第29話 傷と決裂
取り敢えず、あそび山の方面に向かいながら走る。
「……色麻!」
すると、行く先に白い影が見えて、俺は足を踏ん張り、急停止した。
方向転換して、その影の方を追う。影は明らかに俺から逃げていた。
「おい、色麻!」
こんな夜に大声を出して、きっと近所迷惑だろう。
でも、そんなことにも構わず、俺は精一杯叫んだ。街頭に照らされて、白いワンピースの裾が揺れる。
俺は必死で色麻を追いかけた。まさか、ここまで全力で逃げられるとは。
「あ……」
何の因果か、俺と色麻の追いかけっこは、学校近くの公園まで続いた。
東也と加美ちゃんのキスを目撃した公園……。
その瞬間、俺のつま先が段差に引っ掛かる。
「うわっ」
普段ならその程度で転ぶことなど無いのだが、今日俺は遠出して見知らぬ街を歩き回った上に、街も走り回っていた。
その疲れが出たのか、俺はうつ伏せで思い切り転んだ。
肘に鈍い痛みが走る。見れば、右肘に血が滲んでいた。道路のど真ん中に座りこんで、俺は街灯を頼りに傷の様子を確認する。
「はぁ、はぁ……だ、大丈夫?」
顔を上げると、色麻が俺の傷を覗き込んでいた。
俺から逃げていたせいで汗だくの色麻は、時折腕で額の汗を拭っている。
思わぬ形で色麻と話すことに成功してしまった。
「えっと、大丈夫だけど……」
言いたいことが色々あったはずなのだが、久々にすっ転んだせいで頭が真っ白になって、上手く言葉が見つからない。
今日はこんなことばかりだ。色々ありすぎる。
「血、出てる」
色麻は俺の手をじっと見つめ、眉に皺を寄せた。
「もう、いいから」
色麻が手を差し伸べてくる。俺はその手を取り、立ち上がった。
「もういいからって、何がだよ」
手を繋いだまま、俺は色麻を見る。彼女の黄金色の瞳が、明らかに揺れた。
「貴方はこの世界を選ぶ。私はこの世界を捨てる。それだけでしょう? 私は大丈夫だから。元々、異世界に行くのだって、一人の予定だったんだから」
その声は、震えていた。
正直、全然大丈夫そうには見えない。
俺がそう思っているのを感じ取ったのだろうか。色麻はキッと俺を睨みつける。
「私にもう構わないで。異世界に行くのが私の幸せなの。この世に未練なんて、これっぽっちも無いの。お母さんのことがあって、寧ろ私は前よりずっと心置きなく異世界に行けるわ」
「……本当に?」
「本当に!」
叩きつけるような口調だった。
色麻はそれだけ言うと、俺の手を離し、この場を去ろうとする。
「色麻」
俺はなんとか、色麻を呼び止めようとした。
「謝らなくて、いいから」
色麻は俺の意図を見透かしたように、少しだけ振り返る。
「傷、お大事に。追いかけさせちゃってごめん。……私のためにお母さんの居場所を探してくれて、嬉しかった」
色麻は薄く笑う。しかし、目までは笑っていなかった。
「さよなら」
それはまるで、今生の別れのような挨拶で。いや、実際に、俺達はもう合うことはないのかもしれなかった。
異世界に行くことが、彼女の幸せならば、俺はそれを止めることは出来ない。一度は、俺もそれに共感した。上手く行かないこの世界を捨てることを求めた。
でも、今ならわかる。俺には、本当に別の世界に行く覚悟なんて無かったのだ。ただ現実から逃避するのに異世界を利用していただけだった。
色麻は、どうなのだろうか。
幼い頃から、異世界へ行こうとしていた彼女。色麻は俺が思っているよりもずっと、異世界へ行くことに対して覚悟を決めているのかもしれない。
「……」
立ち去っていく色麻の後ろ姿を見つめる。
俺は色麻に謝りたかった。でも、謝った後、一体どうするつもりだったのだろう。色麻は、異世界に行くのだ。この世界全てを捨てて行くのだ。引き止めることは出来ない。引き止める理由が無い。
阿智市で俺が二人と仲直りした時、俺と色麻は、取り返しがつかないくらいに決裂してしまったのだ。
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