第17話 色麻と父親

  色麻家は、当然ながら客間も立派だった。

 俺は別に家具や芸術品に明るくないが、ふかふかなソファや置かれている壺は、どれも高級に見える。


「紅茶とコーヒーどちらが良いかな?」


 緊張していたところに声を掛けられて、俺の身体はビクリとした。


「えっと、紅茶で、お願いします」


 俺が答えると、啓吾さん、つまり色麻のお父さんは、にっこりと頷いた。


 それからしばらくして、俺の前には紅茶が差し出された。宝石でも溶かしたような、澄んだ美しい色。胸いっぱいに吸い込みたくなるような清々しい香りが辺りに漂った。


「落ち着かないかい?」


 俺の先ほどまでの様子を見ていたのだろう。色麻のお父さんが苦笑する。


「正直、ちょっと。何せ一般庶民なもので」


 取り繕う余裕もなく、俺は頭の後ろを掻いた。


「そういえば妻も、この家は落ち着かないと言っていたなぁ」


 啓吾さんは、水面に何かを映すように、自分の紅茶へ視線を落とす。

 彼の、妻。

 つまり、色麻の母親だ。

 異世界へ行った、母親。


「そのせいで出ていったのかもしれないな、なんて。今頃、どこで何をしているのやら……」


 啓吾さんが遠い目をして独りごちる。


「出ていった?」


 俺はその話を知っていたが、敢えて素知らぬ顔で首を傾げてみた。少し確かめたいことがあったのだ。


「ああ。日本に居るかどうかすら、分からないんだ。あれはヨーロッパが好きだったから、海外に居るかもわからない」


 特に悲しむ様子もなく、啓吾さんは軽い調子だった。その件については、乗り越えたということなのだろうか。


 しかし、この話は俺にとってかなり衝撃的だった。

 母親が異世界に行ったと、啓吾さんは思っていない。彼は古文書のことも、母親が居なくなった日にちも知っているはずなのに。


「ここは羽佐間市ですし、異世界に行った、とか?」


「はは。面白いけど、違うだろうね。十年前、私は全くの無名な小説家だった。小説家というか、無職と言ったほうが良いかもしれない。そんな身分で無責任にも子供を作って、妻に全部を任せていた。妻が私に嫌気が差したのも当然だと私は思う。唯一私が彼女に怒れることがあるとすれば、娘があまりにも気の毒だということだけだ」


 啓吾さんは、紅茶に口をつけて、少しだけ目を閉じた。


「すいません、ズケズケと色々聞いてしまって」


 こんなこと、道で会った馬鹿な男子高校生に話すことじゃない。申し訳なく思って、俺は俯く。


「いや、良いんだよ。君は、真結の知り合いだろう?」


 啓吾さんは、柔和な笑みを浮かべる。まるで当然のことを語るような口調だった。


「え」


 俺は思いがけない言葉に驚いて、ただ短く声をあげた。


「こんな事情を驚きもせずに、むしろ質問してくるなんて、前々から妻のことを知っていたとしか思えない。でも、私の記憶の限り、君と私は今日が初対面だ。なら、答えは一つじゃないか」


 啓吾さんが、持っていたティーカップを受け皿へ置く。陶器がぶつかる時の、軽く高い音。

 黄金色の瞳には、一切の誤魔化しが通用しない雰囲気が滲んでいる。


「実は、そうです。声を掛けたのは本当に偶然だったんですけど、表札を見た時はめちゃくちゃ驚きました。言い出すタイミングが無くて、すいません」


 まぁ、思えば特に隠す必要も無かった。黙って家に侵入した後ろめたさがあるから、隠さなければならないような気がしていたけれど。それさえバレなければ、問題ないのだった。


「……歳が近いから適当に言ったんだけど、まさか当たっているとは」


 啓吾さんが頬をぽりぽりとかく。


「え」


 もしかして、俺は余計なことを口走ってしまっただろうか。


「……真結の彼氏、だったり?」


 啓吾さんはちょっとそわそわした様子で、俺をちらちら見てくる。


「いえ、なんていうか……友達、です」


 色麻が友達かどうかというのは怪しいところだったが、他に表現が見つからなかった。父親が目の前に居るのに「単に知り合いです」とも言いづらいし、俺と色麻の関係は明らかに単なる知り合いでは済まないだろう。


「真結に友達が居るなんて、本当に嬉しいよ。それも、妻のことを話せてしまうほど信頼できる友達が」


 そういう訳で「友達」という表現はかなり頑張って絞り出したものだったのだが、啓吾さんはそれを聞いて、部屋が明るくなったかと錯覚するほど嬉しそうな顔をした。


「真結、という名前はね。人と真実の結びつきが生まれますように、という意味なんだよ。私も妻も、人付き合いはあまり上手くなかったから、娘はそんなことが無いように、という願いを込めた。結局社交的とは言えない娘になったけれど、そうか。友達が居るんなら、良かった」


 何度も頷いて、色麻のお父さんは一人満足した様子だった。


「私と妻は高校生の時に同じクラスでね。どちらも友達は多くなかった。あの時にもう少し勇気を出して友達を作れていればと二人でよく話したものだよ」


 薄々感づいてはいたが、どうやら相当な話し好きらしい。まぁ、どれも興味深い話なのが幸いだが、とにかくべらべら喋る。

 妻が出ていった話が普通ドン引きされる話題だと分かっていて話してしまうのだから、相当なものだろう。


「まぁ、色麻さんとは、仲良くさせてもらってます」


 まぁ、仲良くしているのは間違いじゃないはずだ。

 今日も喧嘩を止めてもらってしまったし、やっぱりそれで知り合いレベルだと言うのは流石に無理がある。


「どうだい、真結は好きな人とか居るのかな。私はあの子の花嫁衣装を見るのが何よりも楽しみなんだが」


「さぁ、どうですかね」


 白無垢を着ている色麻の姿をイメージする。眼の前に居る人が甚平を着ているからだろうか、ウェディングドレスよりも白無垢が浮かんだ。確かに似合いそうだなぁと思う。


 それから、胸がちくりと痛んだ。


 考えてみれば、啓吾さんの願いは「叶わない」のだ。

 仮に、色麻がこれから先結婚することになろうとも、異世界には白無垢もウェディングドレスも無いし、お父さんも居ない。


「もしかして、君がその相手だったりしてね」


 冗談めかして、啓吾さんが笑う。

 俺も、無理やり笑った。


 ごめんなさい。

 心の中で謝る。


「ただいまー」


 噂をすれば、影。


 見れば、窓の外は空気が橙色に染まり始めていた。帰宅部ならば、家に居てもおかしくない時間。


「あれ、お父さん、何で客間に……」


 いつもより、声のトーンがやや甘い。家族と話す時というのは、誰もがそうなるものだが、少し子供っぽい印象を受ける。


 色麻が、帰ってきた。

 色麻真結が。

 そして、俺を見て固まっている。


「え……どうして亘理くんが居るの?」


「えっと、お邪魔してます」


 何と説明したら良いのやら。取り敢えず挨拶だけはしておく。


「そういえば、名前を聞いていなかったな。亘理くんか。そうだな、うん。亘理くん。良ければ家で夕飯を食べていかないかい?」


 天然なのか、わざとなのか。啓吾さんは、色麻が益々混乱しそうなことを言い出す。というか、俺も驚きだった。


「流石に、迷惑じゃないですか? な、色麻!」


 啓吾さんに聞くと絶対快諾しそうだったので、色麻(娘)に話題を振る。


「三人分くらいなら作れるわよ」


 色麻は口元に手を当て、何かを思い出していた、冷蔵庫の中身でも確認しているのだろうか。


 というか、料理できるんだな……。まぁ、二人暮らしだったら、作れてもおかしくはないか。


「でも、亘理くんはそれで良いの?」


 色麻の瞳が不安げに揺れる。


 それは言外に「異世界に行くまで限られた数しかない食事を、私が作ったもので消費して良いのか」と聞いているようだった。


「女子の手料理なんて初めてだし、むしろ望むところだ」


 断る理由も無かったし、そうした時の色麻父娘の残念そうな顔が容易に想像できて、俺は誘いを受けることを決めた。

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