第16話 本と色麻家
結局、俺は加美ちゃんへ返事をすることが出来なかった。固まっている俺を見て、加美ちゃんは「ごめん」とだけ言ってその場を去ったのだ。正直、その対応は俺にとっても有難いものだった。
ずっと友達でいたいと言われても、世界単位で疎遠になることは最早決定事項なのだ。出来ない約束をするのは、流石に人としてどうかと思う。だから、俺は返事が出来なかった。
いや、それだけでは無いのかもしれない。
俺はきっと、急に終わってしまった恋に、頭の整理が出来ていないのだ。だから直ぐに「これからは友達だぜ!」とは言えなかった。
ゲームセンターにも居辛い感じがしたので、俺はまた適当に街をぶらぶらした。道行く人には、俺はどんな風に見えているんだろうか。プー太郎か、暇な大学生か。不良と思う人もいるかも知れない。何にせよ真っ当に生きている奴とは思われないだろう。
何だか自然と、自嘲的な笑みが浮かんでくる。
「わ、と、と」
すると、曲がり角で人とぶつかりそうになる。
「申し訳ない。大丈夫ですか?」
「いえ、こっちもぼーっとしていて……」
返事をしようと、その人を見る。
ぶつかりそうになった相手は、ダンディな中年男性だった。甚平を着て、下駄を履くその姿は、何だか明治の文豪をそのまま現代に連れてきたような印象だ。
その印象の通り、彼は近くにある羽佐間市図書館で借りてきたであろう大量の本を運んでいた。両手に持った大きなエコバックには、はみ出しそうな程に分厚い本が入っている。
「それでは」
おじさんはそう言うと、カカシのような体勢で、ゆっくり歩いていく。線が細いし、あんな量の本を運ぶのは大変なのだろう。
何だか、絵に描いたようなシチュエーションだな、と思った。これが女の子だったら、尚の事良かったのに。仮にそうなら、ちょっとした恋愛小説の一つや二つでも始まりそうである。
別に手伝う義理は無い。そう思っていたのだが。
「良かったら、お手伝いしましょうか?」
どうしてか、俺はおじさんへ声を掛けた。何だか、善業をしたい気分だったのだ。自分の情けなさを見ないで済むイベントが欲しかったとも言えるだろう。
俺の言葉を聞いて、おじさんは歯車で動いているかのようにぎこちなく振り返った。
「……頼めるかね」
その額には、じっとりと汗が滲んでいる。
頷くと、エコバックを片方手渡された。
一瞬、落としそうになる。
重い。予想以上に、重い。どんだけ本を詰め込んだんだ一体……そもそも、一度に借りられる本は二十冊までじゃなかったのか。
「仕事柄、調べ物をすることは多くてね。私は特別幾らでも借りて良いことになっているから、どうにも借りすぎてしまうんだよ」
隣を歩くおじさんが、眉を歪めて苦笑する。短く切り揃えられた白髪交じりの頭が、強い太陽の光を受けて不思議な輝きを見せた。
「何の仕事をしてるんですか?」
「……小説家だよ」
おじさんは少しだけ躊躇ってから、そう答えた。
自信の無さそうなところを見ると、売れない小説家なのだろうか。
「どんなの書いてるんですか?」
そう聞くと、おじさんは目を閉じてしばし考えてから
「この街の伝承を元に、冒険小説を書いたのが代表作といえば代表作かな」
と答えた。冒険小説というと、俺が結構読むジャンルである。もし学校の図書室に所蔵されているのなら、読んだこともあるかもしれない。
「タイトルは?」
「タイトルは『旅立つ僕らは』っていうやつだよ」
おじさんは、昨日食べた夕飯の話でもするかの如く、何も気にしない様子でタイトルを口にした。
「え、『旅立つ僕らは』?」
俺は思わず、そのタイトルを繰り返してしまった。
だって、それ、この前テレビで見たぞ。今映画化する計画が進んでるって。十年前のベストセラー作品が遂に映画化って。
「この道を右に行ったところだ」
動揺する俺をよそに、おじさんは軽くなった身体でずんずんと進んでいく。何だか、物凄い人と関わり合いになってしまったな。
「……あれ?」
ふと、辺りの景色が目に入る。
おじさんの話に集中しすぎて気が付かなかったが、ここら辺、妙に見覚えがあるな。まぁ、俺は生まれも育ちも羽佐間市だから、この街で見覚えが無いところの方が少ないのだが。それにしても、最近見たばかりの景色のような。
「娘の為にも、まだまだ書いて稼がなければならないからね。本を持ってくれて本当に助かったよ」
おじさんは俺に笑いかけて、自宅の門に手をかけた。表札には『色麻』の文字。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。私は色麻 啓吾。どうだい。ちょっとお茶でも飲んでいかないか?」
そう言って俺を見る黄金色の瞳は、明らかに色麻真結のそれと同質のもので。
「え、あ、はい……」
俺は世間の狭さを実感したのだった。
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