第494話 元女冒険者の勘違い
風呂から上がった後、自宅で待機していようかと思ったのですが、やっぱり気になって影に潜って移動しました。
向かった先は、同級生達が暮らすシェアハウスのシーリアさんの部屋……という訳にはいかないので共用のリビングに出ると、大きなテーブルに向かって座っているのは八木だけでした。
「あれ? 八木しかいないの?」
「おぅ、国分も来たのか。みんな中だぞ」
シェアハウスに暮らす綿貫さんや本宮さん、マリーデもシーリアさんの部屋で出産に関する話を聞いているらしい。
「もう生まれそうなの?」
「んな訳ねぇだろう。さっき陣痛が始まったばっかだぞ、生まれるのは早くても明日の明け方だろう」
「えっ、そんなに時間が掛かるの?」
「なんだよ、四人も嫁を貰ってるくせに、そんな事も知らねぇのかよ……って、俺も知ったのは最近だけどな。初産の場合、陣痛が始まってから半日程度は掛かるんだぞ。それに、こっちの世界は陣痛促進剤とかも無いから、もっと時間が掛かるかもな」
八木の手許にはヨレヨレになったノートが二冊広げられていて、三色ボールペンを使って何やら書き込みをしていたようです。
「それ、何を書いてるの?」
「これか? こっちは聞き取ったり調べた内容、こっちは考えをまとめるための走り書きだ」
「取材ノートってやつ?」
「まぁな……」
お世辞にも達筆ではないものの、ノートにはビッシリと書き込みがされています。
黒や青のインクで書かれた文字に、赤のインクでアンダーラインを引いたり、注釈を加えているようです。
斜め読みしただけですが、妊娠とか出産に関する事が書かれているようで、赤の書き込みには『日本では?』とか『ヴォルザードでは?』という文字を多く見かけます。
「これって、日本とヴォルザードの出産の比較をしているの?」
「まぁ、そんなところだが……比較にはなんねぇな」
「どういう意味?」
「医療レベルが違いすぎる」
「あぁ、それは確かに……」
こちらの世界の医療は、治癒魔術による治療と薬草から作られた漢方薬のような薬に限られています。
基本となる医学は、日本でいうなら江戸時代レベルでしょう。
なまじ治癒魔術が存在しているので、西洋医学のような考え方が進歩しないのかもしれません。
「日本だったら、出産までに超音波診断とか血液検査とか尿検査とか、あとあれ……出生前の遺伝子検査とか、色んな検査機器を使って色んな検査するけど、こっちは心音を聞く他は問診と触診程度だぜ。比較するのは無理ってもんだ」
「そうすると、綿貫さんは日本で産んだ方が良いのかな?」
「本人と子供の安全を考えるなら日本の方が遥かに設備は整ってるな。俺が聞いた感じでは、流産したり、死産の場合も結構あるらしいぞ。それこそ、日本なら新生児ICUとかで超未熟児とかでも育てられる時代だけど。ヴォルザードにそれを望むのは無理だろう」
「そうか……てか、君は誰? 八木がそんな真面目な話をするはずがない。誰が八木に変装してるの?」
「おいっ! 俺だって本気出せば、この程度の取材は出来るんだよ」
つい真面目に耳を傾けてしまったけど、あの八木が真面目に取材というのが信じられないんですよねぇ。
「で……いったい、どういう風の吹き回しなの?」
「うっせぇな、たまにはネタとか、盛るとか無しの硬派なドキュメンタリーを書きたくなっただけだ」
「うわぁ、何かヤバいものでも食べた?」
「お前は、本当に失礼な奴だな。目障りだから、帰れ! てか、シーリアさんの出産には手出しすんじゃねぇぞ」
「何でさ。別に手出しする気はないけど、なんで僕が手を出しちゃ駄目なのさ」
「んなもん、決まってんだろう。国分が手を出した時点で、ドキュメンタリーじゃなくてファンタジーになっちまうからだよ」
八木いわく、僕の治癒魔術は出鱈目だから、記事の真実味が薄れるどころか消え去ってしまうらしい。
「目の前で切断された足が、あっと言う間に繋がって後遺症も残らないなんて、どう頑張って記事にしても法螺話にしか思われねぇんだよ」
「なるほど……でも、唯香の治癒魔術も十分ファンタジーじゃないの?」
「バーカ、浅川さんもマノンちゃんも助産婦さんの助手だ。あの二人が赤ん坊を取り上げるんじゃねぇぞ」
「そうなの? いや、普通に考えればそうだよね」
いくら守備隊の診療所で治療の経験を積んでいるとは言っても、出産の補助とは全然違いますからね。
「あの二人、ヴォルザードの助産婦さんに色々教わってるらしいぞ」
「えっ、そうなの?」
「お前……それでも旦那なのか? 自分の嫁に無関心すぎじゃね?」
「うっ、八木に説教される日が来るなんて……僕はもう駄目だな。冒険者を引退して、後は悠々自適の生活をするしかない」
「いや、無理だろう。この一週間、何をやってきたか思い出してみろ。更に、一ヶ月前まで遡ってみろ」
「ぐはっ……お、おかしい、八木にこんなに追い詰められるなんて変だ」
「とにかく、今回の記事には手間暇掛けてんだから、邪魔すんじゃねぇぞ」
「はいはい、そもそも何事もなければ手なんか出さないけど、もし僕の治癒魔術が必要だと言われたら、躊躇なく手伝うからね」
「まぁ……それはしゃーねぇな、人命には代えられないからな」
さすがの八木でも、シーリアさんと子供の命よりも自分の記事を優先しろ……とまでは言わないようです。
僕と話をしながらも、ノートに走り書きをしては考え込んでいる八木を観察していたら、女子たちが戻ってきました。
綿貫さんを筆頭に、本宮さんも相良さんもマリーデも、揃って神妙な顔つきです。
四人が戻ってきた廊下の向こうからは、かすかに呻き声が聞こえた気がしました。
「国分、お前はあっち行け」
「えっ、なんで?」
「いいから、向こう行ってろ、邪魔!」
「へーへー、分かりましたよ」
八木は僕を追い払うと、マリーデに手招きをして隣の席に座らせると、何やら聞き取りを始めました。
うん、真面目に取材している八木を見るのは、妙に気持ち悪いもんですね。
八木に追い払われた僕に、綿貫さんが手招きしています。
「国分……こっち」
「シーリアさんは、どんな感じなの?」
「今、また陣痛が来たみたいだけど、まだ我慢できないような痛みじゃないみたい。破水もしてないし、生まれるまではまだ時間が掛かるらしい」
「体調は問題無いんだよね?」
「うん、シーリア本人は元気だし、産む気満々だね」
「それで……八木はどうしちゃったの?」
小声で八木の変貌ぶりを訊ねると、綿貫さんはニカっと笑みを浮かべた後で、小声で返事をしてきました。
「あれね……なんだか父親の自覚みたいなのが芽生えつつあるみたいだよ」
「嘘っ……マジで?」
「こっちの世界の出産って、日本みたいな設備の整った病院でやるのと違って、やっぱり危険が伴うみたいなのさ。それこそ自分の命を懸けて、新しい命を産み落とす……みたいな? そうした話を色々と聞いているうちに、考えることがあったんじゃない?」
チラリと視線を向けた先では、八木がマリーデから聞き取りを続けています。
どうやら、今回こそは本気のようなので、余計なチャチャを入れるのは止めておきますかね。
「ところで、綿貫さんはこっちで出産するつもりなの?」
「おぅ、こっちで産むよ」
「でも、日本の方が設備とかは整ってるし、色々検査も受けられるんじゃないの?」
「だろうね。でもさ、周りが色々面倒そうじゃん」
「あぁ、なるほど……」
「影でコソコソ言われたり、マスコミとかに嗅ぎ付けられたりしたら……なんて考えるだけでもストレスだから、こっちで産む方が気楽でいいんじゃないかと思ってんだ。それに……いざとなったら、国分に魔術でポーンと取り出してもらおうかと……」
「いやいや、無理だからね。そんな精度は無いから、赤ちゃんだけ取り出すなんて無理だよ」
「にししし……分かってるって、冗談だよ、冗談。でも、あたしが出産する時も、国分は待機していてくれるんだろう? だったら日本で産むより遥かに安全安心でしょ」
「まぁ、そう言われれば、そうかもしれないけど……」
「大丈夫、大丈夫、アマンダさんからも色々教わってるし、心配いらないよ」
「そっか、分かった」
何かと陰口を叩かれる心配のある日本よりも、子供は街のみんなで育てるヴォルザードで出産する方が、綿貫さんには合っていそうですね。
「みんなは、今夜は起きているつもりなの?」
「あたしは寝るよ。いずれ自分で体験するし、寝不足はお腹の子にも良くないしね」
「あたしと貴子は起きているつもり」
「うん、日本でも立ち会ったことないし、将来のためにね」
相良さんも、本宮さんも、今すぐ誰かの子供を産むという予定は無いけれど、何年か経って妊娠した時に、ヴォルザードで産むか、それとも日本で産むか考えたいそうです。
「分かった、その時に日本に戻ると決めたら僕が送るよ」
「お願いね。でも、その頃には普通に日本と往来できるようになってたりするかもよ」
「えっ……そうか、今は僕が送還術を使わないと行き来できないけど、何か別の方法があるかもしれないもんね」
相良さんに言われるまで、僕がいなければ日本とヴォルザードの間は往来出来ないと思い込んでいました。
「日本に帰る方法は無いって言われたのに、思っていたよりも早く日本に戻れたし、国分君が付きっ切りにならなくても良い方法も案外簡単に見つかるかもよ」
「そうだね。それは考えてみる価値あるよね」
唯香とマノンは、シーリアさんの部屋に詰めているつもりのようですが、僕はここに居ても仕方なさそうなので、当初の予定通りに家で待機することにしました。
呼び出しが無ければ、眠っていて構わないと言われたので、自分の部屋でマルト達に囲まれて眠っていたら、ヘルトが呼びに来ました。
「ご主人様、起きて。ユイカが、すぐ来てほしいって」
「うーん……分かった」
窓の外を見ると、まだ星が見えるほどの暗さです。
寝ぼけた頭を覚ますように、両手で頬をパンパンっと叩いてから影に潜ってシェアハウスへと急ぎました。
共用のリビングに出た途端、苦しそうなシーリアさんの声が響いてきます。
リビングのテーブルには、心配そうな女性陣と八木の姿もあります。
僕の姿を見た途端、本宮さんが奥の部屋に声を掛けました。
「唯香、国分君来たよ」
すぐに出て来た唯香は、深刻そうな表情をしています。
「どうしたの、唯香」
「赤ちゃんが逆子で、このままだと危ないの」
「僕は、何をすれば良いの?」
「帝王切開するから、赤ちゃんを取り出したら治癒魔術を掛けて」
「分かった」
念のために手を洗ってから部屋に入ると、更にシーリアさんの声が大きくなり、一瞬気圧されてしまいました。
「あぁぁぁぁぁ……」
産道からは、赤ちゃんの足が出て来ていますが、体のどこかが引っ掛かっているらしく出て来られないようです。
「あ、あたしゃ止めたからね。そんな事したら、母親まで死んじまうよ」
「シーリアさんも、赤ちゃんも救ってみせます! 健人、お願いね」
驚いたことに、唯香が執刀するようです。
話の感じからして、もうシーリアさんとフローチェさんには相談は終えているようですが、助産婦さんは無理だと思っているようです。
「唯香、麻酔は?」
「子供への影響が怖いから使わない。手早く済ませるから、シーリアさんをお願い」
「分かった」
色々と聞きたいことはあるのだけれど、唯香は既に覚悟を決めているように見えるので、僕は全力で手助けするだけです。
「シーリア、始めるわよ」
「お願い! 赤ちゃんを助けてぇぇぇ! あぁぁぁぁ……」
最初に、マノンが水属性魔術で作った水球でシーリアさんの下腹部を覆ってから、唯香がメスをあてて一気に切り開きました。
大量の出血があるかと思いきや、マノンが水球で圧力を掛けているのか、殆ど血は溢れてきません。
マノンの表情から見て、傷口を水球で覆う方法は何度か経験しているのでしょう。
唯香は慎重な手付きで皮膚、脂肪、筋肉、そして子宮を切り開いてゆき、水球の中に胎児の頭が見えました。
唯香がそーっと両手を差し入れて、胎児を取り上げました。
「健人、お願い!」
「任せて!」
シーリアさんの下腹部に両手を当てて、全力で治癒魔術を掛けると、毛筋ほどの跡も残さずに傷口は塞がりました。
色々と目撃しちゃったけど、これは治療行為だからね……鷹山。
出血も殆ど無く、お腹を切り開いて胎児を取り出したのを見て、助産婦さんは信じられないとばかりに首を振っています。
まぁ、僕も唯香とマノンの手際には十分驚かされていますよ。
これで無事出産は終了かと思いきや、生まれて来た赤ちゃんが産声を上げません。
「お願い……頑張って……」
唯香が人工呼吸と心臓マッサージをしていますが、グッタリとしたままで反応がありません。
僕も治癒魔術で補助しますが、魔力の巡りが思わしくありません。
「駄目だ、行くな……戻って来い」
「お願い……お願い……」
「戻って来い……戻って来い!」
懸命に蘇生を試みても、目立った反応も無く時間だけが過ぎてゆきます。
駄目なのか……と思いかけた時、赤ん坊がビクっと体を震わせました。
「けほっ……けほっ、ほぎゃぁ! ほぎゃぁ!」
赤ん坊が泣き声を上げると、部屋の中からも廊下からも歓声と拍手が沸き上がりました。
大きく息を吐いてから天井を見上げた唯香を抱きしめました。
「良かったぁ……本当に良かった」
「お疲れ様、唯香」
「健人、怖かった……失敗したらどうしようって……」
「でも、シーリアさんも赤ちゃんも助けたかったんだよね」
「うん、うん……」
緊張の糸が切れたのか、唯香は僕の腕の中でボロボロと涙をこぼしています。
「マノンもお疲れ様、さっきの魔術って……」
「うん、足を切断しちゃった女の子をケントが治療した時に使った魔術を、あの後から診療所の治療で応用してきたんだ。治癒を意識した水属性魔術で作った水球だと、出血も痛みも抑えられるんだよ」
「なるほど、だから唯香は帝王切開に踏み切ろうと思えたんだね」
「うん、そうだけど、私の治癒魔術では大きな傷をあんなに早く修復できないから、やっぱり健人がいてくれたおかげだよ」
「じゃあ、僕ら三人のチームプレイのおかげだね」
マノンも一緒に抱き寄せると、ようやく唯香は笑顔を浮かべました。
赤ん坊は、二回ほど大きな声で泣いたかと思ったら、スヤスヤと眠りについています。
念のために治癒魔術を掛けてみましたが、全身に澱みなく魔力が流れて行き、何の異常も感じられません。
赤ん坊は女の子で、シーリアさんに似た美少女に育つんじゃないですかね。
願わくば、鷹山の残念な頭脳だけは受け継がないで欲しいです。
子供を胸に抱いたシーリアさんは、慈愛に満ちた母の顔をしていました。
鷹山達は、いつヴォルザードに帰って来るんでしょうかね。
こんなに可愛い奥さんと子供を目にしたら、また鷹山は泣くんでしょうね。
うん、コボルト隊を配置して、感動の対面の瞬間を動画で押さえておきましょう。
きっと、クラウスさんや、コンスタンさんのような親バカになるんでしょうね。
恋人を連れてきたら、どんな顏をするんでしょうかね。
逆上して、魔法をぶっ放したりしないと良いのですが……。
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あぁ、飲み過ぎた……目が開きやしないよ。
てか、うるさい、うるさい、どこのどいつだ手荒く揺さぶりやがるのは。
駄目だ、行くな? 帰って来い? お前は女房に逃げられた駄目な旦那か。
あたしは眠いんだよ……うるさい、うるさい!
あれっ、何か変な声が出たけど、まぁいいか……。
なんだよ、何の拍手だよ……うるさいね。
あぁ……なにこれ、体が宙に浮いてるみたいだよ。
あぁ……何だか体がポカポカして気持ちがいいね。
もう一眠りしたら、ギルドでヴォルザード行きの護衛の仕事でも探そうかね。
待ってなよ、ジョー……。
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