第30話 未練とノート
色麻が去ってから、俺は公園のベンチに座って、しばらくぼーっとしていた。明日学校に行くと、もう色麻は居ないんだなぁ、と、そんなことをぼんやり考える。
それから、どれくらい時間が経っただろうか。俺はようやく立ち上がって、家に帰ろうとした。
そしてふと思い出し、自分の鞄の中身を見る。そこには、色麻の荷物があった。
そういえば、俺は阿智市で、色麻から荷物を預かっていたのだった。色麻も俺も、そのことをすっかり忘れてしまっていたらしい。いや、もしかしたら色麻は気付いていながら無視したのかもしれなかった。
「家に持ち帰るのも、良くないか」
何が入っているか分からないし、もしかしたら、二度と返す本人に直接返すタイミングは無いかもしれない。そう思うと、持ち帰るのは気が引けた。
とはいえ、これから色麻を追いかける気は起きない。
それから俺は、公園のベンチに腰掛けて、色麻が異世界へ行った後の世界について想像してみた。行方不明の少女。最後に出会った俺。何故か持っている荷物。何と説明すればいいのか分からない。
この荷物は、色麻の家に返すべきだろう。そう結論づけて、俺は色麻が向かっていったのとは逆方向。つまり、色麻の家の方へ向かった。
啓吾さんは、こんな時間になっても帰ってこない彼女のことを、どう思っているのだろう。もしそれについて質問された時、俺はどう返事をすれば良いのだろうか。俺は歩きながら、そんなことを考える。
答えが出ないまま、俺は色麻家のインターホンを押す。
「やぁ、どうしたんだい。こんな時間に」
俺を出迎えてくれた啓吾さんは、特にいつもと違った様子はなかった。ただ、俺がこんな夜遅くに訪ねたことを、不思議に思っているようだった。
「色麻……えっと、真結さんが忘れ物をしたので、それを届けに」
俺は取り敢えず、正直に要件を口にする。
「あれ、今日は友達の家に泊まるって言ってたのに、どうして君が真結の荷物を?」
啓吾さんが口元に手を当て、考えるような仕草をする。俺はその話を聞いて、完全に固まってしまった。
「……どうかしたかな?」
俺の様子を見て、啓吾さんは眉をひそめる。
「いえ、別に。そのですね。友達の家に行く前に、俺に会ってたんですよ。それで、忘れ物を」
どうやら色麻は、啓吾さんに俺と同じような嘘をついていたらしかった。その嘘に乗るような形で、俺は話を続ける。
「あぁ、そうだったのか。良かったよ」
啓吾さんはふわりと笑う。なんだか酷く安心した様子だ。
「えっと、どうかしたんですか?」
「いや、別に何てことない話さ。ただちょっと、杞憂というか、勘違いをしていたとでも言えば良いのかな」
「えっと……?」
言っている意味が分からず、俺は思わず腕組みする。
「真結が友達の家に泊まると言ったものだから、もしかしたら、君の家に泊まったのかと思っていたんだよ」
啓吾さんが頭の後ろをかきながら、苦笑いする。
「いや、違いますよ……」
「僕と妻が出会ったのも高校生の頃だったからね。別に早いなんてことは無いんだろうけれど、実際そういうことになると、ショックが大きいというかなんというか」
何だか啓吾さんの中では、俺と色麻の関係は現実よりかずっと進んでいるようだった。というか、まず俺と色麻は付き合ってないしそうなる予定もない。
「心配しなくても、そんなことは無いと思いますよ」
「……ウチの娘、結構可愛いと思うんだけどなぁ」
お父さんが真顔でそんなことを言うので、俺は慌てて首を横にふる。
「いや、色麻がどうとかそういう話じゃなくて! えーと……」
なんと続けようか考えていると、色麻のお父さんは悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「冗談だよ。一瞬はそんなことも考えたけどね。真結の友達が君だけじゃなく、もっと居るなんて、本当に安心だ」
素直に喜んでいる色麻のお父さんを目の当たりにして、胸の奥がちくりと痛む。
過去のことを俺は全く知らないけれど。この人は今、本当に娘のことを大切に思っているのだ。
「長々と話してしまったね。いやはや、親馬鹿で申し訳ない」
「……いえ、そんなこと」
俺は返事をしながら、余程色麻が異世界に行こうとしていることを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。
しかし、それで父親に止められたからといって、色麻は異世界へ行くのを止めはしないだろう。仮に力づくで止めたとして、彼女は何もかもに絶望してしまうんじゃないだろうか。それを考えると、安易に話すわけにもいかない。
「む!」
すると、色麻のお父さんが、突然声を上げた。
「えっと、どうかしましたか?」
もしかしたら、何かしら勘付かれてしまったのだろうか。
そう思って焦ったのだが、どうやら違うらしい。色麻のお父さんは懐からメモ帳を取り出すと、何かを書き始める。
「すまないね。今、ようやく書けそうなネタが浮かんできたんだ。荷物は玄関に置いてくれるかい?」
「あ、はい」
俺が答えるより早く、色麻のお父さんは奥の方へ走り去ってしまった。
リュックから色麻の荷物を取り出そうとする。
「うわっ」
そういえば色麻の荷物は、手提げ鞄だった。リュックの中で逆さになっていたそれは、取り出した瞬間に中身が全部出てしまう。
俺は自分のバックをひっくり返し、自分の持ち物と色麻の持ち物を一つ一つ分けていった。ハンカチ、ティッシュ、家の鍵。昨日買った数冊の本に、財布まで入っている。ここまで確認して、俺は色麻が本当に何も持っていないということに気付いた。考えてみれば、あんなワンピースにポケットなどあるはずもない。
そんなことを考えながら、俺は一冊のノートを手にとった。表紙には『未練ノート』と書かれている。
きっと、俺が小さい頃のアルバムを今日家から持ち出したように、色麻は思い出として、このノートを異世界へ持っていくつもりだったのだろう。
俺は表紙をじっと見つめる。よく見ると、ノートはかなり年季が入っていた。『未練オート』という字も、明らかに小学生が書いたような字だ。
「この世に未練なんて、これっぽっちも無いの」
さっき聞いた色麻の声が頭の中で響く。
もしこのノートに色麻の未練が残されているのだとすれば。色麻は今、それを全て切り捨てようとしているのだ。
色麻は今まで、何を思ってこのノートを書いてきたのだろうか。
悪いと思いつつも、俺はゆっくりとノートを開く。
『お母さんに会いたい』
ノートの最初のページには、色麻の最も叶えたい願いが、大きく書かれていた。
次のページからは、思いついたことをそのまま書いたような感じだった。『海へ行きたい』とか『おいしいものを食べたい』とか、どこか微笑ましい、ちょっとした事だ。確かに、この程度のことだったら、異世界へ行くのをやめるような理由にはならないかもれない。
それに、そうした未練には大抵赤ペンでチェックマークが書かれていた。これはきっと、未練になっていたことを実際にやって消化したということなのだろう。
一枚、もう一枚と、ページを捲る。
『友達を作りたい』
『友達と出掛けたい』
『友達と遊びたい』
『人と話したい』
『誰かと一緒になにかしたい』
それは、何だか曖昧で、単純な未練だった。
そういえば、俺も、そうだった。東也と出会うまで、俺は人に興味がないような風を装って、自分の殻に閉じこもっていた。相手の居ない籠城戦をしていた。
『やっぱり、友達が欲しい』
そうした願いに、赤いチェックがついているものは無い。
幾らページを捲っても、似たような未練が何度も書かれていて、時には文字が乱雑になっていることさえあった。
「……なにが」
自然と手に力が入り、俺は未練ノートを握りしめていた。
「なにが、未練なんてこれっぽっちも無い、だよ」
あるじゃないか、それも、こんなに沢山。やりたいこと。やれなかったこと。他の人は簡単だとしても、色麻がどうしても、上手く出来なかったこと。
本当に、単純なことだったんだ。
色麻は、きっと、ずっと寂しかったのだ。母親が居なくなり、友達が上手に作れず、たった一人で、苦しんでいた。
そしてとうとう思いつめて、今、この世界を捨てようとしている。この世界を諦めようとしている。
「……色麻」
俺はノートを色麻の鞄にしまい、それから、目を閉じた。色麻の、さっき別れた時に見せた表情を思い出す。
駄目だ。
あんな顔で旅立つのは、駄目だ。
俺は色麻の鞄を玄関に置くと、すぐさま色麻家を飛び出した。
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