第363話 お出迎えの準備
ヴォルザードを囲む城壁の南西に位置する門は、一歩踏み出せば魔の森へと通じる街道で、商隊の馬車を通す時以外は堅く閉ざされています。
ヴォルザードから他の街へと向かう人の多くは、反対側の北東の門を使っているので、そちら側が正門だと思われがちですが、南西の門こそがヴォルザードの正門となります。
これは、かつてランズヘルト共和国がリーゼンブルグ王国の一部であったころの名残りで、王都アルダロスへ向かう門こそが正門なのだそうです。
その南西の門の近くには、多くの民衆が集まってきています。
どこから流れたのかは分かりませんが、バルシャニアの皇女セラフィマの一行が到着すると噂になっているようです。
日本のようにインターネットや携帯電話などの通信網はありませんが、娯楽が豊富ではないヴォルザードでは、噂が流れればあっと言う間に人が集まってきます。
この口コミ効果には驚かされますが、噂の出所は守備隊のバートさんあたりではないかと推測しています。
顔の広いバートさんは、日本で言うならインフルエンサー的な存在ですからね。
野営地からヴォルザードまで、セラフィマ一行を見守るつもりだったのですが、出迎えの方法をクラウスさんから聞いた後、守備隊の訓練場で一日を過ごす事になりました。
理由は、南西の門で一行を出迎えた後、迎賓館までの道程をクラウスさんと馬を並べて進むと言われたからです。
「はあ? 馬に乗れねぇだと?」
「えっと……はい、移動はもっぱら影移動を使っているもんで……」
「かぁ、Sランクの冒険者が馬にも乗れないとは、情けねぇ……」
いやいや、そんな事を言われても、僕の意思とは関係なくSランクに昇格させられちゃったんですし、日本では乗馬を習う機会なんて無かったですからね。
「代わりにストームキャットかギガウルフに乗るっていうのは……」
「駄目に決まってんだろう! 馬どもが逃げ惑って大騒ぎになるだろうが!」
「ですよねぇ……」
「ったく、しょうがねぇなぁ……守備隊に行って、一番大人しくて言うことを聞く馬を用意してもらって、恰好が付くように練習してこい」
「はい、分かりました……」
といった経緯があって、朝から守備隊の厩舎を尋ねることになりました。
頼ったのは、以前馬の扱いを教えてもらったベテラン厩務員のレイモンドさんです。
「という訳で、夕方までに何とか恰好が付くようにお願いしたいのですが……」
「なるほど……まぁ大丈夫だろう。馬っていうのは利口な動物だからな、列を組んで移動する時には、ここに付いて行くんだって、ちゃんと分かるもんなのさ」
「じゃあ、僕が余計なことをしなければ大丈夫そうですね」
「そういう事だ。一番賢い馬を用意してやるから安心しな」
「ありがとうございます」
一日で乗馬が出来るようになれと言われた時は、どうしたものかと思いましたが、これならば大丈夫そうですね。
「それにしても、あの坊主が魔物使いと呼ばれるSランク冒険者になるとはねぇ……」
「いやぁ、色々と事情がありまして、正体を明かせませんで申し訳なかったです」
「とんでもねぇ、お前さんには何度もヴォルザードを救ってもらってるんだ、謝ることなんか何もねぇよ。それより夕方までなんだろう、さっさと始めよう」
「はい、よろしくお願いします」
早速、乗馬の練習を開始するために、厩舎から馬を出すことになりました。
「よーし、それじゃあ、この馬に乗ってくれ」
「へっ、この馬ですか?」
レイモンドさんに案内された馬房にいたのは、綺麗な栗毛の馬でした。
左の後脚の先だけ白い毛が生えていて、そこだけ靴下を履いているようです。
「スナッチ……」
「おっ? なんで名前を知ってるんだ?」
「いや、前に馬の扱いを少し習った時に、担当したのがスナッチだったので……」
「おぅ、そうだったか。スナッチは、ここにいる馬の中では一番賢い子だからな。こいつならば大丈夫だ」
「そ、そうですねぇ……よろしくね、スナッチ」
「ぶるぅぅぅ……」
確かに賢そうなんだけど、賢すぎて舐められちゃってるように感じるのは、気のせいじゃないと思うんだよねぇ。
「それじゃあ、まずは引き綱を付けて馬房の外へ出すか」
「はい……」
馬房の中へと入り、レイモンドさんの指示に従って装具を付け、引き綱を繋いでから柵を外しました。
スナッチは頭を上げて、いかにもやる気十分です……やる気十分です。
「ちょ、ちょ、待って待って、止まってスナッチ、止まってぇぇぇ……」
まぁ、予想はしていましたけど、スナッチは僕を引き摺るようにして、砂場に向かって一直線に進んで行くと、ゴロンゴロンと砂浴びを始めました。
くぅ……舐められてる、完全に舐められちゃってます。
スナッチは、存分に砂浴びを楽しむと、すっと立ち上がってブルブルと身体を震わせて砂を落としてみせました。
ニヤっと笑ったようなドヤ顔からして、僕のことを覚えているようですね。
僕のことを物理的にも精神的にも見下ろして、勝ち誇ったようなスナッチの表情は、次の瞬間に凍り付きました。
ドロドロドロドロ……ドロドロドロドロ……地の底から響いてくるバスドラムのごとき音色に、スナッチはピンと耳を立てたまま微動だにしません。
「グルゥゥゥゥゥ……」
バスドラムのような響きに交じり、野太い唸り声が聞こえてくると、スナッチはガタガタと震えだしました。
うん、馬が蒼褪めるのを初めて見たよ。
「おいおいケント、これは……」
「あぁ、大丈夫ですよ。ちょっと僕の眷属が苛ついているだけです」
ガタガタと震えているスナッチに歩み寄り、引き綱を繋ぎ直し、ポンポンと首筋を軽く叩きました。
「スナッチ……分かってるよね? あんまり調子くれてると、ガブっとやられちゃうからね」
「ぶるぅ……」
「ネロ、ゼータ、エータ、シータ、分かってくれたから、もう良いよ」
僕が声を掛けると、ネロの喉鳴りもゼータ達の唸り声もピタリと止みました。
スナッチの震えも止まりましたが、汗ビッショリです。
「レイモンドさん、ちょっと水を飲ませてあげてから始めましょう」
「お、おぅ……それは良いけど、さっきのは何なんだ?」
「あれはですね……」
ネロ達の事を説明すると、今度はレイモンドさんが大きな体を震わせました。
「ストームキャットにギガウルフって……そりゃスナッチがビビるのも当然だ」
「まぁ、スナッチは賢いですから大丈夫でしょう。ねぇ、スナッチ」
「ぶるぅぅ……」
僕の問い掛けに答えるスナッチの声も、先程とは違った響きを伴っているように感じます。
虎の威を借る狐のごとく、眷属の迫力に助けられちゃってますけど、今日は時間もないので大目に見てもらいましょう。
レイモンドさんが指名するだけあって、スナッチは本当に賢い馬でした。
水を飲ませて落ち着かせ、ハミや鞍を付けて跨ると、乗馬に関してド素人の僕でも指示通りに動かせます。
まぁ、正確に言うならば、影の空間から伝わってくる無言の威圧のおかげなんでしょうけどね。
朝から練習を始め、昼過ぎには
「じゃあ、クラウス様の馬と一緒にスナッチも待機させておけば良いな?」
「はい、それで結構です。よろしくお願いします」
馬房に戻ったスナッチは、何だか放心状態です。
また夕方には頑張ってもらわないといけないんだけど、大丈夫かなぁ……。
お昼ご飯は、昨日のお礼を言うついでに守備隊の食堂で済ませようかと思ったのですが、ちょっと時間が遅かったようで昼の営業時間は終わっていました。
仕方がないので、お礼だけ言って別の場所へと向かいました。
「こんにちは」
「ごめんよ。昼の営業は終わりだよ。また夕方にでも来ておくれ」
準備中の札が掛かっていたけど、気にせずに足を踏み入れたのは、アマンダさんのお店です。
なんだか、初めて来た日のことを思い出していたら、厨房から凄い勢いでメイサちゃんが走り出て来ました。
「ケント!」
「ぐへぇぇぇ……メイサちゃん、危ないよ。てか、なんでメイサちゃんがいるの? 学校は?」
「何言ってるの、今日は安息の曜日だよ。それよりケント、バルシャニアのお姫様が来るって本当?」
「本当だよ、夕方には到着する予定」
「それで、ケントは何してるの?」
「えっと……乗馬の練習?」
セラフィマの出迎えで馬に乗ることになり、付け焼刃の練習をしてきたと話したら、アマンダさんにも呆れられちゃいました。
「まったく、しょうがないねぇ……ちょっと座って待っておいで。メイサ、もう一人前追加だよ」
「はーい、お母さん、ケントじゃ有り合わせで良いよね」
「あぁ、構わないよ」
うん、まぁその通りなんですけど、せめてポーズだけでも腕に縒りをかけてとか、とっておきをとか……まぁ、いいんですけどね。
座った場所は、下宿していた頃に座っていた席です。
このところバタバタしていたので、ここに来るのは久しぶりなんですけど、やっぱり我が家みたいに落ち着きますね。
ブライヒベルグのダナさんの店に行った時のクラウスさんは、今の僕みたいな気持ちなんでしょうかな。
何だか落ち着いてきちゃって、このまま二階の部屋に上がって昼寝したくなっちゃいますよ。
「なんだいケント。バルシャニアから嫁を貰うって言うのに、そんな疲れた顔して大丈夫なのかい? また無茶してるんじゃないだろうね」
「ふぇ? はい、大丈夫ですよ。昨日の晩、ちょっとばっかり頑張りすぎちゃいましたけど、食事したら少し仮眠しますから」
「頑張りすぎたって、何してたんだい?」
「えっと、城壁のお色直しです」
「お色直し……?」
アマンダさんは意味が分からなかったらしくて、メイサちゃんに視線を向けましたが、同じく意味不明だったようです。
なので食事をしながら、昨晩ヴォルザードの城壁に施した処置を説明しました。
「それじゃあ何かい、ヴォルザードの城壁が磨き込んだみたいにピカピカになっているのかい?」
「はい、もう新品同様……いや新品以上にピカピカ、ツルツルですよ」
「ほえぇぇ、そいつは一度見てみたいもんだねぇ……」
アマンダさんもメイサちゃんも、口で説明しただけだと上手くイメージ出来ていないようなので、マルトに手ごろな石を拾ってきてもらい、実際に送還術で削ってみせました。
「はぁぁ、こりゃ驚いた。こりゃ本当に磨いたみたいだね」
「まったく、ケントはやりたい放題なんだから」
「そんな、僕が好き勝手な事をやらかしてみたいに言うけど、ちゃんと意味があるんだからね」
「意味ってなに? バルシャニアから来るお姫様に、良いところを見せたいからじゃないの?」
「勿論それもあるけど、ヴォルザードの城壁は、魔物から街を護るためにあるんだよ。表面がツルツルになれば、ゴブリンなんかそれだけで登れなくなるんだからね」
「あぁ、そうか、へぇ……ちゃんと考えてるんだ」
まったく、それじゃまるで僕が思い付きで行動して……いますね。
うん、もう少し計画的に物事を進めるようにしましょう。
「ねぇねぇ、お母さん、あたしもバルシャニアの行列を見に行っちゃ駄目?」
「そうだねぇ……こんな事は、そうそう何度もある事じゃないしねぇ……」
いやぁ、実はもう一回ぐらい、リーゼンブルグの王女様とかお迎えする予定でいるんですけど、まだ言わない方が良いかな。
「アマンダさん、夜の営業を臨時休業にして、メイサちゃんと一緒に歓迎会に出てもらえませんか?」
「何だって、あたしらがかい?」
「行く! ねぇ、いいでしょ、お母さん」
「突然言われても……というか、あたしらはちゃんと人数に入ってるのかい?」
「えっ、い、いやぁ……それは、これから?」
そう言えば、歓迎会の招待客とか席の並びとか、何も聞いていませんね。
「まったく、この子は……人を誘うなら、ちゃんと受け入れる準備が整ってからにしな」
「うっ、すみません……でも、二人追加でも大丈夫なら、出てもらえますか?」
「ねぇねぇ、いいでしょう、お母さん」
「はぁ……あたしらが出席しても大丈夫ならね。さっさと許可を取っておいで、でないと午後の仕込みを始めちまうよ」
「はい、それじゃあ、ちょいと行ってきます」
結論から言えば、アマンダさんとメイサちゃんは、最初から人数に加えられていました。
唯香達は、僕が連絡しているものだと思い込んで、誰も連絡していなかったそうです。
ちなみに、マノンのお母さんノエラさんと、弟のハミルも招待されています。
唯香の家族については、正式に式を挙げる時にヴォルザードに来てもらう予定です。
というか、もう少しすると、日本はGWになるので、そのタイミングで式を挙げる予定です。
唯香の父親の唯生さんは、ヴォルザードに行けるならば仕事を休んでも行くと言ってるそうですが、またクラウスさんとデロンデロンになるまで飲みたいだけじゃないですかね。
「アマンダさん、歓迎会の人数には最初から入っていたそうです。ご連絡が遅くなって、ごめんなさい」
「まったく、もうすぐ四人も嫁を貰うっていうのに、ちゃんとしなよ」
「はい……面目ないです」
「ねぇねぇ、ケント、あたしも行っていいんだよね?」
「ごめん、メイサちゃんは……」
「えぇぇ……」
「勿論、出席してもらうよ」
「やったぁ! って、出られなかったらどうしようって心配しちゃったじゃない。ケントのバカ!」
うんうん、良いよねぇ……この感じ。
プンスコ怒っているメイサちゃんを宥めてから、僕も支度を整えに迎賓館へと戻りました。
ところで、僕はどんな恰好で出迎えれば良いのかな。
あれっ、この前いただいてきちゃったリーゼンブルグの王族の衣裳とかは、さすがに変だよね。
困った時は、唯香達に相談ですよね。
唯香達の護衛を務めている、フルト、ヘルト、ホルトが集まっている所へ、影を経由して移動しました。
「ねぇねぇ、僕はどんな服で出迎え……」
「きゃぁぁぁ!」
「あっと……ごめん!」
唯香達もセラフィマを迎えるための支度の最中でした。
べ、別に着替えを覗こうと、タイミングを計ってた訳じゃないからね。
と言うか、みんな下着は付けていたし、もうすぐ結婚するんだから、ちょっとぐらいは……うひぃ、揃ってギロンと睨まれました。
入室を許可された後、軽くお説教を食らってから、今日の僕の衣裳を用意してもらいました。
新年のパーティー用の服を作った時の寸法を元にして、三人が服屋のフラヴィアさんに仕立てを頼んでおいてくれたそうです。
でも去年の暮れの寸法を元にしているので、サイズが少し小さく……なってませんね。
そう、これはきっとフラヴィアさんが成長分を見越して仕立ててくれたのでしょう。
うん、きっとそうだと思うから、聞かないでおきましょう。
「どう? おかしくない?」
「大丈夫、健人に似合ってる」
「うん、格好いい」
「ケント様、素敵です」
仕立てられていた服は、少しカジュアルな感じのジャケットとパンツで、いかにも冒険者の街ヴォルザードという雰囲気が出ています。
ベースはキャメルカラーの羊毛織りで、襟や袖などにダークブラウンに染められたレザーが使われています。
首元には、ワインレッドの厚手のスカーフを巻いているので、風の侵入も無く暖かです。
大きな姿見の前で、おかしな所が無いかチェックしていると、ドアがノックされました。
「ケント様、クラウス様がお迎えに見えられていらっしゃいます」
「はい、今行きます」
クラウスさんと僕が城門前でバルシャニアの一行を出迎えて、唯香達は領主の館で出迎えるそうです。
「じゃあ、行ってくるね」
三人とハグを交わして、迎賓館のロビーへ行くと、こちらもキッチリとした服装に着替えたクラウスさんの姿がありました。
「お待たせいたしました」
「ほぅ、馬子にも衣装ってやつか?」
「否定はしませんよ。まだまだ見た目じゃ舐められっぱなしですからね……」
スナッチに舐められた話をしたら、クラウスさんは腹を抱えて大笑いしました。
「はははは、そいつは相当賢い馬だな。その様子ならば、ケントに舐めた態度を取ればどうなるか、骨の髄まで分かっただろうから心配ねぇな」
城門までは馬車か何かで移動するのかと思いきや、クラウスさんは歩いて向かうようです。
「おぅおぅ、随分と人が集まってやがるな。ほぅ、屋台を出してる連中もいるのか……ありゃ普段は北東の門の近くで商売してる連中だな」
ヴォルザードからマールブルグへと向かう北東の城門近くには、毎朝開門前に多くの旅人が集まって来ます。
そうした旅人を目当て屋台を出している人達が、一旦店を閉め、こちらに移動してきて商売を始めているようです。
「皆さん、商魂逞しいですねぇ……」
「そうだな、それにしても、バルシャニアの一行が来るとなると、こうまで人が集まるか」
「そりゃ、バルシャニアはリーゼンブルグの向こう側、普通の人ではなかなか行けない国ですからね」
「それもあるだろうが、基本的にヴォルザードには娯楽が足りてねぇ。リーチェから伝え聞いているが、ニホンには沢山の娯楽があって、大きな産業になっているんだろう?」
「まぁ、そうですね。多種多様な娯楽があります」
「博打や女遊びのように、身を持ち崩す娯楽は駄目だが、人を楽しませて銭を稼ぐってのは良いもんだ。ついでに街が潤うなら猶更良い」
「クラウスさん、何か企んでいます?」
「ふははは、そいつはまた追々な……」
僕の義理の父親になる方は、また何やら企んでいるようですが、誰よりも街のこと、住民のことを考えている人ですから大丈夫でしょう。
僕に手伝えることがあるならば、労を惜しむつもりはありませんよ。
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