第25話 お母さんと再会
そこは、何の変哲もない古びたアパート。2階建ての、ピンク色の建物だった。壁にところどころヒビが入っていて、お世辞にも綺麗とは言えないが、妙な温かみがある。
「えっと、表札に柴田って書いてあれば良いんだよな?」
「そのはずよ」
色麻が自らの胸元に手を添えながら答える。色麻の母親の旧姓は、柴田。つまり、色麻家を出た今は、その名字を名乗っているはずなのだ。
メモには、202号室と書かれている。
202号室の表札が柴田であれば、色麻の母親がここに住んでいることに確証が持てるのだが……。
階段を登り、手前から二番目の部屋へ歩く。
「え……」
表札には『大河原』と書かれていた。
「柴田じゃない……?」
隣で色麻も呆然としていた。俺も、頭がぐちゃぐちゃになって、訳が分からない。
「もしかしたら、部屋番号が間違っているのかもしれない」
俺と色麻は走って、全ての部屋にある表札を確認した。しかし『柴田』と書いてある部屋は無い。
「……どうしてだ?」
ここに住んでるんじゃないのか? もしかして、母さんに知らせずに引っ越したとか? 何にせよ、全て無駄足だったってことか?
胸の内から針が出てきて、全身に刺さるような感覚。もし、住所が間違いだったのなら。これだけ期待させておいて、俺は色麻にどう謝れば良いのだろうか。
「随分慌ててるみたいね、どうかしたの?」
ぐるぐる考え込んでいると、俺の様子を不審に思ったのか、アパートの向かいにある一軒家から、ぽっちゃりしたおばさんが出てきた。
「実は、人を探していて」
隣で色麻が、俺の言葉にうんうんと頷く。
「柴田って名字の、一人暮らしの女性を知りませんか?」
もしメモの情報が間違いでも、もしかしたらこの周辺に住んでいるかも知れない。例えばアパートの名前だけ間違っていたとか、そういう可能性もあるだろう。
しかし、おばさんは腕組みして「うーん」と唸った後
「いや、私ここに住んで長いけど、そんな人は知らんねぇ」
と、俺達に不思議そうな顔を見せた。
「場所を間違えたんじゃないの?」
それだけ言って、おばさんは家へ戻っていく。
俺達は黙って、その後姿を見ていた。
簡単に「間違いだったかー」なんて言えるような問題じゃないのだ、これは。俺達は明日の夜明けには異世界に行く。もう、一刻の猶予も許されていないのに。
後ろに居る色麻の顔を見るのが怖い。怒っているだろうか、それとも、ただただ悲しみに打ちひしがれているだろうか。何にせよ、一目その表情を見たなら、俺は罪悪感に押し潰されてしまうだろう。
「亘理くん」
静かに、落ち着き払った様子で、色麻は俺の名前を呼んだ。
「色麻、あのさ……」
何を言うべきか分からないのに、俺の口はなにか言葉を紡ごうとする。
「先に帰っていて。私、ギリギリまで、ここで待つから」
それを遮るように、色麻は宣言した。それから彼女は、アパートの柱に寄りかかって「それじゃあ、また明日」と手を振る。
「いや、待つって……」
来るかどうかも分からないのに、一体何を待つというのだろうか。しかし、色麻の表情は真剣そのもので。本気でいつまでもここで待つつもりなんだと、直感的に分かった。
「待つわ。だって、きっと私の家で待つよりか、ここに居る方が会える可能性は高いでしょう? 私は、ずっと、ずっと待っていたの。待つことには慣れているから、大した苦じゃないわ」
色麻はとうとうしゃがみ込んで、ただ地面を見つめ始めた。
悲しさで、鼻の奥が熱くなる。
色麻は、ずっと母親に会うことを望んでいたんだ。ずっと、それを願っていた。俺が下手に期待をもたせてしまったせいで、それを諦められないでいるのだ。
俺は、色麻と向かい合う形で、隣の柱に寄りかかった。
「俺も待つ」
「別に、責任を感じる必要なんて無いわよ。亘理くんが居なかったら、そもそも手がかりすら分からなかったんだから」
色麻は黄金色の瞳を俺に向ける。
「責任とかじゃ、無い。ただ、色麻が待つなら、俺も待ちたいんだ」
もうこれは殆ど、俺の自己満足だった。でも、色麻をここに一人にしておくのだけは、どうしても避けたい。
「……そう」
色麻はどう反応すれば良いのか分からないといった様子で、ただ返事だけを口にした。拒まれても感謝されても俺はきっと困惑しただろうから、そういう反応はありがたい。
それから俺達は、地面を見たり、たまに立ち上がって空を見たり、意味もなく互いを見てみたりした。
待てば待つほど、時間と一緒に何かが積み上がっていくような気がする。それは疲労かもしれないし、悲しみかもしれなければ、期待のようでもあった。
そうしてゆく内に、陽はどんどん傾いていく。家に帰っていく中学生達が、こちらを不思議そうに見た。傍から見て、俺達はどんな風に思われるのだろうか。
「……この世界は、やっぱり思い通りには行かないわね」
色麻は、紫色になった雲を潤んだ瞳に映した。
「そう、だな。本当に、この世界は、上手くいかないことばっかりだ」
言いながら、俺は東也と、加美ちゃんの顔を思い浮かべる。本当に、本当に悲しいことだけれど。やっぱり「みんなが幸せに」なんていうのは、絵空事なのだろう。
誰かの幸せは、誰かの不幸で。どうしても、割を食う人が居て。それはどこの世界でも同じかも知れない。でも、もう、こんな世界にだけは、どうしても居たくない。
もし、この世界が美しいものならば。
どうして色麻は、母親に会うことが出来ない?
「ごめんなさい、付き合わせて」
色麻は背中を伸ばして、駅の方角へ歩き出す。もう、待つのは止めにするらしい。確かにこれ以上居たら、帰りは補導されるような時間帯になるだろう。そうなれば、夜明けに異世界へ行くのに支障が出てしまう。
諦めるしか、無いのだろうか。
そう思い、俯いたその時。長い影の端が、俺の視界に入った。
「え……」
顔を上げると、そこには。
色麻にそっくりの女性が居た。
女性はこちらを見て、というか、色麻を見て、目を見開いている。顔も、反応も、場の雰囲気も、全てがこの女性が色麻の母親だということを物語っている。
「あ、え、う……」
後ろで色麻が、声にならない声を出す。あれだけ練習したのに、いざとなるとやっぱりその通りには行かないらしい。
そして、出ない声よりも先に、身体が動いた。
色麻は持っていた鞄を放り出し、その女性に抱きついた。幼い子供が足に縋るような抱き締め方。女性は呆然として、色麻の肩を抱き返すこともない。
俺はただ、色麻の母親が、驚きの次にどんな表情を見せるかに注意を払っていた。
色麻は、何も悪くない。
彼女が逃げたのは、色麻の父親からのはずだ。過去、育児も稼ぎも全部妻に任せきりだった、その現状から逃げたはずなのだ。
だから、これが正しい形なのだ。色麻は幸せに、母親と会って、語り合って、たまには甘えることが出来るはずで……。
「お母さん」
色麻が、ずっと呼びたかった名前を呼ぶ。
「お母さん、お母さん、お母さんっ……」
胸の奥底から絞り出すような声で、繰り返し、呼ぶ。呼ぶ。
そして色麻の母親は。
思い切り。
その表情を歪ませた。
「どうして、どうしてこんな所まで追いかけてきたの!? 信じられない……。私は、私はもう、昔のことは捨てたの! 貴方のことを忘れて、ようやく幸せになれそうなのに、今更お母さんなんて呼ばないで!」
色麻は、突き飛ばされた。
ずっと会いたかった人に、突き飛ばされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます