第409話 新しい下宿人

「メイサ、そこ片付け終わったら、お風呂に入っちまいな!」

「は~い!」


 最後のお客さんが帰ったから閉店の札を下げ、テーブルを片付ける。

 食器を流しに運んで、布巾でテーブルを拭いて、椅子を上げておく。


 お店の片づけは、これで終了。

 エプロンを外しながら階段を上がる。


「メイサ! あんた宿題は終わってるんだろうね?」

「おかーさん、明日は安息の曜日だよ!」

「あぁ、そうだった、そうだった。それじゃあ、お風呂に入っちまいなよ!」

「は~い!」


 これから食器を洗ったり、鍋やフライパンを洗ったり、お母さんが厨房の片付けをしている間に、あたしはお風呂を済ませておくのが我が家のルールだ。

 お風呂場の魔道具に魔石をセットして、湯舟にお湯を張っていく。


 魔石は魔物から取れる石みたいな固まりで、魔道具を使うのには欠かせないものだけど、オークやオーガから取れる大きな物は値段が高い。

 ゴブリンなどの小さな魔石は安いけど、お風呂を汲んでいる時などに、途中で魔力が無くなってお湯が止まってしまったりする。


 普通の家だと、毎月の魔石に掛かるお金が馬鹿にならないので、薪と併用してるけど、うちはお風呂場の棚にゴロゴロしているから困らない。

 お風呂にお湯を入れている間に、部屋に着替えを取りに行く。


 寝巻とパンツを持ってお風呂場に戻る途中で、階段を上がったすぐの部屋のドアを開けた。


「真っ暗……って、ケントがいた時も真っ暗だった……」


 部屋には箱を並べたベッドと、箱を積み上げたテーブルと、椅子替わりの箱と、棚替わりの箱があるだけだ。


「つまんない……」


 ドアを閉めてお風呂場に行き、服を脱いで洗濯籠に放り込む。

 うちのお風呂場の棚の魔石は、さっきの部屋に、この前まで住んでいたケントの置き土産だ。


「熱っ! 暖かくなってきたから、もっと温度下げなきゃ……」


 ちょっと調整を失敗して、お湯が熱すぎた。

 水を加えたら、湯舟が溢れそうになってしまった。


「身体洗って、頭洗ってから入ろう……それでも、お母さんが入ったら絶対に溢れるな」


 湯舟から手桶でお湯を汲んで、目をつぶって頭からかぶる。

 洗い場に置かれている、不思議な手触りのボトルから、ヴォルザードでは売ってない液体を手に取る。


 両手を擦り合わせてから髪の毛にまぶしていくと、モコモコと泡が立って、お風呂場がいい匂いでいっぱいになっていく。

 シャカシャカ、シャカシャカと髪を洗ってから、手桶でお湯を汲んで流す。


 なんちゃらシャンプーというケントが持って来たものを使い始めてから、髪の毛が艶々してきた。

 前は朝起きるとバサバサだったのに、最近はツルンとしている気がする。


 身体はボディーなんちゃらで洗う。

 肌も、何だがツルンとしてきた気がする。


 頭と体を洗ってから入ったから、湯舟のお湯は溢れなかったけどギリギリだ。


「ふぅ……ケントも一緒に入れば、お母さんが入っても溢れないのに……」


 鼻の下までお湯につかって、ブクブクと息を吐いてみるけど、別に楽しくない。


「なんか、つまんない……」


 ケントがいなくなってから、家の中がやけに静かだ。

 ケントが帰ってなくても、部屋にはマルトかミルトかムルトがいたのに……。


「つまんない……」

「メイサ、いつまで入ってるんだい。茹っちまうよ!」

「は~い、もう出るところ……」


 お風呂から上がって、身体を拭いて、髪を拭いて、パンツと寝巻を着てから階段を下りる。

 冷蔵庫からミルクを出してカップに注ぎ、腰に手を当てて背筋を伸ばして一気に飲み干す。


「ぷはぁ! これが正しい飲み方なんだ……よね」


 カップを濯いで籠に伏せ、ミルクを仕舞って階段を上がる。

 階段を上がり切ったすぐのドアを開けてみたけど、やっぱり真っ暗だった。


 こっちの部屋で寝ようかと思ったけど、お母さんに笑われるから止めておく。

 べ、別に、一人でも怖くなんかないもんね。


「ふわぁぁぁ……つまんないから寝ちゃおう」


 部屋に戻って、ベッドに潜り込む。

 もふもふがいないから、寝るのもつまらない。


 それに、何だか物足りない。

 こう、なんか抱えると安心するものが無いような気がする。




「ほら、メイサ! 店を手伝うなら、さっさと起きて、朝食を済ませちゃいな!」

「は~い……」


 うちのお母さんは朝から元気だ。

 お母さんの子供なのに、あたしは朝は苦手だ。


 朝起きたら、まず布団を確かめる。


「ふふん、おねしょなんかしてないもんね……」


 寝巻を脱いで着替えて、階段を下りる前にドアを開けてみた。


「おはよう……って、誰もいないんだけどね」


 階段を下りて、裏の井戸で顔を洗って、朝食の配膳を手伝う。

 お母さんは、朝食の支度しながら、今日の仕込みも始めている。


 パン、ハム、チーズ、目玉焼き、サラダ、ミルク。

 いつもと同じ朝のメニューだ。


「さぁ、食べようか」

「いただきまーす」


 パンにサラダのレタスを敷いて、ハム、チーズ、目玉焼きも乗せてから、無理矢理二つに折って具を挟む。

 ケントなら、パンをもう一枚乗せてペロリと食べてしまうけど、あたしはそんなに食べられない。


 はみ出してくる具を齧りながら、パンを齧り、またはみ出してくる具を齧る。


「はぁ、何だか静かだねぇ……」


 静かな理由なんて、お母さんも分かっているくせに……余計なことは言わないでほしい。


「ごちそうさま。あたし洗濯しちゃうね」

「ありがとう、頼んだよ」


 お風呂場に大きな盥を出して、洗濯籠から出した洗濯物を放り込む。

 お風呂の残り湯を入れてから、これまた不思議な手触りのボトルから、キャップ半分の液体を計って投入。


 足で踏んで、洗濯板で擦って汚れを落としたら、魔道具で出した綺麗な水で濯いでから、軽く絞って洗濯籠へと放り込む。

 洗濯籠と綺麗に濯いだ雑巾を持って、物干し台へと移動。


 物干し竿を雑巾で拭いてから、洗い終わった洗濯物を通し、パンパンと引っ張って皺を伸ばしておく。

 全部の洗濯物を干し終えたら、次は……。


「えっと……マナよ、マナよ、世を司りしマナよ……集え、集え、我が手に集いて風となれ!」


 意識を集中して、イメージしながら詠唱すると、右手に風の渦が生まれる。

 生まれた風の渦を、干したばかりの洗濯物に当てて、水気を飛ばしていく。


 これは、ケントが教えてくれた方法だ。

 風を当てると洗濯物が早く乾くのだ。


 集中していないと、風の渦はすぐに解れて消えてしまう。

 1枚、2枚……3枚目のお母さんのシャツを乾かし始めたところで、渦は消えて無くなってしまった。


 まぁ、パンツ1枚乾かせなかった最初の頃に較べれば上出来だ。

 でもこれは、純粋な魔法の練習であって、おねしょの対策じゃないんだからね。


 お風呂場に出しっぱなしにしていた盥を片付け、湯舟を綺麗に洗って、今日の洗濯は終わり。

 手を洗って階段を下りると、サチコが来ていた。


「おはよう、メイサ。もう洗濯を終わらせたのか?」

「うん、バッチリだよ」

「やるなぁ、将来有望だ」

「でしょでしょ!」


 サチコはケントの友達で、男の子みたいなサバサバした喋り方をする。

 何だか、とっても辛いことがあったみたいだけど、今はすっかり立ち直って、うちのお店を手伝ってくれている。


 サチコはケーキを焼くのが上手で、時々ニホンで売っているようなケーキを焼いてくれる。

 とっても美味しいんだけど、まだ本人は納得していないみたいで、もっと腕を磨いたらケーキ屋を始めたいそうだ。


 どうしよう。ヴォルザードでニホンみたいなケーキが買えるようになったら、お小遣いがいくらあっても足らなくなっちゃう。

 サチコは、お腹に赤ちゃんがいるので、お店の手伝いは夕方の仕込みまでだ。


 午前中の営業が終わった後は、サチコも一緒に少し遅めのお昼ご飯を食べる。

 サチコもケントと同じニホンの生まれだから、あたしの知らないことを一杯知っていて、話もとっても面白い。


 本当は、サチコがケントの後に下宿するはずだったけど、違う所に家を買ったらしい。

 友達と一緒に暮らすみたいで、サチコと同じようにもうすぐ赤ちゃんが生まれる人や、そのお母さんがいるから心強いみたいだ。


 あと、うちの階段はちょっと急だから、お腹に赤ちゃんがいるサチコには危ない。踏み外したりしたら大変だ。

 サチコと一緒に楽しいお昼ご飯を食べていたら、お客さんが入って来た。


「あのぉ、ここはアマンダさんのお店ですか?」

「あぁ、ごめんよ。お昼の営業は終わっちまったんだ。また夕方にでも来ておくれ」

「い、いえ、そうじゃなくて、その……げ、下宿できるってギルドで紹介してもらったんですけど……」

「あぁ、そっちかい。入っておいで」

「お、おじゃまします……」


 店の戸を開けて入って来たのは、あたしより少し大きいぐらいの女の子だ。


「は、は、初めまして! ミリエと言います。えっと、Fランクの冒険者……なりたてです!」

「あたしが、この家の主アマンダだよ。こっちが娘のメイサ。こっちは食堂を手伝ってくれているサチコだよ」

「よ、よろしくお願いします!」


 ミリエがガバっと頭を下げると、両サイドで束ねた青い髪の毛がピョコンと跳ねた。

 本人も言ってたけど、冒険者になりたてホヤホヤで、ガチガチに緊張しているみたいだ。


「なぁなぁ、メイサ。国分が初めて来た時も、こんな感じだったのか?」

「んー……何て言うか、もっとポヤーってしてた」

「あははは……分かる、なんか分かるよ。ポヤーっとしてたもんな」

「でしょでしょ。だから、あたし言っちゃったんだ。どうせまた、コロって死んじゃうじゃないの?って……」

「あははは……ウケる。でも分かる、めっちゃ頼り無さそうだったもんな」

「でしょう!」


 うん、さすがサチコは良く分かっている。

 うちに来た頃のケントは、本当に頼り無かったのだ。


「ほらほら、あんた達、ミリエを放ったらかしにして喋ってんじゃないよ。ミリエ、お昼は食べて来たのかい?」

「ひゃい……た、食べて来ました」

「じゃあ、ちょっと、そこに座って待ってておくれ、今お茶を淹れてあげるよ」

「ひゃい、ありがとうございましゅ!」


 ミリエは、いつもケントが座っていた椅子、サチコの隣、あたしの向かい側に座った。


「ミリエは、ヴォルザードの生まれなの?」

「い、いいえ、マールブルグから来ました、サチコさん」

「やだなぁ、そんなかしこまらなくても大丈夫だよ。普通にサチコって呼んでよ」

「ひゃい、サチコさん」

「くっ……まぁ、いいや」

「はい、サチコさん」


 サチコは緊張を解そうとしているみたいだけど、ミリエは一杯一杯のようだ。

 お母さんがお茶を淹れてあげると、慌てて飲んでヤケドしそうになってるし、いくら駆け出しの冒険者でも、落ち着きがなさすぎる。


 あたしたちもご飯を食べ終えて、お茶を飲みながら、出身地の話とか魔法の属性とかを聞いたんだけど、それだけで一日分の体力、精神力を使い果たしてしまったみたいだ。


「メイサ、部屋に案内してあげな。ミリエ、部屋に置いてある物は、前の下宿人が置いてった物だから、自由に使っていいからね」

「ひゃい、ありがとうございます!」

「いいや、礼なら前の下宿人に言っておくれ」

「あ、あのぉ……前の下宿人さんは、どうなさったんですか?」

「あぁ、嫁さんをもらうんで、広い家に引っ越したのさ。大丈夫、ピンピンしてるよ」

「はぁ、そうですか……良かった」


 ミリエは、あまり凹凸のない胸を撫で下ろしているけど、あたしは何だか胸がモヤモヤし始めていた。

 お母さんは何気なく言っただけだし、いずれ下宿人が来ると分かっていたけど、何となく案内したくない。


「ほら、メイサ。案内してやんな」

「は~い……」


 下宿人が入れば、うちには毎月の家賃収入になるし、ギルドからの補助金も貰える。

 それだけ、うちの生活が楽になるのだと分かっているけど、モヤモヤする。


 ミリエを連れて階段を上がったのだが、今日はやけに階段が急に感じる。

 階段を上がり切ったドアを開けたら、胸がズキンとした。


「はい、ここがあなたの……部屋よ。木箱の中の物は使っていいから。トイレと風呂はそっち、物干し台はこっちね……じゃあ」

「あ、あの!」

「なに?」

「こ、これからよろしくお願いします」

「……コロっと死なないでよね」


 何だか分からないけど、胸がモヤモヤして、なんかズキっとして、涙がこぼれそうになっている。

 もう、訳わかんない。


 階段を駆け下りて、裏口から飛び出した。

 つまんない……違う、面白くないんだ。


「あそこは、ケントとモフモフと……あたしの部屋なのに……」


 裏の井戸で顔を洗っていると、へんてこな声が聞こえて来た。


「ふぇぇぇ! これって……えぇぇぇ!」


 たぶん、ミリエが木箱の中を見たのだろう。

 ナイフや短剣、革鎧に片手盾、天幕、魔道具、鍋、水筒、毛布、ロープ、陣紙などなど、全部ピッカピカの新品ばかりだ。


 ハンカチで顔を拭いて裏口へ入ると、ドタドタとミリエが階段を駆け下りて来た。


「ア、ア、アマンダさん。あれ……箱の中……全部新品では?」

「そうなのかい? 前にいた子が、次の人へ……って置いてったものだから、自由に使って良いよ」

「でも……」

「タダで使うのは気が引けるかい?」

「はい……」

「だったら、あたしと約束しておくれ」

「約束……ですか?」

「そう、ミリエが結婚するか、それとも成功を手にしてもっと広い家に引っ越すのか分からないが、あの部屋から元気に巣立っておくれ。無茶をして、死んだりしないと約束しておくれ。あの装備は、そのために前の子が置いていった物だからね」

「はい、分かりました」

「毎月の家賃は2500ヘルト、朝晩の食事を食べるなら、あと500ヘルトだけど、どうする?」

「食事つきでお願いします」

「じゃあ、部屋を片付けちまいな。夕食は店が一段落したらメイサに呼びに行かせるから、それまで待ってておくれ」

「はい、分かりました」


 ミリエは小さく拳を握って、弾むような足取りで部屋に戻っていった。

 なんだかムカムカして溜息をついたら、サチコに頭をワシャワシャ撫でられた。


「わっ、えっ?」

「メイサ、気分が乗らない時こそ、作り笑いでも良いから笑ってな」

「えっ、なんで?」

「そんなの決まってんじゃん、笑ってる方が良い女に見えるからだよ」

「そうなの?」

「そうだよ、この顔と……この顔……どっちが良いよ?」


 サチコは最初、思いっきり眉間に皺を寄せてみせ、次にニカっと笑ってみせた。


「うーん……後の方が良いけど」

「良いけど?」

「ちょっと馬鹿っぽかった」

「こいつ……新しい下宿人が来て、メイサがしょげてたって、国分に言っちゃうぞ」

「にゃぁぁぁ! 駄目、駄目、絶対駄目! ってか、しょげてなんかいないもん!」

「はいはい、そうですか……」

「きぃぃぃ……しょげてないもん!」

「はいはい、そうですね」


 ニマニマしたサチコの笑いは腹が立つ。腹は立つけど嫌じゃない。

 きっと、ちょっとだけケントに似ているからだろう。


 荷物を整理しに二階の部屋へ上がって行ったミリエは、少ししたら降りてきた。

 荷物といっても着替えが少しある程度で、すぐに整理は終わったそうだ。


「何かお手伝いさせて下さい」

「そうだねぇ……せっかくだから、そこの芋を剥いてもらおうか」

「は、はい……」


 張り切って仕込みの手伝いを申し出たミリエだったけど、思っていた以上にポンコツだった。

 芋は剥いた皮が厚すぎて、半分ぐらいの大きさになってしまった。


 卵を割らせればグチャっと潰れて、細かい殻を取り出すのに四苦八苦していた。

 洗い物を頼めば、パリーンと割れる音が響いて来た。


「あぁ、もういいよ。そうだ、ちょっとメイサの宿題を見てやっておくれ」

「分かりました。任せて下さい」

「えぇぇぇ……」

「えぇぇじゃない! メイサ、あんた明日持っていく宿題終わってないだろう?」


 それでも算術の宿題を一人でやるよりも楽だろう……と思ったけど、あたしと同レベルみたい。


「ちょ、ちょっと待ってね。7分の……違う、2分の7だから……2が2つで4で、3つだと5? 4つだと……」

「ごめん、余計に頭が混乱するから1人でやらせて」

「す、すみません……」


 ケントなら、問題を見た瞬間に答えが分かっているみたいだったけど、ミリエと一緒だと余計に深い迷路に落ちていくような感じがする。

 結局、サチコに手伝ってもらっている間、ミリエは裏の井戸端で木剣の素振りを始めたようで、妙な掛け声が聞こえていた。


「はい、これで終わり」

「はぁぁ、算術嫌いぃぃぃ……」

「あははは、メイサ、算数はパズルとか暗号解読だと思ってやると面白いぞ」

「パズル?」

「そうか、そっからか……まぁ、今度コツを教えてあげるよ」

「うーん……でも面白くなる気がしない」

「あははは、まぁ、物は試しにやってみな」


 夕方の仕込みを終えて帰っていくサチコを送って裏口を出ると、フラフラしながら木剣を振っているミリエがいた。


「え、えい……うぎぃぃぃ」


 思いっきり振り上げた木剣を振り下ろした途端、ミリエは腰を押さえて蹲った。


「おいおい、大丈夫かい?」

「うぎぃぃぃ……腰が……」


 サチコが心配そうに手を貸すけど、腰が痛くてミリエは立ち上がれないようだ。

 ケントがいた部屋に、これから暮らすミリエがあまりにもポンコツで、イラっとした思いが口から出てしまった。


「はぁ……そんなんじゃ、コロって死んじゃうから冒険者なんて止めた方がいいよ」


 ミリエは、ビクっと身体を震わせて、一度あたしの方を見てから俯いた。


「い、嫌です……」

「だって、あたしが見ても才能……」

「嫌っ! 私の夢だから、絶対に諦めないから……うぎぃぃぃ」


 ミリエは涙をボロボロと零しながら、木剣を杖代わりにして立ち上がろうとした。

 失敗した。完全な八つ当たりだった。


 誰かの夢を貶しちゃいけない……誰かの一生懸命を馬鹿になんかしちゃ駄目だ。


「おいおい、無理すんなよ。ほら、メイサも手を貸して。それと、言い過ぎたって思ってるなら、素直に謝る」

「ごめんなさい」

「いいんです。才能が無いのは私が一番分かってるから……でも、それでも諦めたくないんです」


 涙で顔をグシャグシャにしながら、絞り出すように話すミリエの肩を、サチコがポーンと叩いた。


「いいね。ミリエ、格好いいよ」

「えっ……」


 予想もしていない言葉掛けられて、ミリエはポカーンとしている。


「あたしは一回自暴自棄になって、自分の夢とか全部捨てちゃったんだ」

「そうなんですか……?」

「うん、そうなの……そうなんだけど、それでもやっぱり捨てきれない。だから、パティシエールになるって夢を、もう一回拾って来て、今一生懸命磨いてるところさ。いいじゃん、冒険者。ミリエが納得するまでやってみなよ」

「サチコさん……ありがとうごじゃいますぅぅぅ……」


 ミリエは、サチコに肩を抱かれながらボロボロと涙を零したけど、さっきの涙とは少し違っているように見えた。

 格好いい……あたしといくつも変わらないのに、サチコは凄く格好いい。


「さて、メイサの夢はなにさ?」

「えっ、あたしの夢?」

「そう、ミリエの夢は冒険者。あたしの夢はパティシエール。誰が何と言おうと叶えてみたい、なってみたいメイサの夢はなに?」

「お……」

「おっ?」

「お嫁さん……」


 びっくりした。急にサチコに聞かれたから、誰にも内緒にしておくはずだったのに、気が付いたら喋ってた。


「そうか、お嫁さんか……でも、それは誰のお嫁さんになりたいのか、ちゃんと言わないと叶わないぞ」


 やだやだ、あたしだけ夢が叶わないなんて嫌だ。


「ケ……ケントのお嫁さん……」

「もっと、大きな声で!」

「あ、あたしは、ケントのお嫁さんになりたい!」

「にししし……言ったな! 頑張れ、メイサ!」


 なんで? なんであたしは、こんな恥ずかしいことを大声で叫んでるの?

 鏡を見なくても分かる、今のあたしはトマトみたいに真っ赤になってるはずだ。


「ただいま~」

「にゃぁぁぁぁぁ!」


 突然、後ろからケントの声がして、口から心臓が飛び出すかと思った。

 もしかして……さっきのあれを聞かれたのだろうか。


「なに、なに、何を叫んでるんだよ、メイサちゃんは……」

「にゃぁぁぁぁ! 叫んでない、何も叫んでないもーん!」

「あははは……いい、最高、ナイスタイミング、国分、グッジョブ!」

「えぇぇ……綿貫さんまで、何言ってるの?」


 突然姿を現したケントは、訳が分からないみたいで頭を捻っている。

 どうやら、さっきのあれは聞いていないみたいだ。


「それで、その人はどうしたの?」

「おぅ、丁度いいや。新しい下宿人のミリエだ。ギックリ腰みたいだから治してやってよ」

「ありゃ、ギックリ腰か、辛いもんね」

「あの、何を……ふわぁぁぁ……」


 ケントは事情が呑み込めないミリエの後ろに回り、痛めた腰に手をあてて治癒魔術を掛け始めた。


「うん、もういいかな」

「えっ、えぇぇぇ! なんで? 全然痛くない……」


 ベアトリーチェさんの腐敗病まで治してしまったケントだから、ギックリ腰程度は簡単なのだろう。

 驚くミリエを放ったらかしにして、ケントは裏口から店に入っていく。


「アマンダさーん、活きの良い魚を仕入れて来ました……」


 うん、また美味しい魚が食べられるみたいだ。

 ケントも、うちで食べるのかな?


「あのぉ、さっきの人は?」

「あぁ、あれが前の下宿人だよ」

「えぇぇ……じゃあ、装備のお礼を言わないと……」

「いいの、いいの、国分は金持ってるから大丈夫だから」

「でも……あれっ、コクブ? さっき、メイサちゃん、ケントって……まさか」


 マズい、ミリエに口止めしておかないと、さっきの話がケントにバレる。


「駄目なんだからね。さっきの話は絶対、絶対、内緒なんだからね!」

「いえ、そうじゃなくて、あの人はケント・コクブさんなんですか?」

「あれっ、言ってなかった?」

「言ってなかったかも……」

「聞いてませんよ! というか私、治療してもらっちゃって、Sランクの方に頼んだら……ふぅ」


 たぶんミリエは、噂話になっているケントしか知らないからだろう、Sランク冒険者に依頼を出してしまい、高額な報酬を請求されると勘違いして気を失ってしまった。


「ちょ、しっかりしてよ。ケントはお金なんて取らない……あれ、取るのかな?」

「あははは……国分に二階の部屋まで運んでもらいな。てか、そろそろ開店の時間じゃないの?」

「あぁもう……ケント! ちょっと手伝って! ケントのせいなんだからね!」


 いつか……いつか、あたしがお嫁さんになってあげるから、世話の焼ける後輩下宿人をちゃんと部屋まで運んでよね。

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