第8話 退部とトイレ

 色麻と深夜にあそび山へ行った、次の日。


 俺は、サッカー部を退部した。

 朝一番に顧問の先生から退部届を貰い、その場で書いて提出したのだ。


 顧問の先生は男子バトミントンと掛け持ちで、サッカー部の活動に熱心な人では無かったから、結構退部届はすんなりと受理された。

 軽く理由を聞かれはしたが「新しく同好会を作りたい」と嘘をつくと、それ以上問いただされることもなかった。


 学校にも部活にも行ってしまったら、未練を解消する時間が無くなってしまう。それに、東也と会うのも正直避けたかった。


「おはよう!」


 しかし、同じクラスだから、加美ちゃんとはどうしても顔を合わせてしまう。

 朝早く学校に来てしまった俺に加美ちゃんが挨拶をするのは、当然のことで。前なら朝の挨拶一つで大喜びだった俺も、今となっては二人の口づけがフラッシュバックするばかりだ。


「お、おはよう……」


「あれ、亘理くん元気ないね。どうかした?」


 加美ちゃんが俺の様子を見て、心配したような表情をする。どうやら、昨日俺が二人のことを目撃したのに気付いたのは、東也だけだったらしい。そして東也は、そのことを加美ちゃんに隠したようだった。


「いやー、ちょっと寝不足でさ」


「えー、駄目だよ寝ないと。私の子守唄、弟に結構評判が良いから陸くんも寝かしつけてあげよっか?」


 加美ちゃんは冗談めかして、歌うような仕草を見せる。3歳ほどの幼い弟の事を思い出してか、彼女は聖母のような微笑みをたたえていた。


「……」


 どうせ身も心も他の男のものなのに、どうしてこんな態度が取れるんだろうか。彼氏と二人きりの帰り道を邪魔するゴミムシにも優しくしなければ気が済まないのはむしろ残酷な気がしてならない。


「どうかしたの?」


 加美ちゃん不安げに俺の顔を覗き込む。

 しまった。決して彼女が悪いわけではないのに、無意味な思考に囚われてしまっていた。


「何でもない……です」


 なんだか罪悪感を覚えてしまって、敬語で話してしまう。

 すると加美ちゃんはぷっと噴き出した。


「やっぱ陸くんって面白いよね」


「はは……」


 俺は苦笑いして、会話を打ち切り、立ち上がった。


「どっか行くの?」


「お手洗い」


 そう言って、俺は教室から逃げた。


 薄暗いトイレの個室に入り、ひび割れのある便器をじっと見つめる。

 あれだけ嬉しかった「面白いね」という言葉も、何だか今は空虚な響きに思えてくる。というか俺が夢見がちだっただけで、本当はずっと、あの言葉にさしたる意味なんて無かったのだろう。


「あぁ……もうこんな場所、居たくねぇなぁ……」


 異世界へ行くのは四日間待たなければいけないから、せめて学校からは逃げたい。本当に、休み時間が憂鬱だ。


 そうやって一人俯いていると、携帯が鳴った。重く響くバイブレーションと共に、俺の心臓も大きく跳ねる。


 もしかして、サッカー部を退部したことがもうバレてしまったのだろうか。先生にはいかにも「もう部員とも相談して決定済みですが?」といった顔で届け出をしたので、放課後まではばれないだろうと思っていたのだが……。


 緊張しながら、携帯の電源を入れる。

 メッセージは、色麻からだった。


『放課後、図書室に集合』


 最低限度の、無機質な連絡に、胸を撫で下ろす。

 こんな狭く暗いトイレに閉じこもって、自分のしたことを追及されるのを恐れる。俺はどこまでも情けないやつだ。


 しかし、どんなに情けなかろうと、怖かろうと、もう行動は起こしてしまった。


 これから授業が始まるが、もう下らない数式など異世界では何の意味も持たないのは分かりきっているので、聞く耳を持つ必要はないだろう。

 ……いや、高校レベルの数学を異世界へ持っていったらひょっとして大数学者とかになれたりするのだろうか。


「はは……」


 幾ら不思議な体験をしたからといって、夢物語というか、絵空事というか。「異世界へ行く」なんてことを信じ込んで行動している自分に、小さく乾いた笑いが出てしまう。


 改めて考えると、どうして俺は色麻の家に行ったんだろうか。自棄になっていたのもあるが、やはり心の何処かで、俺は思っていたのかもしれない。

 別の世界へ行きたい、と。遠い何処かへ消えたい、逃げたいと。


 結局、その日も俺の授業態度は別段大きく変わることはなく、そのまま放課後になった。


「それじゃあ、さようなら」


 先生が、ホームルームの終了を告げる。時刻は三時半。今日は職員会議がある関係で授業が短く、本来ならば生徒が部活に精を出す日だ。


 しかし俺はというと、直ぐに図書室へ向かった。理由は勿論、サッカー部の面々と会うことを避けるためだ。


 どの道いつかは説明を求められることは分かりきっている。東也も理由に心当たりはあるだろうが、間違いなく直接聞いてくるだろう。


 でも、俺は説明もしたくなかったし、顔を合わせるのも嫌だった。東也を憎んでいるとかそういうことなのか、今じゃもう分からなくなってきた。ただ一つ分かることは、俺は異世界に行くし、東也から逃げたい。そういうことだ。

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