第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(1)

 アイビスの胸にわだかまる、未知の生物への警戒心は、「助けなくては」という使命感が上回る事で打ち消された。人魚――と思しき青年の傍らへしゃがみこみ、声をかける。

「大丈夫? ねえ、生きてる?」

 すぐに触れはせずに、まずは声をかける。人魚は『魚』の名がつく通り、自在に海を泳ぐ者、とエレフセリアには伝わっている。それがこれだけぼろぼろになって浜辺に打ち上げられるくらいなのだから、目に見える範囲の痣や怪我だけではなく、体内にも傷がついているかも知れない。

「しっかりして」

 脳を揺さぶらないように気をつけながら、そっと肩に手を置く。地上の人間の体温とは違う、ひどくひんやりした感覚が掌に返る。と、青くて長い睫毛が震え、その下から、瞳が現れた。その色を見て、アイビスは更に息を呑む。

 青年の瞳の色は、その中に魚でも飼っているかのような、深海の蒼ディープブルー。母と同じだ、と思った。

 瞳がゆるゆると宙を彷徨い、ある瞬間に、ぴたりとアイビスに視線を合わせる。蒼の視線に見つめられ、我知らず心臓が高鳴るアイビスの動揺を知ってか知らずか、相手の瞳が笑いの形に細められる。そして、高すぎも低すぎもしない心地良い声が、鼓膜を打った。

「また、会えた。朱い、鳥」

 それだけを言い残して、青年は再び目を閉じて脱力する。その言葉に、心臓が跳ねる。胸の奥に大事に仕舞い込んでいた思い出が、記憶の棚から飛び出そうと身じろぎする。もしかして、という思いが浮かんでくる。『君、まるで、朱い鳥』と、記憶の彼方の誰かが囁く。

 しかしその考えは、一刻も早く彼を保護して、手当をしなくてはいけない、という気持ちに押し流される。アイビスは意を決して、青年の背中に腕を差し入れると、力を入れて持ち上げた。それなりに鍛えているのだろう、筋肉質な裸の上半身が示す通り、なかなかの重量がのしかかってくる。

 なんとか腕をこちらの肩に回し、全身に力を込めて立ち上がる。気絶した成人男性を少女が支えるのは至難の業で、膝を叱咤していないと、すぐにへたりこんでしまいそうだ。

 汐彩華がまばゆく踊る中、人魚の青年を引きずるようにして、アイビスは一歩一歩を踏み締める。しとどに濡れて、ぺったりと顔に張り付いている青年の髪や身体から、アイビスの顔や服にも砂が移り、じゃりじゃりと口の中で音を立てる。魚の下半身についている鱗は鋭く、足をかする度に、幾つもの小さな傷をつけて痛みが走る。

 だがここで、もう嫌だ、と投げ出す訳にはいかない。たとえ姿が違っても、彼もエレフセリアの人間と同じ、生命を持つ者だ。アリトラ海の恵みを受ける国の王女として、海に棲む者もこの手から取りこぼす事無く助けたい。

 その一念で、引きずる跡と、鱗で切れた足から伝い落ちる赤の軌跡を砂浜に描きながら、いつもの倍以上の時間をかけて王宮に辿り着いた時。

「随分と遅かったじゃない、馬鹿妹。また馬鹿みたいに浜辺を走り回ってたの」

 いつもと同じ、姉タバサの毒舌が出迎えた。

「まったく、あんたは幾つになったら落ち着くわけ? 王族の恥さらしったらありゃしな……」

 鬱陶しそうに嫌味を吐く彼女は、香油をつけて入念に梳いた髪をかき上げる。そしてようやっとこちらに視線を向け、言葉を失い立ち尽くした。その赤い瞳は今、青い魚の鱗を映し出しているだろう。

「人魚よ」

 目を見開いたまま絶句する姉に向けて、アイビスは真剣な表情で言い切る。

「お願い姉様、お医者様を呼んで。このひとを助けてあげて」

 懇願にも、タバサはまだしばらくの間、ぽかんと口を開け、目を真ん丸くして、青の人魚を見つめていたのだが。

「……ふ、ふふ」

 突然、目を細め、唇を三日月に象って、含み笑いを洩らし始めた。

「よくやった、よくやったじゃあない。愚か者もたまには益になる事をするのね」

 そして彼女はぱんぱんと両手を打ち鳴らし、大声を張り上げる。

「ジャウマ! ジャウマはいて!? 他にも力のある奴は、一刻も早く来るのよ!」

 その言葉に、真っ先に駆けつけたのは、名指しで呼ばれたジャウマ将軍だった。まるでそこいらの物陰で機を見計らっていたかのような素早さだ。それに続いて、腕力に自信のある兵士が数人、ばらばらとやってくる。

 タバサはびっとアイビスを指差し、信じがたい事を言い出した。曰く。

「そこのぼんくらから、人魚を引き離しなさい。そいつを助けたのは、このあたし。いいわね」

「タバサ様の仰せのままに」

 ジャウマが恭しく礼をして、姉の言葉に愕然と硬直するアイビスのもとへ近づいてくる。

「人魚を助けた恩を売れば、海の底にあるという王国へ案内してもらえるかも知れないでしょう? 海底のお宝でエレフセリアが」

 言いさして、いいえ、とタバサはこうべを横に振り、そばかす顔に喜色を満たして両腕を広げた。

「このあたしが、伝説の継承者として歴史に名を残すのよ! ああ、一人で頑張っていた日頃の行いが物を言うわね!」

 我が姉ながら、何という傲慢だろう。そもそも、人魚の存在など信じていなくて、アイビスを嘘つき呼ばわりして否定したというのに。言い返す気力をも失って呆然とするアイビスの手を、ジャウマ将軍が力強くつかむ。

「さあ、姫様。そのひとでなしをお渡しください。海の民は伝説の中にしかありません。姫様にどのような悪さを働くかわかりませぬゆえ、後は我らにお任せを」

 その言葉にアイビスが示した反応は、人魚の手首を握る手に、更に力を込める事だった。彼が姉の手に渡ったら、一体どんな仕打ちを受けるかわかったものではない。だが、所詮若い少女の腕力。成人男性の力の前にあっさり手を引き離され、青い人魚はジャウマの小脇に抱え込まれた。

「リザが使っていた部屋に、放りっぱなしの水槽があるでしょ。それに水を溜めて放り込んでおきなさいな」

「はっ」

 アイビスの母親を呼び捨てにし、姉が将軍と兵士達を引き連れて、踵を返す。誰もが、アイビスをねぎらうどころか、一顧だにせず。

 厚意から助けた人魚が、姉の欲望の道具として使われてしまう。その失意と、彼を助けて本当に良かったのだろうかという後悔が湧いて出て、今更膝が震え出す。

 その膝も、人魚の鱗で切りまくって傷だらけだというのに、婚約者はそれすら労らずに、姉と共に行ってしまった。

 様々な絶望感が、アイビスの胸の内で黒い渦を巻き、深き場所へと落ち込んでゆくのであった。

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