第2章:汐火垂(しおほたる)の向こうへ(4)

朱い、鳥アイビス』と呼んだ声変わり前の高い音。

『輝き』と天を指差した青い髪の少年。

『いつか、君、見せたい。僕の、海』と、アイビスの小さな掌に、貝殻を握り込ませた手。ひんやりとした唇の感触。

 喜びが、胸に溢れてくる。アイビスが出会った少年は、幼い記憶の混濁ゆえの幻でも、妄想でもなかったのだ。たしかにこの世に存在して、語りかけてくれたのだ。そして、彼の言葉から察するに。

「ずっと、わたしを見ていてくれたの?」

 おずおずと訊ねれば、青年は笑みを深くして、握る手に力を込め、何度もうなずく。

「空、飛ぶ、君。とても、とても、眩しい、朱い鳥。僕の手、届かない、憧れ」

 彼は見ていたのだ。翼を作って空を飛ぶアイビスを、海から。夕暮れ時に別れた後も、ずっとずっと、語りかける事も無く。

 そして思い当たる。先日海に落下して溺れかけた時に、空気を送り込んでくれた唇。岩場まで送り届けてくれた、青い鱗の魚。

「この間も、あなたが助けてくれたの?」

 問いかけに、青年は再度うなずいた。

「君、危なかった。僕、助けた」

 途端に頬が熱くなる。苦しい息の中、重なった唇。幼い頃、父や母に、親愛の情を示す為に頬に口づけた事はあったが、唇同士の触れ合いをするのは初めてだ。婚約者のジャウマにさえ、その行為を許していない。救命行為だったとはいえ、初めての唇がひとでなき者であった事に戸惑う。しかし同時に、初めてがこの青年で良かった、という歓喜がわき上がってくる。

 アイビスは愚鈍な娘ではない。すぐに己の感情に気づく。

 自分は、この青年に惹かれていたのだ。今ではない。あの幼い日、汐彩華の輝きの中で貝殻をもらったあの時からずっと。再会する事を夢見、言葉を交わす事を願って、忘れないように、心の一番大切な部分に、大事に仕舞い込んでいたのだ。

 そうすると、新たに生まれくる想いがある。

「もっと早く、話しかけてくれれば良かったのに」

 こそこそせずに、きちんとアイビスの前に姿を現してくれれば、もっと早くから語り合って、友好を深める事が出来たのに。ぷくりと頬を膨らませると。

「出来、なかった」

 青年が、端正な顔に困惑を浮かべて、しょんぼりうなだれた。

「陸と、海。かつて、分かれた。余計な、干渉、しない、約束。長い、約束」

 そういえば昼間、海の民は、陸を追われ、逃げ込んだ海中での生活に順応した一族だと、ジャウマが話していたか。エレフセリアでは、今の王国が興る前に、大きな戦があったという。互いに不干渉を貫く事が、互いの国を維持し、悲劇を繰り返さない為の最適解だったのだろう。

 ならば、尚更この青年を、地上に縛り付けておくわけにはいかない。一刻も早く海の民のもとへ送り届けなくては、過去の惨事が再び起こりかねない。

「あなたを海に帰してあげる」

 決意を込めた赤の瞳でまっすぐに見つめると、深海の蒼の瞳が、驚きを宿して見開かれた。

「君、怒られる。あいつ、すぐ、つ」

 たった半日の間で、タバサの性格を嫌というほど思い知ったのだろう。青年の顔に不安げな表情が浮かぶ。だが、アイビスの思い定めはそれで道を逸れるものではなかった。

「大丈夫よ。姉様の怒りを受け流すのは得意だから」

 口の両端を持ち上げて笑みを返し、腰に帯びていたポーチから、油紙で包んで厨房から持ち出した白パンを取り出す。

「おなかが空いているでしょう? 口に合うかはわからないけれど」

 人魚は海の生物に近い食事をしているだろう。陸の人間の食べ物を受けつけないかもしれない。しかし、青年は興味深そうに目をみはると、差し出された白パンに顔を近づける。すんすんと鼻をきかせ、じろじろと見回し、水かきのついた両手を、そっとのばした。

 ひやりとした感覚が訪れ、そうして、白パンと共に離れてゆく。かぷり、と噛みついた途端、青年の顔がぱっと明るく輝いた。

「おいしい」

 一言、そう洩らしたかと思うと、むしゃむしゃとかぶりつく。きちんと咀嚼しているのか、喉に詰まらせはしまいか。アイビスがはらはらしながら見守っている間に、青年はぺろりと白パンを平らげ、指についたかすを、名残惜しそうにぺろぺろと舐めていた。

「あり、がとう」

 青年が蒼の瞳を細めてにっこりと微笑む。顔のつくりは端正な男性なのに、笑うと遠き日のように無邪気な少年の面影が姿を現して、アイビスの心臓はとくとくと脈を速くした。

「ど、どうも」

 この動揺が相手に見抜かれていたら、相当恥ずかしい。気を紛らせる手段を探して思考を彷徨わせ、アイビスの思いはひとつの事象に辿り着いた。

「あなたの」その思いを、舌に乗せる。「名前を教えて」

 問われた途端、青年も、忘れていた、とばかりに目を真ん丸くしたが、すぐに笑み崩れる。

「サシュヴァラル!」

 水槽から身を乗り出さん勢いで己の名を叫び、落ち着け、と先程アイビスに釘を刺された事を思い出したか、気まずそうな表情をして首をすくめた。

 そんな反応も微笑ましい。アイビスは口元をゆるめ、「サシュヴァラル」と、彼の名を口の中で繰り返す。

「少し、呼びづらいわね」

 海の民の名は、エレフセリアの民とは命名規則が異なるのだろうか。顎に手を当ててしばし思案する。魚の下半身を水の中でゆらゆらさせながら、アイビスの言葉の続きを待っていたサシュヴァラルを見上げ、「じゃあ」と、思いついた一案を口にした。

「短くして、サシュ、っていうのはどう? 愛称をつけられるのは、嫌い?」

「サシュ」

 きょとんとおうむ返しにする青年の顔が、再び喜色に満ちてゆく。「サシュ!」と口を笑みの形にすると、狭い水槽の中をばしゃばしゃと泳ぎ回り、

「サシュ、アイビスに、呼び方、もらった! サシュ! 嬉しい!」

 と、まるで初めて目にするケーキを前にした子供のようにはしゃぐ。

「ちょ、ちょっと、落ち着いて」

 さすがにこの声は外に漏れるだろう。扉の前の不寝番が気づいてしまう。はらはらしたまさにその時、部屋の外側から鍵が外れる音がして、アイビスはぎゅうっと心臓が締めつけられる思いにとらわれ、人魚――サシュヴァラルもはっと我に返って静まった。

 折角ここまで来たのに、彼を海に帰す事に失敗してしまう。自分がタバサに打たれるのは構わない。だが、この純真な人魚が、姉の欲望を満たす為に使われ、運が悪ければ命を落としてしまう。それが、自分の身に危害が及ぶ事よりも怖かった。

 そろそろと、腰の守り刀に手を伸ばす。実際に命を奪うつもりは毛頭無い。たとえ姉の言動が悪だったとしても、誰かを手にかけてしまえば第二王女といえど無罪では済まない。威嚇に使えれば充分だ。何より、日頃より正式な訓練を受けたエレフセリア兵に、護身程度の短剣の振り方を教わっただけのアイビスが、上手うわてに立ち回れるとは思えない。

 緊張に、得物を握る手は細かく震え、掌にじっとりと汗をかく。サシュヴァラルも、アイビスのただならぬ様子に気づいたのだろう。不安げな表情を浮かべ、水槽の中でゆらゆら揺蕩いながら、じっとこちらを見守っている。

 だが、しかし。

「アイビス」

 静かに呼びかける声には、確実に聞き覚えがあった。軋んだ音を立てて扉が開かれ、部屋に入ってきた人物の顔が、ランプの明かりに照らし出された事であらわになる。炎を宿した黒の瞳が、気遣わしげにこちらを見つめている。

 何故彼がここに、という思いで、アイビスは、ぽろりと唇からこぼれ落ちるように相手の名を呼んだ。

「……ファディム」

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