第627話 こだわりと割り切り

 アマンダさんの店の厨房で、綿貫さんがピストル状の機械を取り出し、オーブンの扉を少し開けて内部に狙いを定めています。

 トリガーを引いた一秒後にピっと電子音が鳴り、綿貫さんは表示された数字を見て頷きました。


「183度……よしっ!」


 綿貫さんは厚手のミトンを両手にはめてオーブンの扉を開けると、ケーキの生地を並べた鉄板を素早く、かつ慎重にオーブンの庫内に入れました。

 オーブンの扉を閉めて砂時計をひっくり返し、ほーっと息を吐きながら右手の袖で額の汗を拭うところまで淀みも迷いも無い、まさに職人の動きです。


 綿貫さんが使っていたのは、日本から取り寄せた放射温度計です。

 こちらの世界のオーブンは温度設定が出来ないので、感覚を掴めるまでの補助具として使っているそうです。


 今日は闇の曜日なのでアマンダさんの食堂は定休日で、綿貫さんがケーキの試作のために厨房を借りています。

 綿貫さんにお届け物があって来たのですが、今は忙しそうなので出直してきましょう……ケーキが焼き上がった頃に。


 綿貫さんに頼まれたカカオの捜索は、薬屋のコーリーさんからの情報によって、ベルロカというよく似た実があることが判明し、実物の木も発見できました。

 ただし、実が熟すのは秋なので、カカオの代用として使えるかどうかは不明です。


 ベルロカはカカオの代用が可能で、ヴォルザードの近くでも栽培が可能ならば、新しい産業となる可能性を秘めています。

 そこで、リバレー峠の東側の群生地から若木を取ってきて、ヴォルザードの東側の森に植樹してみました。


 元々生えていた木の一部を伐採して、日当たりが良くなったところにベルロカの若木を植えます。

 他にも、ヴォルザードの北側の街道沿いの森の中や、魔の森の中などにも植えてみました。


 カカオの代用となると分かった時のために、ベルロカの農園を作る下準備を今のうちに進めておくのです。

 植樹をしたからといって根付くとは限りませんし、根付いたからといってもすぐに収穫ができる訳でもありません。


 なので、今から始めておけば、半年から一年のアドバンテージを築ける訳です。


『ケント様……』

「何かな、フレッド」

『エリアヒールで成長促進しては……?』

「おぉ、その手があったか」


 以前、バルシャニアとフェルシアーヌ皇国の国境で、ムンギアとヌオランネが領有権を争っている中州を神域にするために、光属性魔術で植物の成長を促進しました。

 確かに、あの方法を使えば苗木を急成長させられますね。


「じゃあ、みんなは影の空間から出ないでね。エリアヒール!」


 光属性の魔術を発動させると、ヒョロっと細い若木がメキメキと成長を始めました。

 1センチぐらいだった幹が3~4センチ程度になった所で魔術を止めます。


 続いて、水属性の魔術を使って若木の周囲に水を撒きました。


「うん、あんまりやり過ぎても駄目そうだし、この程度にしておこう」


 光属性魔術を使った促成栽培は、土の水分や養分を急激に使ってしまいます。

 日本のように化学肥料を使えるなら話は違ってくるのでしょうが、ヴォルザードではやり過ぎると悪影響が出そうな気がします。


「ちょっと、土も補充しておこうかな……送還」


 送還術を使って、少し離れた場所から腐葉土を若木の周りに補充しました。

 ひとまずは、これで良しとしましょう。


 植樹した若木を見て回り、少しずつ成長を促進させたところで、アマンダさんの店へと戻りました。

 厨房を覗くと、綿貫さんはクリームを泡立てる作業中で、使っているのはハンドルを手で回すタイプのハンドミキサーです。


 本当は電動タイプの方が楽なんでしょうけど、ヴォルザードは電気が通っていません。

 それならばと、選んだのがレトロな手動ミキサーだったようです。


 極力ヴォルザードで手に入る物を使うけど、難しいところは文明の利器に頼るというスタンスで、いずれは全てヴォルザードで賄えるようにしたいそうです。

 こだわりと割り切りって感じですね。


 本日のケーキはシュークリームとショートケーキのようで、焼き上がったスポンジとシュー皮が並んでいます。

 シュー皮はクッキータイプのようで、上下に切り分けて下にカスタード、上に生クリームを絞り、粉砂糖をかけて完成のようです。


 ショートケーキは、スポンジを三枚に切り分けて果物を挟むようです。

 綿貫さんが冷蔵庫から取り出したのは、小振りの桃のような果物でした。


 桃というよりも、ネクタリンに近いようですが、果肉の色は朱色に近い感じです。

 皮を湯剥きして、スポンジの間に挟むようにスライスし、味を確かめるために端の部分を試食して、綿貫さんはちょっと首を傾げて苦笑いを浮かべました。


 思っていたよりも酸っぱかったのでしょうかね。

 それでも気を取り直してスポンジの表面に生クリームを塗り、スライスした果物を敷き詰め、クリームを塗ってからスポンジを重ねました。


 同じ工程をカスタードクリームで繰り返し、更にスポンジを重ねたら、表面を生クリームでコーティングしていきます。

 ヘラ一本で、クリームの表面を滑らかに整える手つきはプロ級です。


 表面が綺麗に整ったら、絞り袋と口金を使ってデコレーションです。

 上面だけでなく側面にもデコレーションを施し、最後に果物を飾ってケーキが完成したようです。


 ではでは、味見させてもらいましょうかねぇ。

 裏口の外に闇の盾を出して表に出て、井戸で手を洗ってから店の中へと入ります。


「こんにちは、試食に来ました!」

「国分、影から覗いてたな」

「へへぇ、バレたか」

「ケーキは後だよ、あたしの新しいメニューを食べてからにしなよ」


 アマンダさんの新メニューは、豚しゃぶをヴォルザード風にアレンジしたもののようです。

 どうやら、タレが何種類か用意されているみたいです。


「これから暑くなって食欲が落ちる時期に、サッパリして、それでいて栄養が取れるものは無いかってサチコに聞いて教えてもらったのさ。タレは三種類用意したから食べ比べておくれ」

「はい、いただきます! まずは、定番のゴマダレから……うん、うん、間違いないって感じですね」

「そうそう、夏はこれって感じだけど、パンよりご飯が欲しくなる」

「あー……それは言える。こっちはトマトベース?」

「ちょいと辛いから気をつけてお食べ」


 なるほど、良く見るとトウガラシが入っているみたいですね。


「あっ、結構ピリっとくる。何だろう、玉ねぎの辛さ?」

「うん、かなり辛いね、あたしは今はパス」

「そうだね、サチコは止めておきな」


 お腹の赤ちゃんの事を考えると刺激物は控えた方が良いんでしょうね。


「あー辛っ……でもパンにはこっちの方が合うと思うし、クセになる辛さかも」

「あたしは、こっちのフルーツベースがいいな。酸味と甘味のバランスがいい」


 フルーツダレも試してみましたが、確かに単純な甘さではなくて酸味もあるし旨味もたっぷりです。


「どれにすりゃいいんだい?」

「選んでもらうんじゃ駄目なんですか?」

「あたしも選んでもらうのがいいと思いますよ。盛り付けまでは一緒ですし、タレを掛けるだけなら、あたしでも出来ますし。味が三種類あれば、別のも食べてみようって思うんじゃないですかね」

「そうだね……三種類でやってみようかね」


 パンに載せたり挟んだりして、三種類のタレを堪能させてもらいました。

 うん、満腹、満腹……でもケーキは別腹だよ。


「そうそう、ケーキを食べる前に、カカオ捜索の件だけど……」


 ベルロカの発見と現状を綿貫さんに報告しました。


「へぇ、それじゃあ南の大陸に行かなくても手に入りそうなんだ」

「うん、今のところはね。ただし、生えてる場所の環境がカカオとは随分違うように感じるし、代用が効くかどうかはまだ分からないよ」

「そっか、でも楽しみになったよ。あんがとな、国分」

「いやぁ、ヴォルザードで栽培出来れば新しい産物になるし、チョコレートも手に入りやすくなるからね」


 クラウスさんにも ベルロカ栽培の件を相談したと話しました。


「ヴォルザードの地域産業になって、手軽にチョコレートが手に入るようになると嬉しいんだけどなぁ」

「それまでには、数年はかかるんじゃない?」

「醗酵、焙煎、磨砕、微粒化、精練……そのぐらいは掛かるか」

「日本に豆を持ち込んで、チョコレートにするところまでやってもらうとかは?」

「検疫とか引っ掛からないか?」

「あー……確かに」

「せめて、手動とか足踏みとかで工程を機械化できると良いんだけど」

「まぁ、それはベルロカがカカオの代用品になると分かってからでも良いんじゃない?」

「まぁね……おっと、そんじゃあケーキの試食をしてもらおうか」

「待ってました!」


 綿貫さんがホールのケーキを切り分け、シュークリームも添えて出してくれました。


「さぁ、召し上がれ」

「これは、ケーキが先の方が良さそうだね」

「うん、そうして」


 フォークで切り分けながら、スポンジの弾力をチェック。

 まずは、上から下まで一度に味わわせてもらいました。


「うん、うん……ん? フルーツが弱い?」

「だよなぁ、カスタードに負けてるよなあ」


 果物だけで食べると、そんなに悪くないのですが、クリームと一緒だと風味が負けてボヤけてしまったように感じました。

 続いてシュークリームは……。


「うん、美味しい! これは店で売ってるレベル」

「シューの硬さはどう?」

「少し固めだけど、サクサク感が強くていいと思う。それと……」

「それと?」

「バニラっぽい感じがするんだけど……」

「おぉ、良く気付いたなぁ。それはバニラじゃなくて、ネーブっていう香辛料でバニラに似た香りがするんだ」


 ネーブは、市場の香辛料を扱う店で見つけたらしい。


「やっぱり微妙に違うから、入れ過ぎは厳禁だけど、少量だと言われなきゃ違いが分からないレベルだと思う」


 綿貫さんは、香り付けのための果実酒も探しているそうだ、


「うん、これなら1個100ヘルトでも売れると思う」

「いやぁ、そこまでは出してもらえないだろう、50ヘルトが良いところだろ」

「日本だったらそのくらいかもしれないけど、ヴォルザードだったら100ヘルトでも売れるよ」

「んー……いや、そういうのは違うと思う。原価がいくら掛かってるか、利益を出すにはいくらで売れば良いのか考えて、なるべく沢山の人に食べてもらえるようにしたい。あたしは、あたしのケーキで沢山の人を笑顔にしたいんだ」


 綿貫さんの言葉にアマンダさんも頷いています。

 まったく、二人とも商売っ気がないんだから、万が一お金に困ったら、僕がバックアップしましょう。

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