第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(3)

 夜がおとないを告げる。

 アリトラの海は、昨晩の大嵐が嘘のように凪いで、半月が空に輝き、星々がまたたいている。エレフセリアの民は昔から、海に出る時、昼は太陽の位置を、夜は図画に見立てた星を頼りに、船を進ませてきた。

 そして今、アイビスは月と星の青白い光を頼みに、王宮の裏庭を、出来る限り足音を殺して駆け抜けていた。 母の部屋は、姉の息のかかった兵が警護していて、表から乗り込む事は出来ない。ならば、搦め手を使うまでだ。ちりちりちん、と気の早い秋の虫が鳴くのを耳に聞き、不審者避けの石灯籠の火に釣られて蛾が飛び込むのを横目に見る。やがてアイビスは、かつて母リザが使っていた部屋の窓下の草むらへと潜り込んだ。

 母はあまり物に執着する性質の人ではなかった。父ストラウスが宝石や服を贈っても、『ありがとうございます』とたおやかに礼は述べるものの、贈られた物を殊更見せびらかす事は無かった。一度、二度、身につけた後は、クローゼットに仕舞い込まれたのだ。

 勿体無い、と鼻を鳴らすタバサに、

『では、あなたが身につけると良いわ。沢山着てもらった方が、服も喜ぶでしょう』

 と渡してしまう事もしばしばだった。父は困惑し、姉は施しを受けたと思ったのだろう、『顔だけで後妻の座に収まったくせに、調子に乗って』とぶつくさ文句を言いながらも、もらった物はしっかりと身にまとっていた。

 そんな母が、唯一こだわり父にねだった物があった。それが、大きな水槽である。

 部屋の壁に幾つもの水槽を置き、海の水を汲んできて注ぎ、海の生物を解き放ったのだ。さしずめ、母の部屋は海中のようになった。幼いアイビスは、透明な硝子の世界の中でゆらゆら泳ぐ魚を見上げながら、大陸中央にあるという水族館アクアリウムとは、このようなものだろうかと、子供心に思ったものである。

 母が亡くなった後、水槽の維持がされる事は無く、中の生物は次々と水面に浮かび、水も干上がって手入れされる事は無くなった。今、そこに閉じ込められている人魚は、どんな思いをしているだろう。人と同じ大きさの生物に、あの水槽は小さいはずだ。ただでさえ弱っていた身体に、更に負担がかかっているかもしれない。

 一刻も早く、解き放ってやらなくては。

 その一念を心に秘めて、アイビスはそっと草むらから立ち上がり、腰に帯びた守り刀を抜く。胴体の長い海竜が柄に巻き付いた、エレフセリア王家の者にしか与えられない短剣の切っ先を、窓の隙間に滑り込ませる。

 母が生きていた頃、そっと教えてくれた事がある。

『この窓は少し噛み合わせが悪くてね。向こう側から隙間に薄くて硬い物を通して、鍵を持ち上げれば、簡単に開いてしまうのよ』

 まあ、泥棒さんが来たところで、私の部屋から持ってゆく物なんて何も無いでしょうけど。母はそう冗談めかして、鈴が転がるような愛らしい笑い声を洩らしていた。

 そして今、母の遺した言葉通り、鈎状の金属を引っかけるばかりの鍵は、短剣を軽く持ち上げるだけで簡単に外れた。数年ぶりに開かれた窓が、ぎちいと軋んだ音を立てる。アイビスは周囲を見渡し、目撃者が一人もいない事を確認すると、窓枠に手を、続いて足をかけ、部屋の中へ身軽に飛び込んだ。即座に窓を閉めて再び鍵を下ろす。

 灯りが失われて久しく、月の光だけが射し込む室内を見渡す。すると、部屋の奥の闇の中で、ぴしゃ、と小さく水の跳ねる音がした。

 炎の色で見つからないよう、火を点けずにいた、小型のランプに明かりを灯す。途端、呻き声が聞こえたので、そちらに灯を向けると、狭い水槽の中でまぶしそうに手で顔を覆い隠す、朝に見た人魚の姿が視界に入った。

 青い髪を持つ人魚が、水かきのついた手をゆっくりと退けると、深海の蒼の瞳が、アイビスの姿を映し出す。いきなり現れた新たな人間に、警戒心をむき出しにするかも知れない。騒がれたら、外の見張りに気づかれるだろう。嫌な予感がそわりとした寒気となって背中を這い上がってくる。

 だが。

 人魚の反応は、アイビスが危惧したものとは正反対に作用した。

 ぱっと、端正な青年顔に似つかわしくない、少年のごとき無邪気な笑顔が弾ける。蒼い瞳を嬉しそうに細めて、人魚は水槽の中を優雅に回転しながら泳ぎ、水中から顔を出すと、水槽の縁に手をかけ、

「朱い、鳥!」

 と無邪気さに満ちた声を張り上げたので、アイビスは慌てて唇の前に人差し指を立てて牽制する羽目になった。この声が外に聞こえては一大事だ。タバサに殴られる程度では済まないだろう。実際、それ以上の罰を受けるかもしれない事を、今からしでかすのだから。

「お願い」彼女は人魚に乞うた。「出来るだけ声を小さくして。外に気づかれないようにして。わかる、私の言っている事は?」

 単語だけの拙い喋りなので、会話が成立しないかもしれないという可能性を危惧しつつ、小さく囁く。だが、杞憂だったか、人魚はすっと笑みを消し、神妙な顔つきになったかと思うと、

「声、大きい、君、困る。困る事、しない」

 と、抑えた声色でうなずいてみせた。その顔には、朝、汐彩華の中で見た以上の傷があり、むき出しの胸にも、赤いみみず腫れの箇所がある。誰が何をもってその痛みを青年に与えたかは、想像に難くなかった。

「ごめんなさい。姉が、ひどい事を」

 水槽に額をつけ、胸を締めつける苦しさに、ぎゅっと目を閉じる。すると、ひんやりとした感触が髪に触れ、額を辿って、頬を撫でた。

「君、謝る、必要、無い」

 はっとして顔を上げる。人魚の青年は、水槽から手を伸ばし、アイビスの頬を愛おしげにさすりながら、柔らかい笑みを浮かべていた。かと思うと、すうっとこちらの足に巻かれた包帯を指し示す。

「恩人、君。あいつ、違う。わかる。その傷、僕、つけた」

 心底から申し訳無さそうに眉間に皺を寄せ、青年は唇を引き結ぶ。この人魚は、誰が自分を救ったか、正しく理解してくれている。だからこそ、乱暴なタバサに対して一切心を開かなかったのだ。彼にはきちんと伝わっている。それが嬉しさのさざ波となって、アイビスの胸にわだかまっていた罪悪感の澱みを押し流してくれた。

 無造作に水を注ぎ込んだ水槽の中で、青年は青い鱗の下半身をゆらゆらと揺蕩わせて、アイビスの頬を優しく撫で続ける。命の恩人というだけで、こんなにも気に入られてしまっているのか。それにしては随分と最初から距離を詰めた行動に出るものだ。呆気に取られて、蒼海の瞳を見上げていると、人間より血の気の薄い唇が、にこりと笑みを象り、「名前」と言葉を紡ぎ出した。

「名前。君の。教えて」

 そういえば、助けるのに必死で、名乗り合ってもいなかった。

「アイビス。わたしは、アイビスよ」

 その途端、人魚の顔が更に嬉しそうに輝き、「アイビス!」と宝物を手にしたような喜びの声をあげる。

「アイビス、アイビス。君、本当に、朱い鳥アイビス!」

 水槽の中に戻ったかと思うと、アイビスの名を連呼しながら、くるくる、くるくる。青い鱗がランプの明かりに乱反射して紺碧にすら輝いて見える。

「ちょ、ちょっと、落ち着いて」

 そんなにはしゃいだ声をあげたら、今度こそ表の見張りに気づかれる。慌てて制止をかけると、人魚は先程言われた事をやっと思い出したか、ぴたっと回転を止め、再び水槽から顔を出した。

「ごめん」悪戯を叱られた子猫のようにしゅんと肩をすくめて、彼はこぼす。「すごく、嬉しかった、ごめん」

 自分の名を知る事が出来たくらいで、そんなに嬉しいのか。海の民の心情がはかり知れず、苦笑を洩らすと、青年は、にこにこ顔でアイビスの顔を見つめる。それから、彼女が首からさげている赤みを帯びた貝殻のペンダントを指差して、更に相好を崩した。

「まだ、持ってた」

 どきん、と心臓が跳ねる。この貝の出所を知っている者は、アイビス以外にいない。唯一話を受け止めてくれた母は、天の彼方だ。

 あとはもう一人、この貝を渡してくれた当人を除けば。

「……もしかして」

 鼓動が速くなるのが、耳の奥で響く。差し出す指先まで心臓になってしまったかのように、どくどくと脈打って震える。目の前の青年の姿が、遠い日に、汐彩華の中で見た、青い髪と瞳の少年と重なる。

「あなたなの?」

 そっと掌を合わせれば、冷たい手が、アイビスの火照った手を優しく包み込んでくれる。

「やっと、話せた」

 アイビスの疑問を肯定するように、青年が深くうなずく。その途端、アイビスの世界は十年近く前の、汐彩華の浜辺へと飛んだ。

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