第26話 母と娘
「……え」
別段、強い力で押された訳ではなかった筈だが、色麻はその場に尻餅をついて、立ち上がることはなかった。
俺は直ぐに色麻のところへ駆け寄って「大丈夫か!?」と聞く。色麻は返事をしない。ただ、手を貸すとゆっくり立ち上がった。
色麻の母親は、冷めた目で俺達を見ていた。どうしたら、そんな風に実の娘を見れるのか、俺には分からない。
なんて自分勝手なんだろうか。あまりにも、無責任が過ぎる。人の心がお前にはあるのか。
思いつく限り全ての悪態が、頭の中を駆け巡る。
それを口に出そうとした時、背後から声がした。
「詩織、どうかしたのか?」
ゾッとして、振り返る。そこには、スーツをきっちりと着こなした真面目そうなサラリーマンが居た。
「あなた……」
色麻の母親が、強張っていた表情を緩ませる。
そういうことか。
俺達は何故、母親が十年経った今でも独り身だと思い込んでいたのだろうか。それだけの時間があれば、名字が変わっていても、何もおかしくはない。
「ママ!」
ひときわ甲高い声がして、色麻の肩がびくりと揺れる。動揺しすぎて気が付かなかったが、サラリーマンの足元には、もう一人、少女が居たのだ。
「あら、美世。何でもないのよ」
駆け寄ってきた少女に、色麻の母親は笑顔で応じた。少女はさっき色麻がしたように、母親にがっしりと抱きつく。可愛らしいピンクのスモックを着て、ひまわりの髪飾りをつけた少女。何処と無く、色麻に似た雰囲気がある。
大河原 詩織。幼い娘と真面目そうな夫が傍に居る彼女にとって、色麻はすっかり過去の事になってしまっているらしかった。「何でもないのよ」となんの躊躇いもなく言える程に、どうでも良いことなのだ。
「……ッ」
色麻はその光景に耐えられず、走り去っていった。俺はまだ目の前の光景が受け入れられずに、立ち止まってまだ抱き締め合う母娘を見てしまう。
「?」
少女はそんな俺の姿を見て不思議がる仕草を見せた。俺はその純粋無垢な視線に、思わず目を逸らす。
そうしてようやく、俺は色麻が置いていった鞄を拾い、逃げるようにして俺はその場を後にした。
どうすれば良いのだろうか。
俺のせいだ。
要らないお節介を焼いて、期待をもたせて。色麻のことばかり考えていて、相手の気持ちを全く考えていなかった。
「……」
色麻は曲がり角の先でへたり込んで、ただただ俯いていた。
「……色麻」
名前を呼ぶと、色麻はゆっくりと顔を上げた。カチューシャが頭からずり落ちて、目線が隠れる。
俺は手を差し出して、取り敢えず色麻を立たせた。繋いだ手の体温が、ささくれ立った心をほんの少しだけ癒やす。
色麻も、同じことを考えていたのだろうか。
俺達の手は、色麻が立ち上がった後も、離れることは無かった。俺達はそのまま、黙って歩き出す。
その状態は、阿智駅に戻るまで続いた。
阿智駅に到着した頃には辺りは殆ど真っ暗で、帰ってから母親にはどう説明したものか、俺の頭は勝手に何か言い訳を探し始める。
「亘理くん」
色麻が、俺の手を一層強く握り締めた。驚いて横を見ると、色麻はしどしどに濡れた瞳を揺らしている。
「明日の夜明けには、私達、旅立つのよね」
それは、あまりにもか細い声で。表情には、はっきりと陰りが見えた。
「そう、だな」
「夜明け、早く来ないかな……」
色麻は空いている片方の手で、俺の頬に触れる。
「もうこんな世界に、一分一秒だって触れていたくない」
色麻が絶望する気持ちは、よく分かる。
だって現実は、あまりにも彼女にとって残酷なものだったから。
ただ失恋しただけの俺とは比べ物にならないほどの苦しみを、色麻は胸のうちに秘めているんだ。
俺は、色麻にどんな言葉をかけてやれば良いのか、分からなかった。こんなにも深い苦しみのうちに居る彼女を、どう慰めれば良いのだろうか。
「……ごめんなさい」
俺は、どれほど長く黙り込んでいたのだろうか。色麻は沈黙に耐えかねたように謝罪の言葉を口にした。
「え、あ、いや」
俺は慌てて何かを言おうとするが、舌が絡まったように上手く言葉が紡げない。
「少し一人にさせて。遅くなるのが嫌なら、帰ってくれても良いから」
そう言うと、色麻は海の方へと歩き出した。俺はその背中を、夢でも見ているかのようにぼーっと見つめる。
もう夜だから、海岸は閉鎖されているだろう。しかし、いつかのあそび山の時のように、無理やり柵をよじ登るのは不可能ではないんじゃないか。
そこまで考えて、背筋がゾッとした。駄目だ。色麻を一人にするのは、良くない。追いかけなければ。俺は急いで一歩踏み出そうと……
「陸!」
あまりにも聞き慣れた、聞こえるはずの無い声がして、俺は反射的に振り返る。
「陸くん!」
これは幻覚だ、と思った。心が弱って、少しおかしくなっているんだと、俺は自分の状態をそんな風に思う。
「陸……良かった。本当に良かった!」
しかし、汗まみれの東也に抱きしめられて、俺はようやくこの状況が現実であるということを飲み込み始めた。
俺達の住む場所からの最寄り駅である羽佐間駅から、電車で2時間。そんな場所に、東也と加美ちゃんは居たのだ。
二人共、髪をボサボサにして、目を赤くして、美男美女が形無しな姿だった。
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