第855話 改心中のドラ息子(前編)
バッケンハイムでパン屋を営むホルガーとロッテ夫妻は、息子が使っていた部屋を駆け出し冒険者のための下宿として貸し出している。
使う当てのない空き部屋だったし、希望すれば売れ残りのパンも付けて格安で貸している。
冒険者という仕事は、大成する者ばかりではない。
特に駆け出しの頃は、冒険とはまるで関係の無い肉体労働で稼ぐ事の方が多いぐらいだ。
ギルドで魔法や剣術の訓練を受けて、実際に討伐の依頼で生計を立てられるようになるのが半数程度、腕利きと呼ばれる冒険者になるのは更に半分以下だろう。
魔物の討伐は、一つ間違えば狩る側と狩られる側が逆転する。
ゴブリンどころか、オークやオーガだって単独で討伐できる冒険者でも、ちょっとの油断やアクシデントで命を落とすことだって少なくないのだ。
一ヶ月ほど前、それまで下宿していた冒険者が行方知れずとなり、空いていた部屋に新しい下宿人がギルドの紹介でやってきた。
ディーニと名乗ったウサギ獣人の少年は、季節外れに冒険者として登録したばかりで、礼儀正しく挨拶してきたが、見るからに訳ありといった様子だった。
ギルドの紹介なので、例え下宿代を踏み倒されたとしても、ちょっと補填されるから金銭面の心配は要らないが、受け入れて早々に行方知れずになるのは気分が良くない。
受け入れてから一週間ほどは、早朝に前日の売れ残りのパンで腹を満たしてギルドに向かうのを見送ると、今夜は帰って来ないのではないかと心配したものだ。
それほどディーニは思いつめた表情をしていたし、尋ねても事情を明かしてくれなかった。
「ようやく憑きものが落ちたみたいだな」
「ホントに、最初の頃はハラハラさせられたわ」
ディーニの様子が変わったのは、下宿を始めて一週間ほどしてからだ。
それまでは、自殺するか、強盗でもしでかすかと思うほど張り詰めた様子だったのに、その日に何があったか分からないが、すっかり肩の力が抜けて戻ってきた。
その様子をみたロッテは、死神から解放されたみたい……とホルガーに伝えたほどだ。
ディーニの様子が変わったのは、同年代のCランク冒険者コンビと知り合い、今後の活動についてアドバイスを得られたからだ。
同年代どころか年下の二人は、ディーニよりも遥かに多くの経験を積み重ねていて、話している間に何度も目から鱗が落ちる思いをさせられた。
ディーニの抱える事情は、実家にあった公金の使い込みで、期日までに使い込んだ金額と同額を稼がなければ、家から勘当されてしまう。
目標額は三十万ヘルト、十五万ヘルトの資金を与えられているが、あくまでも元手であって、ディーニは最終的な金額に加える気は無い。
それに、駆け出し冒険者ならば、十五万ヘルトあれば一年間暮らしていける。
生活費を気にせず、単純に三十万ヘルトを稼ぐと考えた方が分かりやすいと、ディーニは考えたのだ。
ディーニは、Cランク冒険者のコンビからもらったアドバイスを早速実行に移した。
まず指摘されたのは、基本的な体力の欠如、基本的な知識の欠如、戦闘能力の欠如、そして経験不足だ。
どれもこれも、ぐうの音も出ないほど正論だった。
Cランクのコンビに出会うまで、ディーニはゴブリンよりも金になるオークを死に物狂いで倒して稼ごうと考えていた。
不意打ちを食らわせれば、駆け出し冒険者の自分でもオーク程度は倒せると、ディーニは考えていたが、現実は甘くなかった。
そもそも、オーク討伐の依頼が受けられないし、なぜ受けられないと受付嬢に抗議していたら、ベテラン冒険者に因縁をつけられた。
教育と称して叩きのめされたが、そのおかげでCランクコンビと知り合えたから、収支はプラスだとディーニは考えていた。
ディーニは翌日から、己を鍛え始めた。
今から鍛えているようでは期日までに間に合わなくなるとも思ったが、今の実力のままでは間に合わないと諭されたのだ。
ギルドの講習を受け、講習の無い日は仕事に行く前に走る。
いざという時の逃げ足を鍛え、同時に持久力を向上させるためだ。
Cランク冒険者からは、一時間走り続けられるギリギリのペースで走れと言われた。
一時間程度ならとディーニは甘く見たが、実際にやってみると全く思うように走れなかった。
戦いの最中に動けなくなったら死ぬぞ……全然動けない自分の体力の無さに愕然とさせられたディーニは、更にトレーニングに力を注ぎ始めた。
一時間の持久走の後で、ギルドの掲示板に残っている肉体労働の依頼を受け、フラフラになるまで働いた。
下宿に戻ってベッドに倒れ込むと、あっという間に朝の鐘の音が聞こえ、起き上がるだけでも全身の筋肉が悲鳴を上げた。
そんな思いをして稼げる金は、四百五十ヘルト。
期日まで毎日続けても、目標額の半分程度にしかならない。
それまでの自分はどれほど恵まれていたのか、ディーニは痛感させられた。
そんな鬼気迫る様子で体を鍛え始めたディーニを見て、ホルガーとロッテはまた死神に憑かれたのかと心配したが、初期の筋肉痛から解放された辺りで胸を撫でおろした。
いまだに危なっかしい感じはするが、最初の頃のような切羽詰まった感じは影を潜めている。
ホルガーとロッテは、ディーニが良家の子供だと見抜いている。
見抜くなんて言うと大げさだが、洗濯の仕方すら尋ねてくれば、どんな生活をしていたのか想像は付く。
何らかの事情を抱えて、家から追い出されたのか飛び出したのかは分からないが、無駄に命を落とさないでほしいとホルガーたちは思っている。
一方のディーニは、ホルガーとロッテが、そのような思いで見守っていることには気付いていない。
一時の切羽詰まった精神状態からは抜け出したものの、まだゆとりを感じるほどの余裕はない。
その理由の一つは、同年代の冒険者と全くと言って良いほど交流が無いことだ。
バッケンハイムの学院で過ごしていた頃は、周囲にいるのは領主の縁者か富裕層の子息ばかりだった。
ディーニは自分から話しかけるのではなく、相手が話しかけてくるのを待つ立場だったので、コミュニケーション能力が欠落している。
Cランク冒険者コンビから、仲間を作れとアドバイスを受けたが、正直どうやって切っ掛けを作れば良いのかも分からない状態だ。
更にディーニは、ベテラン冒険者と揉めた事があるため、変に関わってとばっちりをうけるのは困ると、同年代の冒険者たちが警戒しているのだ。
それでも仲間作りよりも、今は自分の実力アップが喫緊の課題なので、切羽詰まるほどの焦りは感じていない。
その日、ディーニは朝の持久走を済ませた後で、二度目の水の日の戦闘講習を受けにギルドに向かった。
次の段階の講習に上がる基準は、どこのギルドも共通で、手合わせをして三人抜きする必要がある。
先週受けた時には、三人抜きどころか一勝するのがやっとだった。
訓練場には、まだ講師が来ていないので、ディーニは木剣の素振りをしながら待つことにした。
学院でも片手剣を使った剣術の授業があったが、両手剣は未経験だった。
最初の講習の後から、木剣を借りて素振りを続けているが、今ひとつシックリしない。
時々首を傾げながらディーニが素振りを続けていると、不意に横から声が聞こえた。
「腕だけで力任せに振るな、体全体を使って振れ」
ディーニが手を止めて視線をむけると、いつの間にか杖をついた小柄な老人が立っていた。
「爺さん、そんな所にいると危ないぞ」
「ほっほっほっ、そんな振りではワシには届かんよ。ほれ、もっと腰を入れて振れ」
「この……」
見下すように笑われて、ディーニは木剣で打ち据えてやろうかと思ったが、以前父から聞いた話を思い出した。
『バッケンハイムで恥を晒したくなかったら、ギルドをヨチヨチ歩いてる白髪の爺さんには気を付けろ。爺ぃの皮を被った化け物だったりするからな……』
ディーニは一つ深呼吸をした後で、丁寧な口調で話しかけた。
「ご老人、腰を入れるとは、どうすれば良いのですか?」
「ほぅ、ワシに教えを乞うか……いいじゃろう」
小柄な老人はニヤリと笑みを浮かべると、ディーニに手ほどきを始めた。
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