となりの悪女ちゃん

キリン🐘

となりの悪女ちゃん


 ピピピピピピ


 深くまどろんだ意識がアラームの無機質な音によって引き上げられる。何度聞いても、気に障る、嫌な音だ。


 肌に直に触れるシーツが冷たい。

 時計は「AM 9:20」を指していた。アラームは9時にかけていたはずなので、どうやら一度では起きられなかったらしい。


 ふと、ローズとベルガモットが混ざった香りが嗅覚を刺激した。

 

 隣を見ると、一人の女が眠っていた。

 つややかやかな黒い髪を垂らして、憎らしいほど幸せそうな寝顔をしている。こうしておとなしく寝入っているときに限って言えば、彼女はとても魅力的だと思えた。


「ううん、しんちゃん……おはよう……?」


 彼女が起きた。寝ぼけ眼をこすりながら、いたずらっぽく笑った。

「……ははぁ、さては私の寝顔に見とれてたなぁ? あはは、冗談。怒らないで?」

 つんつんと指先で俺の脇腹をつついてくる。

 よくぞ寝起きでそこまで魅力的な笑顔を作ったものだ。



 俺は3年前、大学内で一番人気と名高い、琴美と付き合った。

 顔がかわいいのはもちろんのこと、時折見せるさりげない気遣いに、勘違いした野郎どもは履いて捨てるほどいたのだろう。かくいう俺も、そんな野郎の一人だった。

 これと言って目立つところのない俺ではだれが見ても不釣り合いなほどだった。当時の俺は鼻の下を伸ばし切っていたに違いない。告白して琴美が縦にうなずいた時の、明るい表情と一緒に揺れる明るい髪がとても印象的で、今も脳裏に焼き付いている。



 そして琴美と付き合って少し時間が経った頃、いつの間にか俺は彼女のおもちゃのような存在になっていた。きっかけは……、よく覚えていない。本当にいつのまにか、だった。


 大学を卒業してお互いに就職した後も、関係は続いた。それで、今に至るというわけだ。

 彼女に遊ばれながらも俺が関係を続けているのは、ある種の居心地の良さを感じているからなのかもしれない。悪趣味だと、我ながらに思う。

 

「しんちゃーん。拗ねてないで、こっちおいで?」

 両腕を左右に広げて待ち構えている。何度も聞き慣れた、甘えた声だった。


「いや、そろそろ起きてくれ」

 上目遣いにねだる彼女を尻目に、無造作に立てかけられた服の中から、今日着る予定だったシャツとパンツを探す。

 背中から聞こえる声を無視して捜索を続けていると、そのうち見つけることができた。


「お、あった」

ハンガーからシャツを外そうとしたその時……、


「えーい」

 不意に、後ろから抱きつかれた。


 抱きつかれたとはいっても、体を動かせばすぐに振りほどけるくらい緩い力だったが、受け入れることにした。背中に伝わる柔らかな感触に、胸がざわついた。もとより拒む気などなかったのかもしれない。


「ねー、いいじゃん。もう少しくっついていよーよ」

「だめだ。昨日言っただろ、今日はこれから出かけるって」

 一度はっきりと断ってみた。そうでもしないと、いつものようにそのまま流されてしまいそうだ……。


「確かに言ってたけどー……。ねー、ねー、」

 すぐ近くで声がする。吐息交じりの彼女の甘ったるい声は、耳をくすぐった。


 こうなってしまってはうまく拒む手段が見つけられなかった。迷った末にとりあえず黙って、手に持ったシャツに合うパンツ探しに専念することにした。


「ふうん、無視する気だね? いいよ、こっちにも考えがあるし」

 その言葉の後、ベッドのきしみを感じたと思うや否や、


 かぷっ


 という音がすぐ耳元で聞こえた。

 彼女が耳にかぶりついてきたのだ。艶やかな舌と唇の感触がいやに生々しく感じられた。


「やめろ」

 情けないほどに背筋をびくっと振るわせて、精いっぱい虚勢を張った。

 どうせ、虚勢を張っているのも、彼女にはお見通しなのだろう。


「ええー、嫌なの? でも、そんなことないよね」

 彼女は、いたずらっぽい笑顔を浮かべた。彼女の手は脇を、背中を、胸を、首を優しく這った。

 腹の奥から、熱を持ったドロドロとしたものがせりあがってくる。

 言葉で押し返す気力も失せた俺は、なにもせず黙ることにした。今口を開くと、情けない声を出してしまいそうだった


(今日のために、あちこち駆けまわって記念日のプレゼントを用意したんだけどな)


 もともと、休日にもかかわらず早く起きて出かけようと思っていたのにも理由があった。俺なりのプランというものがあったのだ。


 何気ないデートの最後に、とびきりのプレゼントを贈る。そうして琴美を喜ばそうとしたのだ。その気持ちは、確かに本物だったと思う。


 しかしそんな脆い考えも、耳と背中に伝わるあまりにも柔らかい熱の前に、散り去ってしまった。


「ねー、答えてよう」

 彼女は体をこすり合わせるようにベッドの上を這い、俺と目が合う位置に移動していた。


 気付けば俺は顔を寄せ、目の前にある形の良い唇に吸い込まれていた。


 ローズの香りがした。


 ◇


 再び時計を見ると、時刻は「AM 11:00」を示していた。

 正午の待ち合わせには、ギリギリになりそうだった。本当は早く家を出て、ちょっとした花束でも買っていこうと思っていたのだが。


 彼女はすでに起き上がり化粧をしていた。女というものは、こうも切り替えが早いものか。


 彼女を見ていると、胸の内は何度も絵筆を洗った水のように、どす黒い色の気持ちが渦巻いた。余韻と罪悪感とが混ざり合って、もはや実態のわからないものになっていた。

 もう、澄んだ色には戻せないのかもしれない。


「それじゃ、今度こそ出るぞ。これ以上遅れると、待ち合わせに遅刻しかねない」


 彼女といるといつもそうだった。思考はまとまらず、感覚は鈍り、そのくせ体の内側から打ち寄せるくぐもった熱は、なによりもはっきりとその存在を主張した。


「あ、ちょっとまって、一瞬だけ……」

「なんだよ」

「いいから。ちょっとだけ、ね?」


 言い合いになると負けてしまうことは分かっていたので、さっさと彼女の指示に従うことにした。

「……時間がないからさっさと済ませてくれよ」

「あら、さっさと済ませていいの?」

 悪戯っぽく笑う。やはり、俺は彼女にとっては、ていのいいおもちゃなのだろう。


 ふと気づいたときには、顔がすぐ目の前まで迫っていた。彼女の黒く長い髪が揺れる。いつの間にこんなに近づいてきたのだろうか。


「力抜いて、ね」

 彼女は、俺の首に腕を絡めると、唇を寄せ、ささやいた。その動きは獲物を捕らえる蛇のようにしなやかで、素早かった。抵抗する間も与えられなかった。

 ローズの香りは、先ほどよりもきつく感じられた。


「……っ」

 彼女の体温を感じた次の瞬間、首に鋭い痛みが走った。


「フフ、それ、私からのプレゼント。琴美には見つからないようにね」

 彼女は目を細め、微笑んだ。それは、自分の心の内をすべて見透かすような、俺の苦手な表情だった。


 痛みがした箇所へ手を当ててみると、少量の血が指に付いた。首を噛んだのだ。

 彼女はいつもそうだった。俺の周りを付きまとい、逃げ場を塞ぎ、息を詰まらせ、やがて痛みを植え付けて去っていく。


「はいおしまい。それじゃ、行こっか」

 彼女は何事もなかったかのように玄関へ向かった。


「それで、琴美とはうまくやっているの?」

「……それなりにはな」

「やるじゃん。まさか琴美としんちゃんが、ここまで続くとはね」


 よくも白々しく聞けたものだ。


「琴美に言っといてよ、親友の麻里も元気にしてたよ~って」

「自分で言え」

「それもそっか」



「それじゃ、琴美とのデート楽しんでねっ」

 麻里はそう言いって、さっさと帰ってしまった。

 

 ◇


 電車を降りると、待ち合わせ場所まで一直線に向かった。

 外は朝とは打って変わって驚くほど暖かかった。人の手によって整然と植えられた木々が太陽の光を散り散りに反射して、白い光を放っていた。


 いつもは爽やかに感じていたこの景色が、今日は、後ろ指を指して笑う群衆のように見えた。


「あ、慎一! こっちこっち!」

 琴美が屈託くったくのない笑顔で俺を迎えた。今日も緩く巻いた明るい髪がよく似合っている。

 ベルガモットの柑橘かんきつ系の香りも、まさに彼女のイメージにぴったりだった。

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となりの悪女ちゃん キリン🐘 @okurase-kopa

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