。

 空は一層明るくなって、段々雲が薄い桃色に染まっていく。

 色麻は俺の方を、少しだけ見た。


「色麻! 駄目だ!」


 俺はもう無我夢中で声を張り上げた。色麻が、消えてしまう。この世界から、居なくなってしまう。


 色麻は覚悟を決めた様子で、ゆっくりと、優しく地蔵の肩に触れた。

 色麻が地蔵に触れた瞬間、金と宝石で装飾された、白い両開きの扉が現れる。あの時に見たものと、同じ扉だ。そしてその扉は、独りでに開き始める。


 俺は色麻を地蔵から引き剥がそうと、走り出した。

 しかし、もう間に合わない。

 地蔵から出る青い光は一層強くなり、そして、遂に太陽が顔を出す。十年に一度

の、異世界へ行く機会が、今ここに現れたのだ。


「色麻ぁぁぁ!」


 手を伸ばしても、色麻には届かない。

 色麻は、異世界に行くのだ。多くの未練を残して、行ってしまう……。



 その瞬間、風が吹いた。



 不自然なくらいに、強い風だった。思わず立ち止まってしまうほどの風。

 その風によって、色麻の目の前に、白い何かが飛び込んでくる。


「わっ」


 色麻はそれに驚き、足を滑らせた。尻餅をついてしまい、サンダルの片方が脱げて、地蔵にぶつかる。


 それと同時に扉の向こうから目が眩むほど強い光が放たれ、俺は反射的に目を閉じた。数秒の間に色々なことが起きすぎて、理解が及ばない。

 訳がわからないまま、俺は目を開く。


「あ……」


 目の間に広がる空は、もうすっかり明るくなっていた。日が昇ったのだ。


 そして俺は、地蔵の方を見る。地蔵の周りには確か、沢山10円玉が置かれていた。それに、あの地蔵はところどころに苔が生えていたはずだ。しかし、それらはこの一瞬で全て消えていた。


「……なんで」


 俺は、地蔵の目の前で呆然としている色麻に目を向けた。

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