第820話 働くガセメガネ

 最近、ヴォルザードで自転車に乗った人をよく見掛けるようになりました。

 といっても、八木を頻繁に見掛けている訳ではなく、どうやらヴォルザードの人々に自転車の利便性が理解されつつあるようです。


 ヴォルザードの街中でのデモンストレーション走行では、八木のキャラクターも足を引っ張ってか、単なる変な奴だと思われていたそうです。

 状況が変わり始めたのは、八木がヴォルザードとラストックの間でデモンストレーション走行を始めてからのようです。


 ヴォルザードの街中では単なる変な奴だと思われていた八木が、人の足なら何日もかかる距離を一日で走破することで、役に立つ変な奴と思われるようになったそうです。

 更には、ラストックの守備隊が自転車を採用したことで、八木だけでは払拭出来なかった怪しさも解消されてきたようです。


 実際、自転車は乗れるようになるまでは慣れが必要ですが、乗れるようになってしまえば歩くよりも楽に遠くまで行けることに気付くでしょう。

 ヴォルザードの中だけでも、端から端まで歩くと結構な距離になります。


 それと、ラストックに向かう街道の野営地で、小規模な商売を営んでいる者にとっては、商品の補充が楽にできる運搬手段として活用されているようです。

 現在も、野営地内では固定された店舗を禁止しています。


 そのため、商人の殆どが馬車の荷台を改造して、店舗として活用しています。

 その店舗で商品が足りなくなった場合、これまでは一度馬車ごとヴォルザードに戻ったり、別の馬車で持ち込んだりしていました。


 ですが、馬車ごと戻ってしまうと、その間は商売が出来なくなってしまいます。

 かと言って、別の馬車を仕立てれば、余分なお金がかかってしまいます。


 そこで、注目されるようになったのが自転車の存在です。

 前カゴと荷台に荷物を積み、更に自分が背負ったりすれば結構な量の荷物を運べます。


 馬車は置きっぱなしなので、二人で商売をしている人ならば、店を閉める必要が無くなります。

 そして、馬車を仕立てて荷物を運ぶよりも、遥かに安上がりです。


 野営地で商売をする人が自転車を使い始めると、その様子を目撃した人が自転車に興味を持つという循環が生まれたようです。

 自転車が普及し始めたということは、さぞや八木が喜んでいるかと思いきや、なかなか思い通りにはいかないようです。


 乗り慣れない人が、荷物を満載して自転車を運転すれば、当然発生するのは事故です。

 事故が起こらなくても、僕らが考える以上の荷物を積もうとすれば、色々な部品に負担がかかってきます。


 つまり、八木は自転車の修理に追われまくっているそうです。

 タイヤ、スポーク、ブレーキ、ワイヤー、チェーン……日本から、補修用の部品を大量に取り寄せているようです。


 八木にそんな金があるのかと思いきや、例の僕へのインタビュー記事がWEBで読まれたことで得たインセンティブを活用しているようです。

 日本に戻れば金持ちなのに、なんでこんな苦労をしなきゃいけないんだとボヤいているそうですが、八木はそのぐらい働いた方が良いですよね。


 八木が奮闘する一方、その様子を見て動き出そうとしている人物から呼び出しがかかりました。

 向かった先は、ギルドの二階です。


「ケント、自転車をヴォルザードで作っても問題無いよな?」

「まぁ、問題は無いですけど、実用化レベルにするのは大変だと思いますよ」

「それは職人たちが何とかするだろう」

「そうなんでしょうけど……」

「なんだ? 何か文句があるのか?」

「八木の新事業について、あれこれ駄目出しをしていたクラウスさんが、儲けを掻っ攫うのはどうなんですかねぇ……」


 八木がレンタルサイクル事業を展開しているのに、ヴォルザードで新車が生産、販売されるようになったら、今以上の事業拡大は難しくなるはずです。


「ユースケが食っていけなくなると思ってるのか?」

「食えなくなるとは思いませんけど、儲けは大幅に減るんじゃないですか?」

「その心配は要らないだろうな」

「でも……」

「まぁ聞け、そもそもお前も言っただろう、実用化レベルにするのは難しいって」

「あっ、そうか、開発を始めるとしても、販売されるのは先の話なのか」


 僕らにとっては当り前の存在である自転車ですが、それを一から作れと言われたら気が遠くなるほどの工程をクリアーしなければなりません。

 例えば、タイヤやチューブを作るにはゴムが必要ですが、ヴォルザードではゴム製品は見かけません。


 チェーンを作るには、細かい部品を高い精度で量産する必要があります。

 素材についても、フレームは鉄でも作れますが、ホイールのリムなどはアルミ製です。


「俺も実物を見たが、各部に高い精度の部品が使われている。あれと同程度の物が作れるようになるだけでも、ヴォルザードの物作りのレベルは何段も上がるはずだ」

「今のヴォルザードの技術では作れませんか?」

「無理だな。だから実用レベルの物が出来上がるまで、最低でも一年以上は掛かるはずだし、出来たとしても庶民がおいそれと手を出せない値段になるだろうな」

「つまり、八木の商売が脅かされるのは、何年も先の話ってことですか?」

「そういう事だ。それにユースケは、もう一杯一杯だろう」


 八木が自転車のメンテナンスに追われている現状では、これ以上の事業拡大は難しいと、クラウスさんには見抜かれています。


「ユースケには、助手を雇うようにギルドから働きかけるつもりだ。でないと、せっかく広まってきた自転車の需要に供給側が追い付いていけなくなるぞ」

「確かに、将来の心配よりも現状の問題解決が先ですね」

「ケント、ちょっとユースケの作業場に顔を出して、自転車の開発と助手の件を伝えてきてくれ」

「分かりました。八木が大人しいと何かやらかしそうですからね、ちょっと様子を見てきます」


 クラウスさんの執務室を後にして、影移動で八木がレンタルサイクル事業を始める時に借りた、貸出店舗兼作業場に向かいました。

 表側の店舗……といってもカウンターがあるだけなんですが、そこでは八木の嫁マリーデがお客の対応に追われていました。


 なるほど、一般のお客さんが増えてるんですね。


「てか、魔物使いケント・コクブ全面協賛って……」


 どうやら盗難防止、料金未払い防止などの脅し文句に使ってるみたいですね。

 裏手の作業場を覗くと、整備待ちの自転車やら交換したパーツなどに混じってエナジードリンクの缶が転がっています。


 そして八木はといえば、昭和の時代のテレビドラマに出てきそうな、くたびれ果てた工員のような姿で自転車の後輪の交換作業をしていました。


「おーっす、儲かってるみたいじゃん……って、臭っ! 酸っぱい臭いするぞ、八木!」

「あぁん、これのどこが儲かってるように見えるんだよ! 社畜、3K、真っ黒くろのブラックだ……おっとっと」


 立ち上がって叫んだ途端、八木はよろめいて片膝をつきました。

 顔色も土気色という感じです。


「うわっ、大丈夫なの?」

「大丈夫じゃねぇ、忙しすぎて死ぬ」

「そんなに修理が溜まってるの?」

「こっちの連中は常識ってもんがねぇんだよ。雑技団みたいに荷物を満載して走りやがるんだぞ。あんな使い方されたらチャリが持たねぇよ」

「で、修理に追われていると?」

「修理しねぇと貸し出すチャリが無くなっちまうからな」

「自転車増やしたら?」

「えっ?」

「だから、予備の自転車を増やしたら?」

「あぁぁぁぁ……そうだよ、増やせばいいんじゃねぇか」

「忙しすぎて馬鹿になっちゃってたんじゃない?」


 どうやら壊れた自転車を直すことに追われて、視野狭窄というか頭が回らなくなってたみたいですね。


「よし、国分、日本から自転車仕入れて来い」

「なんで僕が行かなきゃいけないんだよ」

「お前、俺様がこんなに苦労してるのに冷たいじゃねぇか!」

「八木が考えて始めた仕事でしょ。ちゃんとしなよ」

「面倒くせぇ……もう辞めてぇ……」

「おいおい、パパになるんだろう、シャンとしなよ」

「えー……」


 心底やる気が無さそう……なのは、八木の場合はいつものことです。


「クラウスさんが助手雇えって言ってたよ」

「でもよぉ、人を雇うとか面倒じゃね?」

「なら、このままの生活を続ける? 自転車増やしたら、修理の仕事も増えるんじゃない?」

「馬鹿、これ以上仕事が増えたらマジで死ぬわ!」

「だったら、さっさと人を雇った方がいいよ。それと、クラウスさんが自転車の生産に乗り出すけど良いかって聞いてたよ」

「いや、無理だろう。悪いけど、ヴォルザードの工業技術じゃ作れないだろう」


 修理に追われているだけあって、その辺りのレベルの違いを八木は体感しているようです。


「まぁ、すぐには無理だろうね。でも、技術レベルを向上させるために試作を始めたいみたいだよ」

「良いんじゃね。俺も部品がこっちで手に入った方が、何かとやりやすくなると思うし」

「じゃあ、クラウスさんにはオッケーって伝えておくよ」

「って、なに帰ろうとしてるんだよ。手伝っていけよ」

「僕は自転車の修理とかやったこと無いし、下手に手を出すと仕事増やすことにならない?」

「くぅ、なんで自転車の修理ぐらい出来ないんだよ」

「影移動を使えば、一瞬で移動できるから自転車必要ないし」

「くっそぅ、役に立たないチート野郎め、さっさと帰れ!」

「はいはい、てか八木は風呂に入りなよ。マジで臭いからね」

「うっせぇ、帰れ!」


 いつもだったら、僕が八木を追い払うのに、これはちょっと珍しいパターンですね。

 でも、八木にしては真面目に仕事しているようなので、ちょっとだけ安心しました。

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