第五話 夏のある日③

 夕食を食べ終わる頃には、気持ち悪くて辛いというよりも、頭がぼんやりとして起きているのがしんどい状態になっていた。

「輝央、僕はもう寝るね?」

「うん。兄さんは寝るべき。寝て、体力を回復させて、疲れを取るべき。生物の先生も、病気の時は吐き気がなければ食事をちゃんと取って、寝るのが一番早い治し方だって言ってた」

「そうなんだね……」

 本当ならここで、学校の様子を聞いたりするべきなんだろう。まだ話せないことはあるにせよ、最近あったことを話せば良いのだろう。

 だけど、僕が体調を崩したばかりに話すのはもう少し後になりそうだ。

 それが心苦しかった。

 だから、その後に言葉を続けるかどうか迷った。

 謝罪。頼み事。約束。

 言いたいことはたくさんある。

 でも、どれを言えば良いかわからない。

 輝央は優しいから、多分、いつも通り、ちゃんと返事をくれる。そう分かっていても、怖いものは怖い。嫌われることはないだろうと思っても、輝央の心を少しでも傷つけるのが怖い。

 なによりも、それに甘えている自分が怖い。

「兄さん?」

 輝央の声でふと我に帰る。そこで、寝ようと思ってブランケットに手をかけたまま止まっていることに気がついた。

「なんでもないよ。心配かけてごめんね」

「……そんなこと、ない……」

 その言葉にどれだけの感情が含まれているのか検討もつかなかった。

 結局言えたのは、一番無難な謝罪。何に対してとも言わず、だけど、全てのことについての謝罪。それが一番言いやすくて、一番心苦しい言葉なのはわかっている。わかっていても、これ以外は口から出てこなかった。

 目を閉じる。そうすれば、すぐに寝ることができることをよく知っていた。


 ***


 来ていた服を脱いで、浴室に入ったらすぐにシャワーをつける。軽く体の汚れを流して暖かいお湯に浸かる。

 兄さんが言った言葉。多分、どう言ったら良いかわからなくて、其れっでも何か言わなきゃいけないと思って出てきた言葉なんだろう。

 その考えを読めるだけに、どうしても思うことがある。

 本当に言うべき言葉は別の言葉。謝罪じゃなくて、感謝の言葉。ありがとうだと。

 謝っても、兄さんも言われた僕だって少しは落ち込む。それなら、どうせ言うなら、兄さんはもっとありがとうと言うべきだ。自分だけで抱え込んでいないで、もっと素の自分を曝け出して。それが、ほぼ唯一と言っても良いのかもしれない兄さんの弱み。

 逆に言えば、そこを突破すれば兄さんはもっとすごい存在になる。うまく言葉にできないけど、すごい存在になる。

 僕は自分の弱点が分かっても、それを克服できない。

 どれだけ踏み出そうとしても、どうしても、足がすくむような感覚が襲ってくる。

 でも、兄さんは違う。

 弱点を克服して、前までできなかったことをちょっとずつでもできるようにしている兄さんだからこそ。だからこそ、兄さんは僕のヒーローは兄さんなんだ。僕の目標なんだ。

 だんだん、自分の思考が幼児退行しているような気がして、ぶんぶんと頭を振ってから浴槽を出てガシガシと髪を洗う。


 体も洗い終えてもう一回湯船に浸かる頃には、僕お思考はだいぶ戻ってきたと思う。というか、そう思いたい。

 湯船の中で足の筋肉をほぐしたりしている内に、だんだんと暑くなってきた。これ以上いるとのぼせるなと思って湯船をでる。

 寝巻き用にと持ってきたジャージに着替えてリビングに戻る。相変わらず寝るのが早いのか、すでに兄さんは寝ていた。

 部屋の電気を消してしまおうかとも思ったけど、その音で目を覚まされるのもなんだかなと思ってそのままにすることにした。

 時間としては、まだ寝るには早すぎる時間帯。兄さんの隣で寝るのも良いけど、まだ寝れそうにないのはわかる。

 どうしようかと思いつつ、スマホの充電を確認する。七割型充電が残っていた。これならPrimeビデオでアニメを見ても良いかなと思いつつ、兄さんの本棚が気になるのは読書家な僕にとってはサガみたいなもの。チラッと見るだけのつもりで覗くと、まだ読んでいないが気になっていた作品たちがたくさんあった。どっちにしようか迷いながらも、どうせなら読書にしておこうと思って、何冊か気になった本を棚から抜き取って兄さんの寝ているソファーとローテーブルの間に腰を下ろした。

 最初に手に取ったのは、抜き取ってきた本の中でも特に読み込まれていた本だった。特に評判も何も聞いたことのない本だった。

 でも、そのタイトルが何故だか妙に、頭の片隅で引っかかった。別にどこかで聞きたことがあるというわけじゃない。

 なのに、なんで、この本は僕を引き寄せるんだろう。

 最初のページにはこう書かれていた。

『僕の昔話をしよう。それはひどくつまらないかもしれないが、僕の大事な人生の物語の一部分なんだ。』


 読んでみると、かなりつまらない小説だった。

 ある日魔法を使えるようになった少年の話。そこに新しさなんてない。

 文章表現も鮮やかなわけでもなく、繊細でもなければ躍動感もない。

 淡々と日々の出来事を綴るように書かれている。

 ただ、この物語と他の物語が違うとしたら、それは、ある日、少年が魔法を使えなくなるところで話が終わっていること。

 その展開は斬新だと思った。

 読み終わった時には、ようやく終わったのかと思うと同時に、なぜか暖かい気持ちで溢れていた。

 それが不思議で、だからもう一度読んでみることにした。

 そうしたら、何が僕の心を暖かくしたのかが分かった。

 淡々と綴られたように見える文章。それはただの表面だけ。本質はもっと深いところにある。

 物語の新しさは確かにない。だけど、これはただ既存のものをなぞるだけじゃない。そこには喜びと、悲しみと、苦しみとが入り混じっていた。

 2回目にして、初めて後書きまで読んでみた。というか、後書きがあったことに気がついていなかった。

『後書を書くことが人生で初めてなので、何を書いたら良いのかわからなくなってしまっている今日この頃です。

 みなさんはこの小説が売れなくて、続きが出せないと分かったら、どう思うでしょうか。よほどこの作品が気にいらない人でない限り喜びはしないと願っていますが。多くの人は「この物語が終わってしまうんだな。タイトル詐欺じゃないか」と思うのではないでしょうか。

 確かに、物語は終わってしまいます。

しかし、この物語は果てしなく続きます。多分、主人公が亡くなっても。だから、タイトル詐欺なんかではないんです。

 そう、だから私はこのタイトルにしました。

  タイトルで縁が始まり、タイトルで終わる物語、なんて美しいんでしょう。

  そう、ーーーーーーーーーーーーーーー』


 ***


 夢を見た。

 昔の夢だ。

 いや、昔思い描いてしまった悪夢という名の夢だ。

 自分の目の前からどんどん仕事が無くなっていく。ラジオも打ち切り、オーディションはとことん落ちる。

 ネットには、悪評が書かれていそうで、見るのが怖い。

 そんな最悪な夢。

 全てが怖くなって、何もできなくなってしまう夢。

 夢だと分かっていながら、どうすれば抜け出せるのか分からなくてもがく。ただただ広い大海原の中心でひとりぽつんと浮いているような感覚。孤独と、喪失感と、寂しさが混じってどうすれば良いかわからなくなる。

 何をすれば良い。

 何をすればこの海の中心から僕は抜け出せるのか。

 わからなかった。

 わからないから、とりあえず浮かぼうとしても、自分のきている服が水を吸って重くなる。

 夏だからと思って脱ぐと、何故か水が冷たくて、一気に冷えてくる。服を着直そうにもすでに海の底に沈んでいる。

 そうやって、やることなすこと空周りに終わっていく。


 ーー大丈夫?


 頭の中に響いた言葉。

 それを聞いた瞬間、世界が変わった。

 自分がいるのはあべこべな何も見えない海の真ん中じゃない。

 暖かくて、居心地が良くて、いるだけで幸せになれる場所。


 ーー大丈夫?


 頭の中に響くその声が弟の輝央のものだと気がついてあたりを見渡す。

 ぐるっと一周して頭を戻すと、そこには大きな白いスクリーンがあった。

 なんだろうと思っているとはっきりとした画像が見え始めた。

 養成所の同じクラスにいた人たちとの写真。

 同じ事務所の同期との写真。

 初めてメインキャラクターとして参加したアニメの現場での記念写真。

 初めてのライブの写真。

 初めてのラジオの写真。

 初めて出たアニメのイベントの写真。

 ラジオの放送時間が変わって、生放送になった初日の写真。

 たくさん出てくる思い出。

 そういえば、僕は夏に何か大きなイベントがあることが多いような気がする。

 いくつか出てきた後に、最後に始まったのはここ半年に起きたことばかりだった。

 小春ちゃんとの出会い。春にやった地元でのライブ。いろんな先輩たちとの会話や食事、最近なら沢城みつきさんとのラジオ。

 それら全てが、僕の胸に飛び込んできた。

 でも、元々の性格もあるのかもしれない。なかなか自分の素を全て曝け出すことはなかった。


 ーーもっと兄さんは自分を出しても良いのに。


 そうなのかな?

 そうしても良いのかな?

 その声が届いたのかわからない。いや、これが輝央に聞こえていたらと考えると、少しだけ恥ずかしくなった。

 最近、疲れていたのかもしれない。

 それがこうして悪夢として現れたのかもしれない。

 輝央がいてくれてよかった。

 周りに、僕のことを気にかけてくれている人がいることに気が付けてよかった。

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