第637話 人生の先輩


※ 今回は綿貫さん目線の話です。


「ただ……いま……」


 シェアハウスのドアを開けて、ただいまと大きな声で言い掛けて、慌てて声のトーンを落とした。

 昨日、たっだいま~……っと、元気よくドアを開けて、鷹山の娘リリサにギャン泣きされたのだ。


「おかえり、サチコ。今日は、向こうの部屋で寝かせているから大丈夫よ」

「良かった……また、昨日みたいに泣かれたらたまらないからね」


 出迎えてくれたのは、鷹山の嫁シーリアのお母さん、フローチェさんだ。

 フローチェさんは、シーリアと一緒にシェアハウスの管理人を務めてくれている。


 共用部分の掃除や頼んでおけば食事の支度もしてくれる。

 言うなれば、みんなのお母さん的存在だ。


「でも、サチコも今のうちから慣れておかないと駄目よ」

「そうですよね。もうすぐ出て来るんですもんね」


 私のお腹も大きくなって、そろそろ臨月が近付いている。

 自分の子供が生まれれば、夜中であろうが起こされて、ミルクを与えなければならない。


 言葉を話せない相手の意図を読み取って、ちゃんと世話してやらねば小さな命は失われてしまうかもしれないのだ。


「不安……?」


 小首を傾げるように訊ねてくるフローチェさんは、三十前後のはずだが、もっと若く見える。

 元は平民だったそうだが、リーゼンブルグの王様に見初められ、王城で暮らしていただけあって、えも言えぬ気品のようなものを感じる。


「ちょっと……ううん、正直に言うと凄く不安です」

「そうね、初めてのお産は不安よね」

「いいえ、出産は、えいやって産んじゃえばいいやって思ってるんですけど……ちゃんと愛してあげられるか」


 私が妊娠した経緯を打ち明けると、フローチェさんは抱き締めてくれた。


「辛かったわね……でも大丈夫、生まれてくる子供は間違いなくサチコの子供だから」

「あたしの……そうですね」

「私ね、将来を誓いあっていた人がいたの」

「えっ?」


 フローチェさんの唐突な告白に、理解が追いついていかなかった。


「まだ王様に出会う前、同じ村の羊飼いの男の子と、将来結婚しようって約束してたの」

「えぇぇぇ……それじゃあ、シーリアは……」

「ううん、まだ手を繋ぐのがやっとで、キスもしたことなかったわ」

「えっ……じゃあ、どうして王様と」

「無理やりだったわ」

「そんな……」


 前リーゼンブルグ国王アレクシスは、狩りに出掛けた先で急な嵐に遭い、雨宿りのために立ち寄ったのがフローチェさんの暮らしている村だったそうだ。

 当時、村で一番の美人といわれていたフローチェさんが接待役として村長に選ばれて、食事の給仕を命じられたそうだ。


「ただ食事を運ぶだけだって聞かされていたんだけど、食事が済んだ後、休息する部屋への案内を命じられて、そのまま手籠めにされたの」

「酷い……」

「結婚を約束した人がいるからって泣いて頼んだけど、家族や村がどうなっても良いのか……って言われたら抵抗できないわよね」

「それで、城に連れて行かれたんですか?」

「初めての事が終わった後、入浴の手伝いをさせられた風呂場でも犯されて、風呂から出て服を着たら、天気が回復したから帰るって……そのまま馬に乗せられて領主の館へ連れて行かれたわ」

「そんな、何の準備も無しにですか?」

「ええ、村長や両親からは名誉なことだから、二度と村には戻るなって言われて、捨てられたような気分だったわ」

「羊飼いの男の子は?」

「羊飼いは、夏になると羊を連れて山の上の放牧地で過ごすの、その時には村に居なかったわ」

「そうですか……」

「でも、彼が村に居なくて良かった。もし国王に逆らっていたら、斬られていたかもしれないからね」


 フローチェさんは、城に連れていかれた後も冷遇されたらしい。


「国王アレクシスは、愚王なんて呼ばれたほど無能な男でね。私に対しても愛情なんて全く持っていなかったわ。ただ、貴族の令嬢みたいに大切に育てられた女性に飽きて、野性味のある村娘の抱き心地が物珍しかっただけ。シーリアを身籠った頃には、殆ど私のところを訪れることも無くなっていたわ」


 フローチェさんが純潔を汚された経緯は、相手の立場の違いこそあれ、あたしと似ている気がした。

 ただ、フローチェさんはそのまま妊娠させられ、私は自棄を起こしたから妊娠したという違いはある。


「あの……まだシーリアがお腹にいる頃、その……どう思っていましたか?」

「正直に言うと、疎ましかったわ。だって、妊娠したって分かったら、他の王妃たちから物凄い敵意を向けられたからね。本当に、殺されるかと思ったわ」

「えっ、大丈夫だったんですか……って、大丈夫だったからシーリアがいるのか」

「国王に頼んで城の外に身を隠して出産して、シーリアが生まれた後で城に戻ったの」

「なるほど……」

「シーリアが生まれて来るまでは、この子さえ居なかったら村に戻れたかもしれないのに……なんて思ったりもしたわ。そんなこと出来るはずもないのに、村に戻って羊飼いの家に嫁に行く姿を想像したりもした。お腹の子供の半分が、あの好色な男で出来ているって考えたら、おぞましいとさえ思ったわ」


 フローチェさんが語る内容は、あたしが現在進行形で感じていることだ。

 父親はだれか分からないけど、あたしの体で性欲を発散しようとしていた男なのは間違いない。


 こっちから誘いを掛けたのだから、責めるのは筋違いだけど、どいつもこいつも血走った濁った目をして、あたしの体しか見ていなかった。

 そこに愛情なんてものは、欠片も存在していなかったと思う。


「でもね、サチコ。シーリアを生んで、それまでの自分の考えは全部間違っていたって分かったの」

「えっ……どうして?」

「だって、あんなに重たいお腹を抱えて何ヶ月も過ごして、あんなに痛い思いをして産んで……その間、父親は何にもしてくれなかったのよ。たしかに、父親が居なかったら身籠らなかったけど、その後はずっと一人で育ててきたんだもの、この子は誰のものでもなく私のものだって分かったの」


 フローチェさんの言葉を聞いた途端、目の前にかかっていた霧がパッと晴れた気がした。


「サチコ、あなたのお腹にいる子供は、最初の一滴を除いて全部あなたが血肉を分けて育ててきた子供なのよ。誰のものでもない、あなたの宝物なのよ」

「はい……はい、そうです。ううん、そうじゃない……あたしだけのものじゃない」

「えっ?」

「この子は、あたし一人で育てたんじゃなくて、周りのみんなが支えてくれたから育ってきたんです。アマンダさんやフローチェさん、それに国分がいてくれたから、ここまで大きく育ってこられたんです」

「そうね。そんなことにはならないと思うけど、もしもサチコがその子を愛せなくても、私やアマンダさん、ケントさんは愛してくれるわよ」

「はい、あたしももう迷いません。誰よりも愛情をたっぷり注いで、元気な子に育ててみせます」

「大丈夫、サチコならできるわ」

「はい、ありがとうございます」


 この後、フローチェさんから子育ての話を聞いたのだが、シーリアを育てるのは本当に大変だったらしい。


「もうね、本当に嫉妬とか、猜疑心とか、ドロドロした女の醜さを集めたみたいな感じだったわ」


 王位を争う第一王妃と第二王妃、平民上りが自分よりも優遇されたりしないか目を光らせる第三王妃。

 シーリアを暗殺されないために、縁談を進める場合は三人の王妃の承諾を得ると誓約書まで書いたらしい。


「シーリアが出来て、国王の興味が薄れたと分かると、私達への待遇はガクンと悪くなったけど、それでも村の暮らしよりは贅沢だったから苦にならなかったわ」

「村の暮らしは、そんなに大変なんですか?」

「その年の作物の出来次第ね。凶作の年には餓死する人もいたのよ」

「そんなに厳しいんだ」

「王様が無能だったから、領主である貴族も好き勝手にしていたみたいね」

「じゃあ、シーリアを育てるには城にいた方が良かったんですね」

「食事や着るものもそうだけど、教育については全然違っていたわ。いずれ、政略結婚させるにしても、馬鹿じゃ困るからでしょうね」


 他の王妃の子供のように、煌びやかなドレスを与えられなかったそうだが、家庭教師が勉強を教えに来ていたらしい。


「村の子供みたいに、ひもじい思いはさせなかったけど、ただ一つ申し訳ないと思ったのは遊び相手を用意してあげられなかったことね」

「他の王妃の子供とは?」

「会うことさえ禁じられてたわ」

「酷いですね。じゃあ、あのカミラとも会っていなかったんですね?」

「そうね、年に数回顔を会わせる程度で、挨拶以外に話をすることも無かったわ」


 そんな境遇でも、フローチェさんは愛情を注いでシーリアを育てあげたそうだ。


「だからね、カミラ様がシーリアを勇者の夜伽に使うって言った時には、本気で殺してやろうかと思ったわ。どこかの国の王子とか、有力貴族の息子とかなら仕方ないと思っていたけど、どこの誰とも分からない男の慰みものになると思ったら、腹が立って腹が立って……神様に呪いの言葉を吐いたほどよ」


 フローチェさんは、自分と同じような道を歩ませてしまうことをシーリアに泣いて詫びたそうだ。


「その頃、体調が本当に悪くて、もうこのまま死んでしまうのだって思っていたの、私の人生は本当に酷いものだったって落ち込んでたわ。でも、それが一年もしないうちにガラっと変わって、こんなに幸せな日が来るなんて思ってもいなかったわ」


 フローチェさんは、カミラの手配で王都からラストックへと連れて来られたそうだが、国分が裏から糸を引いていたらしい。


「ラストックで治療をしてもらったんだけど、それまでの不調が嘘みたいに消えてビックリしちゃったわ。シューイチさんも真面目な人で、シーリアは最初から愛情たっぷりに接してもらってたみたい。ちょっとズルいわよね」

「あー……確かに、ちょっとズルいかも」

「うふふふ……」


 屈託なく笑うフローチェさんは、母親世代というよりもお姉さんという感じだ。


「私は、ここで暮らしている人は、みんな家族だと思っているの。家族でも喧嘩することはあるし、思いがすれ違ってしまうこともあると思うけど、それでもみんな大好きよ」

「あたしも、フローチェさんをお姉さんみたいに思ってます」

「あら嬉しい! そこでお母さんみたいって言わないところが、アマンダさんのお店の看板娘たる所以ね。今夜、何が食べたい? サチコの食べたいものにしよう」

「じゃあ、一緒に作りましょうか、フローチェお姉ちゃん」

「決めた、サチコは私が嫁にもらうわ」

「えーっ、まだ玉の輿を諦めた訳じゃないんだけどなぁ……」

「なぁに? タマノコシって?」


 玉の輿について説明すると、フローチェさんは首を横に振りました。


「駄目よ、サチコ。金持ちの男とか、地位の高い男とか、ロクなもんじゃないからね」

「経験者は語る……ってやつですね?」

「そうよ、あっ……でも魔王様なら大丈夫ね」


 ニコっと笑ったフローチェさんが言う魔王様とは国分のことだ。


「いや……国分はちょっと」

「サチコ、あなたは幸せになっていいのよ」


 急に真面目な表情をしたフローチェさんに、上手く言葉を返せなかった。

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