第2話 好きな人とカフェ
自転車に乗って、帰宅。帰り道は下り坂なので、風が気持ち良い。衣替えしたばかりの夏服の袖から、新鮮な風が通ってくる。夕暮れ時の街を眺めていたら、図書室での恐怖体験の記憶も、次第に薄れていった。
「よー、陸君。どうだい、おやつ買ってかない?」
そうして坂を下り商店街を通ると、偶然外に居た和菓子屋のおじさんが話しかけてきた。小学校五年生の職業体験で行ってから、高校一年生の今まで、俺とおじさんは会えば話すくらいの仲だ。
母がここの和菓子をえらく気に入っていることもあり、俺はもう常連である。
「いや、今日は良いよ」
しかし、今日は別に頼まれても居ないし、甘いものを食べようという気分でもなかった。
「ありゃ、そうかい。気をつけて帰りなよ」
おじさんは笑顔で軽く手を振り、店内へ入っていく。自動ドアが空いた瞬間、この店の主力商品がちらと見えた。
異世界まんじゅう。
名前が妙なだけで中身はただの黒糖まんじゅうなのだが、味が良いのもあって、羽佐間市の土産物としては最もポピュラーなものの一つだ。
「異世界、か……」
薄れていたはずの色麻の顔が思い浮かぶ。
更に自転車を漕ぐと、見慣れた羽佐間駅前の景色が迎えてくれた。駅から出ていの一番に目に入るであろう古びた看板には『異世界の町 狭間市』と書いてある。
「あれ、亘理君?」
立ち止まって看板を見ていたら、背後から話しかけられてしまった。それも、聞き覚えのある声。忘れようもない声だった。
「加美ちゃん、どうしたのこんなところで」
平静を装い、自分が出来る最大級の笑顔で、振り向く。
やっぱりそこに居たのは、加美ちゃんだった。
「まぁ暇つぶしっていうか、ぶらぶらしてた」
加美ちゃんは「わたし、めちゃくちゃひまー」と言って、訳もなく笑った。青みがかった黒髪がサラリと揺れて、花にも似た甘い香りがする。
「そっちは何してたの?」
長いまつ毛で何度か瞬きして、加美ちゃんは俺の様子を不思議そうに観察した。
確かに、今更こんな看板をまじまじと見る男子高校生は、そう居ないかもな。
「いや、異世界の町って文言が、改めて考えると胡散臭いっていうか、妙っていうか……」
「あー、まぁ、確かにね。私達が生まれた頃だから、いち、にぃ、さん……大体十五年前くらいになるのかな、異世界で町おこししてたのは」
加美ちゃんは形の良い指を折り曲げて、年月を計算した。
そう、十五年前だ。羽佐間市は、歯止めのかからぬ人口減少への対抗策として『異世界伝承』についてアピールしようとした。この地域は何故か全国でもここでしか見られない不思議な古文書や昔話が残されており、その伝承が現代で流行っている、所謂『異世界モノ』の設定に酷似しているのだ。
ヨーロッパ風の建築に、海外の神話などを元に作られたモンスター。そんな描写が、当然のように古文書として残されている。その上、神隠しに関する伝承も多数存在するので、羽佐間市にはこことは違った世界に通じる何かがあるのではと考える人すら出た。
小学校でその伝承についてのフィールドワークを行ったことなどもあって、この町の若者は、みんな多少なりとも異世界について関心がある。しかし、肝心の町おこしは成功したとは言い難く、残っているのは古い看板と、異世界と名のついただけの土産物だけだ。
「私は結構、ロマンチックで、好きだけどなぁ。異世界の町って」
加美ちゃんも俺の隣に立って、看板を眺める。肩が触れそうな位置に、俺は緊張してしまって、身体が上手く動かなくなる。
「あのさ」
頑張って何か言おうとすると、少し声が裏返ってしまう。でも、出てしまった声は戻ってはくれない。
「なんていうか、えっと、コーヒーでも飲まない?」
俺が思い浮かべたのは、この前友達に教えてもらった、ちょっと小洒落たカフェだった。確か、駅前だったはず。
「コーヒー?」
突然の誘いすぎたのか、加美ちゃんはきょとんとした顔で俺を見ている。しまった。何だかもうちょっと話をしてからの方が良かっただろうか。自分の頭が熱くなってゆく感覚。
何か、誘う理由を見つけなければならない。何か無いだろうか。ふと、看板を見る。そうだ。
「ちょっと聞きたいことがあるんだよ。その……色麻 真結さんって知ってる?」
木目が美しいダークブラウンのテーブルに、真っ白なコーヒーカップ。何だかいかにもカフェ、といった雰囲気に、少し気後れしてしまう。
「お洒落なお店知ってるね。良く来るの?」
向かいの席の加美ちゃんは、きょろきょろ辺りを見回して、楽しそうだ。棚やカウンターには可愛い雑貨が並んでいるし、もしかしたらそういうのが好きなのかもしれない。
「いや、教えてもらった店なんだけど、一人じゃ入りづらかったから」
「確かに、一人は厳しいよね」
加美ちゃんはうんうん頷いて、手元のコーヒーに視線を落とす。
「良い香り」
微笑み混じりの妙に湿っぽい呟きが、耳に残る。
勇気を出して誘ってみて、本当に良かった。二人用の席で加美ちゃんがコーヒーを飲んでいる現実に、俺は強く感動してしまう。デートと言っても過言ではないんじゃないだろうか、これは。
「それで、色麻さんがどうかしたの?」
熱々のコーヒーにふぅふぅ息をかけ冷ましながら、加美ちゃんは俺をちらと見た。
何だか、現実に戻された感覚。そうだ。俺は色麻の話をするということで加美ちゃんを誘ったんだった。
「まぁ、何ていうか、どういう人?」
「うーん……実は、私も話したことは無いんだよね。友達から噂は聞いてるけど」
加美ちゃんは口元に手を当てて、何かを思い出している様子だった。
「有名なの?」
「まぁ、ある意味。その、普段は大人しいっていうか、目立つタイプじゃないんだけど、クラスの……何ていうか、オタクっぽい人が持ってる漫画とか小説に凄い反応するらしくて」
どうやら色麻のあの態度は、俺限定、というわけではないらしかった。異世界に少しでも興味がありそうな人には、誰でも話しかけるということなのだろうか。
「それで一緒に異世界に行こう、とか誘ってくるんだって。突然連絡先を教えてくるもんだから、皆怖がっちゃってさ。今は教室でぼっちみたいだよ」
優しい加美ちゃんは悲しいことのように話していたが、実際に色麻と話した俺からすると、正直教室でぼっちになるのも当然の事のように思えた。だって、本当に怖いし、あいつ。
「実は俺も、連絡先を渡されたんだよ。何が何だかさっぱり分からなかったから、ちょっと知りたくてさ。ありがとな、教えてくれて」
俺は適温になった抹茶ラテを啜った。コーヒーを飲まないかと言った割に苦いのが苦手なのは秘密である。
加美ちゃんは「どういたしまして」と言いながら、意味ありげに俺の抹茶ラテをじっと見ていた。
「……飲みたいの?」
そう問いかけると、加美ちゃんはびくりと反応する。
「……ちょっと、飲んでみたいかも」
加美ちゃんが照れくさそうに笑うので、俺も笑顔で返す。
「じゃあ、情報料ってことで、どうぞ」
抹茶ラテを差し出すと、加美ちゃんは恐る恐るカップを手に取った。
「なら、遠慮なく」
とろけるように艷やかなコーヒーカップの縁が、同じくらい艷やかな加美ちゃんの唇に触れる。ラテを飲み込む喉の動きまで観察してから、俺は目を奪われている自分に気が付いた。
「美味しいね」
加美ちゃんが邪念の欠片もなく嬉しそうにするので、俺は目を逸らして心を落ち着かせる。意識したら負けのような気がして、抹茶ラテを返してもらってから直ぐに口をつけた。
別に、これくらい普通だろ。
自分にそう言い聞かせて、俺は心なしかさっきより甘くなった抹茶ラテを飲み干す。でも、窓には真っ赤な顔をした自分が映っていた。
窓際の席。
明日教室に行ったら、噂になっていたりしないかなぁ。そんな妄想をしてしまう。きっと、同じクラスの俺と加美ちゃんは、皆にからかわれること必至だろう。
仮にそんなことがあったら、今、目の前でコーヒーをかき混ぜる彼女はどんな表情を見せるだろうか。
「もし、色麻さんのことで何かあったら、いつでも相談してくれていいからね」
コーヒーを飲み終えた時、加美ちゃんは俺にこんなことを言った。俺はこれ以上色麻に関わる気などさらさら無いので、相談するような事態にはならないだろう。
でも、こういう時間が過ごせるのならば、色麻に絡まれたのを含めてもお釣りが来る。
「まぁ、何かあったら、相談する」
俺は曖昧な返事をして、でも、間違いなくその「何か」を見つけて、絶対ここにまた二人で来ようと、そんなことを考えた。
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