第1章:陸(おか)の赤き姫と、海の青き人魚(4)

 蔦の絡み合う緻密な彫刻が施された扉の前で、ノックを二回。それから「失礼いたします」とジャウマが扉を開けば、この王宮で最も豪華な部屋が姿を現した。

 アリトラ海を見渡す大窓は、高級な硝子製。床には大陸中央から取り寄せた獣の毛皮が敷かれている。そして、細かい編み目の布で作られた天蓋をかぶった、絹のシーツと掛け布が敷かれた寝台には、一人の男が横たわっている。その傍らには姉夫婦が立っており、ひらひらのレースがふんだんに使われた深紅のドレスに着替えたタバサが、こちらを向いて、ぎんと睨みをきかせた。

 それに気づかない振りをして、ジャウマに手を引かれるまま、姉らに並ぶように立つ。寝台を覗き込めば、やつれて頬のこけた男の顔が見えた。

 決してまだ老境にはさしかかっていない。しかしその髪は往年の赤き炎が立ち消えて真っ白になっており、虚ろに開いた瞳は何を映しているのかわからない。

 それが、当代のエレフセリア王ストラウスの、現在の姿であった。

「お父様」

 アイビスがそっと呼びかけても、ああ、とか、うう、などと、呻き声が返るばかり。数ヶ月前はまだ、もっとましな反応を示してくれたのだが、日に日に父の心身が摩耗してゆくのは明らかで、

『原因がわからぬ以上、劇的な回復を期待する事も難しいでしょう』

 と、侍医も半ば以上匙を投げていた。

「お父様、わたしです、アイビスです。どうかお返事をして」

 アイビスから見ても、妻の生死に振り回される、少々心許ない王ではあった。それでも、親子の情は簡単に切れるものではない。かつてふくよかな顔に笑みを浮かべていた、壮健だった父の姿を幻に見て、もう一度名を呼んで欲しいと取りすがる。

「あんた、本当に馬鹿じゃないの。お父様がもう使い物にならないなんて、誰が見ても明らかじゃない」

 それを冷たく見下ろし毒舌を吐くのは、やはり姉だった。

「あたし達は、エレフセリアがこの役立たずと一緒に駄目にならないように、きちんと国を動かすの。泣いてすがったって、奇跡なんて起きないのよ」

 そう言われては、返す言葉も無い。姉の言う事は辛辣だが、事実でもある。王と共倒れする国であってはいけない。民を抱える国家である以上、責任のある誰かが支えて立たねばならない。天に祈るだけで政治は回らないのだ。

「タバサ様のおっしゃる通りですよ、アイビス王女」

 反論の糸口を見失って、ぐっと黙り込むアイビスの肩を、ジャウマがやたら優しく叩く。

「我らは誇り高きエレフセリア王族として、国民を不安に陥らせないよう、気高く振る舞わねばなりませぬ」

 二人きりの時の不遜な態度ではなく、敬語を使っているのは、他人の目がある手前だ。この、周囲を見て接し方を変えてくるのも、アイビスの信頼を損なっている理由である。

「陛下」

 将軍はアイビスの肩から手を離すと、その手を胸に当てて、病床の王に恭しく腰を折り頭を垂れる。

「エレフセリアは、タバサ様とアイビス様が立派に支えております。我らも力を尽くします故、今はどうか療養にご専念くださり、再びそのご威光を我らにお示しくださいませ」

 その言葉だけ聞けば、何と頼もしい家臣かと、周囲から拍手が起こるだろう。だがアイビスには、将軍の口上は白々しいものとして耳を通り抜けた。実際、呻き続ける王に向けて低頭するジャウマの唇の端は、何か良からぬ事を企んでいるかのようににやりとつり上がっていたし、それを見すえるタバサも、どこか愉快そうに目を細めている。そして、タバサの横で所在無げにしていたファディムが、自分に言及されなかった事で、余計に萎縮しているのを見れば、ここに立つ四人の力関係も、自ずと明らかになるものであった。

「ああ、今日も無駄な時間を過ごしたわ」

 タバサが背に流した髪をかき上げながら、ジャウマがゆったりと身を起こすのももどかしいとばかり、心底鬱陶しそうに吐き捨てた。

「まだまだ仕事が山積みだもの。ジャウマ、来て。使えない人間が多くて、あんたしか頼りにならないったら」

「タバサ様のお望みのままに」

 こつこつと靴音高く歩き出す姉の後ろに将軍が付き従って、二人は王の部屋を出てゆく。取り残された『使えない人間』であるアイビス達は、しばし無言で二人が開け放ったまま去った扉を見つめていたのだが、

「アイビス」

 と、不意にファディムが近寄ってきて、声を低めて耳打ちした。

「浜の子供達が持ってきてくれた、折れた君の翼を調べた」

 彼は表情を強張らせ、言って良いものかどうか、逡巡しているようだ。視線で先を促すと、黒の瞳が恐れを宿して伏せがちになり、そして、アイビスを驚愕させる言葉が放たれた。

「翼の骨組みに、自然に折れたとは思えない切れ目があった。あらかじめ刃物で傷つけたものだろう」

 赤い目を極限まで見開く。つまりアイビスの翼は最初から、折れて墜落するように仕込まれていたのだ。それを為した――直接ではないにせよ、命令は下しただろう――相手の顔を脳裏に描いて、湯で温まったはずの身体を、ぞくりと震わせる。

 自分はそこまで疎まれているのか。子供の頃から歩み寄れない仲であるとは思っていたが、本当に、死んでも構わないというほどまでに憎まれているのか。仮にも実の姉妹なのに。

「ただ、目撃証言も得られない以上、『誰が』という証拠もつかめない」

 力になれなくてごめん、と付け足して、ファディムは顔をうつむける。彼の言う通り、現場を押さえられなかった以上、仕掛けを施した犯人を見つけ出す事は不可能なのだ。相手もそれをわかりきった上で事を行い、心の中で舌を出して笑っているのだろう。

『そのまま溺れ死ねば良かったのに』

 エレフセリアの温暖な空気を零下に冷やすような嘲りの言葉が、耳元で繰り返される。だが、ここで折れる訳にはいかない。めそめそ泣いていたら、それこそ相手の思うつぼだ。

 だからアイビスは、きゅっと唇を引き結ぶと、それを笑みの形に変えて、

「顔を上げて、ファディム」

 と、ことさら朗らかに、義兄に呼びかけるのだ。

「心配してくれてありがとう。でも、わたしはそれくらいの事で凹んだりしないから」

 ファディムが不安げに顔を上げる。その頼り無げな表情を吹き飛ばさんとばかりに、アイビスは会心の笑みを見せて、右の拳を左の掌に打ちつけた。

「翼ならまた作れば良いわ。子供の悪戯かもしれないし、今度は下手に人が触れないところへ仕舞っておけば、余計な疑り合いを皆の間でしなくて済むでしょう?」

 その言葉に、姉婿の顔がくしゃりと歪む。

「……ごめん」

 まただ。彼はいつも周りに謝ってばかりだ。良く言えば謙虚なその振る舞いは、悪く言えば卑屈だ。余計にタバサを苛立たせ、ジャウマに付け入る隙を与えてしまう。

「はい、この話はもうおしまい!」

 優しい彼をこれ以上落ち込ませたくはない。アイビスは茶目っ気を乗せて片目をつむってみせると、握ったままの拳でファディムの頬をこつんと小突く。

「使えない人間は使えない同士、お喋りでもしていましょうよ。大陸中央のベリーをたっぷり使ったタルトが出来上がる頃じゃない? おすすめの紅茶を淹れてもらって、ゆっくりしましょう」

 その言葉に、彼は少々の吃驚きっきょうで目を開き、それからくしゃりと泣きそうに顔を歪めて。

「ありがとう」

 と、また、儚げな微笑を見せるのであった。


 その晩、突然の嵐がエレフセリア沿岸に訪れた。

 大粒の雨が強風に吹かれ、王宮の窓が壊れるのではないかとばかり、横殴りに叩きつける。アリトラの海は荒れに荒れ、波は大鯨がやってきたのではないかとばかりに膨れ上がっては深く沈み、を繰り返す。

 アイビスが翼を仕舞っておく、小さな離れの小屋も、今にも倒壊しそうなほどにがたがたと揺れる。天井から吊るしたランプの炎は安定せず、手元をきちんと見ている事もできない。

(今日はこれ以上やるのは、無理ね)

 折れた翼から、まだ使えそうな布をはぎ取る作業をしていた手を止め、アイビスはほうと溜息をつく。離れの外は相変わらず雨と風の音が激しい。これは嵐が去った後、浜辺に色んなものが打ち上げられているだろう。

海月くらげが浜に散らばっていたら、子供達の身が危ない。エレフセリアの民は海の生き物に詳しく、水棲生物の危険度をわきまえているとはいえ、まだ知識が不足している無邪気な子供らは、綺麗な姿の銀貨海月などを見つけたら、嬉々として手を触れてしまうだろう。それは避けねばならない。

(明日、嵐が去っていたら、朝一で浜へ行ってみよう)

 アイビスはそう決意し、翼の残骸を片付けると、離れの灯りを消した。


 翌朝、エレフセリアの空は、昨夜の嵐が嘘のように青く澄み渡り、海は静かに凪いでいた。

 早朝のひんやりした空気に包まれ、汐彩華が舞ういつも通りの浜を、アイビスは白い波に素足を洗われながら、ゆったりと歩く。

 浜には流木や海の向こうからの硝子瓶などが打ち上げられていたが、危惧していたような、危険な生き物の姿は見当たらない。

「大丈夫、みたいね」

 独り言を洩らして、ほうと息をついた時。

 きらり、と。

 汐彩華とは違う青い輝きが、浜の向こうで光ったのを見て、アイビスの心臓がどきりと跳ねた。

 あの青は何だろう。紺碧の肌持つ海豚いるかでも迷い来てしまったのだろうか。海豚の体重は人間より重い。アイビス一人の腕力で海に帰す事ができるだろうか。いやそれより、弱って死にかけていないだろうか。衰弱した海の生物は、海に戻る体力が回復するまで、王宮で保護してやらねばならない。それが遠い昔、エレフセリアの王が海と取り交わした約束だと言われている。それを果たすには、人を呼んでこなければならないだろう。焦る気持ちから、歩みは速歩に変わり、やがて駆け足になった。

 だが、打ち上げられた『それ』を前にした時、アイビスは心からの驚きで言葉を失い、赤い目をみはって立ち尽くしてしまう羽目になった。

 はじめは人間かと思った。青い髪を持つ、女性のように端正な顔は、苦悶に歪んでいくつもの新しい傷が走り、その目が開かれる事は無い。顔の造りに反して適度についた筋肉が、『彼女』ではなく『彼』である事を示している。

 しかし、アイビスが驚いたのはその美貌ではなかった。

 波に翻弄されたのだろう、痣だらけの上半身は人間のもの。ところが、そこから視線を下ろせば、下半身に当たる場所は、びっしりと青い鱗に覆われたている。それが太陽光を浴びて、目がくらむほどにきらきらと輝いている。

 そんな姿を持つ者の名を、エレフセリアではこう呼ぶ。

『人魚』


『あなたは、海の底のひとと出会ったのよ』


 亡き母の言葉が、王女の脳内で反響した。

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