第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(2)

 ばん、ばん、と。

 何か固い物を全力を込めて殴りつけるような音と共に、鋭い剣幕の叫びが聞こえる。亡き母が使っていた部屋からだ。

 自室に戻って傷の手当てをしていたアイビスは、その音声おんじょうを聞き流す事ができなかった。消毒液が染みてまだひりひりする足に包帯を巻くと、ゆっくりと立ち上がり、扉を開ける。

 王宮内の廊下を歩いて、元母の部屋へ向かう。扉の前には、焦げ茶色の巻き毛の青年が立ち、黒の瞳を憂いに細めていた。

「ファディム」

 名を呼ぶと、義兄ははっとこちらを向き、眉間に皺を寄せながら、唇の前に人差し指を立てる。恐らく彼は、意図的に姉が爪弾きにしたのだろう。盗み聞きをしているなどと知られたら、どんな嫌味を投げつけられるかは、想像に容易い。

 軽くうなずき、足音を殺して彼の前に立ち、耳を澄ます。

「あんたを助けたのは、このあたしなのよ! 言う事を聞きなさい!」

「違う! お前、違う! 朱い、鳥、違う!」

「五月蝿い!」

 ばんばんと何かを叩く音と共に、怨嗟すら込めた怒号が飛び交う。その後で、ぱん、と鋭い何かが叩きつけられる音がして、更なる悲鳴があがる。

「命の恩人にその態度。流石は人間の言う事なんて聞かない、勝手気ままな魚の性質たちね」

 でもね、と。地を這う蛇のようにねっとりとした、欲に満ちた姉の声がする。

「あんたは黙って、海底のお宝を差し出せばいいのよ!」

 またひとつ、ぱん、と打ち付ける音と悲鳴が響いた。

「ったく、強情ね。素直に言う事を聞けば、楽になれるのに」

 強欲を隠しもせずに、姉が舌打ちする。

「まあいいわ。あたしの言う事を聞くまで、あんたは絶対に海に帰さない。認めさせるわよ。『あたしが』命の恩人だって」

 そこまでを聞いた時、ファディムが唐突にアイビスの腕を引いた。よろめく形になりながらも、彼に引かれるまま、近くの柱の陰に身を隠す。母の部屋の扉が開いて、不機嫌極まりない表情をしたタバサと、手を焼く子供を見守るような苦笑を浮かべたジャウマが姿を現した。姉の手に革の鞭が握られていた事から、あの叩きつけるような音の出所を悟る。

「まったく。海の民なんて簡単に言いくるめられると思ったけど、案外頭が固いわね」

「海の民は、かつてエレフセリアに棲んでいた者が陸を追われ、逃げ込んだ海中での生活に順応した一族。そのような伝承があります」

 半眼で吐き捨てるタバサに、ジャウマが恭しく胸に手を当て、昔語りを披露する。

「いわば彼らにとって、我々は仇。信用を得るにはいくばくかの時間が必要かと」

 彼の言っている事は至極当然なのだが、ならば、タバサの言動をもっともっと友好的なものに改めさせねばなるまい。その事には一切触れず、理想論だけを述べると、「面倒くさいわね」と第一王女の顔はより一層醜く歪んだ。

「あれがこれ以上言う事を聞かないなら、浜辺で逆さに吊るして仲間をおびき寄ればいいんじゃないの? それまでに死んだら、『保護したが既に衰弱しきっていた』って突っ返せばいいわ。それでも礼くらいもらえるでしょ」

 あまりの言い分に、アイビスもファディムも言葉を失って、驚き顔を見合わせてしまう。自分以外の人間を見下げる言動の多い姉であるとは思っていたが、まさか他の生命まで軽んじるとは。それをたしなめるべき第一の地位にいるジャウマも、嘲笑に近い表情を顔にはり付かせるばかりで、彼女の言動を正そうともしない。

 アイビス達が唖然としている間に、タバサとジャウマの靴音は去り、槍を手にした見張りの兵が二人、扉の前に立つ。自分達が部屋に入る事はかなわなそうだ。

「行こう」義兄がアイビスの背中を軽く叩いて促す。「僕達に出来る事は何も無いよ」

 彼なりに気を遣ってくれたのだろうが、その言葉は今、アイビスの心を鋭く抉る。

 もし、自分に姉を叱り飛ばせるくらいの気概があったら。

 もし、ジャウマに意見が出来るくらい強い立場だったら。

 もし、姉にあの人魚を奪われなかったら。

 もし、彼を助けていなければ。

 後悔しても詮無い思いが、籠の中で滑車を回し続ける小動物のようにぐるぐると頭の中を駆け巡る。

「大丈夫」

 そんなアイビスの落ち込みようも察してか、ファディムは先程より少しだけ明るい声をかけてくる。

「僕の知っているアイビスは、そう簡単に凹みはしない、元気なお姫様だろう? きっと何か打開策が見つかるさ。その時は、僕も巻き込んでくれて構わない」

 アイビスは思わず驚いて、赤の瞳で相手を振り仰いでしまった。いつも覚束ない態度のディケオスニ王子の黒い瞳に、強い光が宿っている。その決意が嘘ではない事を示す証拠だ。

 彼でさえ、妻の蛮行を何とかしたいと思っているのだ。それに気づいた瞬間、アイビスの胸の内で、髪色と同じ炎が燃え上がる。

 きっとどうにかなる。頃合いさえ見計らえば、きっと何か上手くゆく方策があるはずだ。

「ありがとう」

 アイビスは湧き上がる思いを舌に乗せてしっかりとうなずく。ファディムも瞳を優しげに細めて、軽く小首を傾げてみせたのだった。

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