第613話 梶川の奮闘

 梶川さんからの電話を待っていたら、知らない番号から着信がありました。

 そもそも、このスマホは梶川さんから借りているもので、ごく限られた人しか番号を知らせていません。


 ワンコールで切れないところをみると、日本政府の関係者なのでしょう。


「はい、国分です」

「内閣官房長官の志田です」

「ど、どうも……」

「簡潔に用件だけ伝えさせていただく。現在、自衛隊練馬駐屯地に滞在している国際宇宙ステーションの乗組員六名を送り届ける任務を日本国政府より正式に依頼します。報酬は二百四十億円、詳細については梶川に渡してある契約書を確認してもらいたい。どうかね?」

「これから練馬駐屯地に行って確認させていただきます」

「よろしく頼む」


 本当に用件だけ伝えると、官房長官は電話を切りました。

 何となく、何となくですけれども苛ついていたように感じました。


 まぁ、こちらとしても、日本政府は依頼していない……なんて発表をした人のご機嫌を取る気はありませんけどね。

 気分を切り替えて、梶川さんに電話を入れました。


「やぁ、国分君、連絡を待ってたよ」

「志田官房長官から電話をもらいました」

「受けてもらえるのかな?」

「これから、そちらに行って契約書を確認させてもらってからですね」

「了解した。美味いコーヒーを淹れて待ってるよ」

「お願いします」


 ていうか、コーヒーは梶川さんが飲みたいだけじゃないんですかね?

 まぁ、梶川さんの淹れてくれるコーヒーは確かに美味しいので文句を言うつもりはないですけどね。


 玄関に下りて靴を履いてから影の空間に潜り、練馬駐屯地を目指しました。


「うわぁ、梶川さんがやつれてるよ……」


 ペーパードリッパーに慎重な手つきでお湯を注いでいる梶川さんは、頬がゲッソリとこけて、目の下には色濃く隈ができています。

 これは、相当上司と揉めたみたいですね。


 梶川さんが、お湯を注ぎ終えたタイミングで表に出ました。


「こんにちは」

「いまコーヒーが淹れ終わるから、ちょっと座って待っていて」


 応接テーブルの上には四角い書類入れが置かれていて、中には契約書が入っています。

 僕は紙一枚の契約書を想像していたのですが、どうやら何ページにも渡る契約書のようです。


 細かい内容を全部読んで把握しないといけないのかと思うと頭が痛くなってきます。

 コーヒーを注いだ大ぶりのカップを持って戻ってきた梶川さんは、契約書を眺めて顔をしかめている僕を見て口許を緩めました。


「まぁ、そうなるよね。国分君ぐらいの歳だと、こういった契約書を見る機会は殆ど無いだろうしね」

「これって、難しい法律用語とかで書かれてるんですか?」

「国分君は、どうして法律が硬い文章で書かれていると思う?」

「えっ、それは……そういうものだからじゃないんですか」

「まぁ、そうなんだけど、本来の目的は文章の言い回しによって解釈の違いが出ないようにするためなんだ」

「あっ、なるほど……言った言わないみたいに、同じ文章でも意味を取り違えないためなんですね」

「そうそう、だから契約書の内容も堅苦しい文章になってるんだよ」

「はぁ……理由は分かりましたが、何ページあるんですか、この契約書」


 横からパッと見ただけでも二十ページ以上はありそうです。

 てか、僕が契約しないと宇宙飛行士の皆さんはISSに戻れないんだから、もっと簡単な契約書にした方が良いと思うんですけどね。


「結構なページ数だけど、契約書は二部あるから、この半分の枚数だよ」

「はぁ……それでも多いと思うんですけど……」

「まぁ、そこは一部の偉い人による嫌がらせだね」

「えぇぇ……嫌がらせって」

「一部の偉い人は、自分が命令を下せば、何事も問題無く進んでいくものだと思い込んでるんだよ」

「僕が宇宙飛行士の皆さんをISSに戻すのを一度断ったのが気に入らないんですか?」

「まぁ、そういう事だね」


 梶川さんの話によれば、ISSへの帰還はアメリカやロシアからの依頼でもあったそうです。


「アメリカやロシアに頼まれて、僕の都合とかは全く考えずにOKして、そんで僕が断ったから面子を潰された……みたいに思ってるんですか?」

「まぁ、そんな感じだね」

「それで、よく二百四十億円も出しましたね」

「いやぁ、頑張ったよ。もう出世は無理だね」

「えっ、マジですか?」

「マジも、マジも、マジマジだよ」


 一体どんな交渉が行われたのか分かりませんが、なんだか梶川さんのキャラが変わっちゃってますね。


「国分君、最初に提示された報酬いくらだったと思う?」

「そうですねぇ……二十億円ぐらいですか?」

「全然……桁が違うよ」

「えっ、二億とか……?」

「六千万円だよ、一人一千万円なんて数字が出てきた時には、マジで膝から崩れ落ちたよ」

「よく六千万円から二百四十億円まで吊り上げられましたね」

「国分君、そこは外圧だよ……が・い・あ・つ」

「アメリカ、ロシアですか?」

「そうそう、日本政府は外圧に弱いからね」


 こんなセコイ金額出して僕に断られた場合、下手をすれば一週間以上も乗組員不在の状態でISSが飛び続ける状況になります。

 そんな状況になったらアメリカ、ロシアからどんな反発を食らうか、梶川さんは上司に訴えると同時に、ISSの乗組員に金額をリークしたらしいです。


「志田さんも、その周囲にいる人も、国分君にガチ切れされたら何が起こるのか分かっていないんだよ」

「いや、別に僕はガチ切れしても日本を攻撃しようなんて考えないと思いますよ」

「うーん……それはどうかな、例えば、浅川唯香さんの家族や親戚、友人に危害を加えたらどうする? それでも報復しない?」

「それは……どうでしょうねぇ」


 美緒ちゃんが誘拐された時、もし眠らされているだけでなく危害を加えられていたら、実行犯たちを皆殺しにしていたと思います。

 そう考えると、僕から率先して危害を加えるつもりは無いですが、もし日本政府が僕の大切な人に危害を加えたならば報復を行うでしょう。


「国分君は、居場所さえ分かれば総理大臣だって暗殺できるよね?」

「まぁ、可能か不可能かと聞かれれば可能ですけど、そんな事やる気は無いですよ」

「国会議事堂を粉々にできるよね?」

「ま、まぁ……できますけど」

「自衛隊の施設を無力化したり、船舶、航空機を破壊するとか、国分君なら簡単にできてしまうという事を理解していないんだよ」

「それって、どうなんですかね。むしろ理解されていない方が、下手なちょっかい出されずに済みそうな気もしますけど……」


 僕の危険度は、見方を変えれば有用度でもあります。

 力を行使する矛先をどちらに向けるかで、状況はガラリと変わると思うんですけどね。


「まぁ、日本政府が国分君をどう認識しているのかは、小惑星の軌道変更に対する報酬の交渉を行う過程で分かると思うよ」

「なるほど、そっちの交渉の方が、この契約書を理解するよりも大変な訳ですね」

「まぁ、僕は国分君の側で交渉を手伝うつもりでいるけど、それでも交渉は長引くと思うよ」

「そうですか……いっそ日本銀行の金庫から持ち出しちゃおうかな」

「国分君なら何の証拠も残さずに盗み出せると思うけど、なるべくならば盗みは控えてもらいたい」

「じゃあ、梶川さんに用意してもらったカメラを使って、政治家同士の密談を密かに録画してネットに撒いてみましょうか?」

「それは面白そうだね。ただ、日本の政治が大混乱に陥るだろうね」


 コーヒーを味わいながら、三十分ほど雑談した後、梶川さんに内容を嚙み砕いてもらいながら契約書をチェックしました。

 依頼の内容は、宇宙飛行士の皆さんをISSに送り届けるだけですが、契約書は十七ページもありました。


 その殆どは免責事項についてで、何かトラブルが発生した場合の責任について書かれていました。

 そして、何かトラブルが起こったら、日本政府は一切責任を負わない意志が明確に示されていました。


「なるほど、これは確かに嫌がらせって感じですけど、こんな条件を出して僕が断ったらどうするつもりなんですかね?」

「たぶん、何も考えていないんだよ。本当に自分の憂さを晴らせればいいと思っているんだろうね」


 梶川さんは、心底呆れたといった表情を浮かべながらも、契約書の解説を続けてくれました。

 結局、契約書の内容を理解して、署名するまでには一時間以上も掛かってしまいました。


 うん、僕への嫌がらせは十分に効果があったと思うけど、二百四十億円の仕事だと思えばなんてことありませんね。

 内容の確認を済ませて署名を終えたところで、梶川さんがコーヒーのお替りを淹れてくれました。


「んー……いい香りですね。これは、どこの豆なんですか?」

「これかい、これはインドネシアのスマトラ島産のマンデリンだよ」

「酸味が少なめで、いいですね」

「国分君は酸味が少ない方が好みなのか……覚えておくよ」

「いえ、梶川さんが淹れてくれるコーヒーはみんな美味しいですよ。むしろ、色んな種類を味わいたいので、梶川さんの好みで淹れてください」

「分かった、そうさせてもらうよ」

「じゃあ、早速仕事を終わらせてしまいましょう。これが終われば、梶川さんも少しは休めますよね?」

「あぁ、作業終了の報告書は殆ど出来ているから、あとは日付と時間を入れればできあがりだよ」


 帰還の時の事を考えてISSには闇の盾を維持するのとは別に、目印にする闇属性ゴーレムを残してあります。

 なので、宇宙飛行士六名を送り届けるまで、十分もかかりませんでした。


 日本人宇宙飛行士の若林さんからは、ISSの乗務員が命にかかわる急病となった場合に地球への搬送を頼めないかと打診されました。

 勿論、宇宙飛行士の皆さんは体調管理に物凄く気を使っていらっしゃるそうですが、それでも救急搬送が必要になる可能性はゼロではありません。


 ちゃんと報酬は払ってもらえるみたいですし、人命に関わることなので可能な限り協力すると伝えました。

 さて、残すは小惑星の軌道変更を行った報酬だけですが、一筋縄ではいきそうもないですよね。

 それよりも、面倒事が片付いたのでカミラの輿入れを進めちゃいましょう。

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