第五話 ある夏の日②

 お風呂から出ると、まだ輝央が夕食の準備をしている最中だった。

「出たよ」

「あ、早かったね。まだできるまでに時間がかかるから、兄さんはソファーで休んでいて」

 こう言う時の輝央は強情だ。手伝うと言っても断られてしまうだろう。

「わかった。それじゃあ寝ているから、できたら起こして」

 輝央がこくんと頷いたのを見てからソファーの上に体を横たえる。

 正直、今はかなりきつい。

 湯船に浸かり始めてすぐ、だんだん体が熱くなっていることに気がついた。すぐに湯船から出て、体をぬるめの水で流した。頭がガンガンとして少し痛かった。さっきまでとは全く逆の感覚に体が警報を鳴らしているのがわかった。

 段々と寒気が襲ってくるのはわかったし、さっさと髪の毛を洗って出てしまおう。そう思って急いで髪を洗い、身体から水気を拭き取って、出た。入り始めてから二十分経たずに出た気がする。だからどうと言うわけじゃないけど。輝央からしたらだいぶ不思議だったと思う。

 ソファーに体を委ねて、背もたれにかけてあったブランケットをかぶる。そうすると、身体中に散っていただるさが鎮まるような気がした。今日は鶏胸肉を蒸したものを使ったサラダと肉団子汁。幸か不幸か、スーパーでの自分の選択は間違っていなかったみたいだ。


 ***


 調理の音に混じって、時こり兄さんの寝息が聞こえてきたことに少し安心した。兄さんに言われた通りのものを作っているけど、味は薄めで、全体的に素材は小さくしよう。そう思って作っていれば、自然と調理時間は長くなる。

 そういえば、この前の電話で『仕事は楽しいけど、なかなか休みが取れないんだよね』って言っていたっけ。

「いつもお疲れ様」

 いつの間にか、そう呟いていた自分に少し驚いた。

 だけど、不思議なことじゃない。心の底から思っていることだから。

 そんなことはお構い無しとでもいうかのように、調理は止まってくれない。というより、止まると逆に時間がかかるから止まりたくない。その思いが強かった。


 夕食も作り終えて、サラダは冷蔵庫に、肉団子汁は火から下ろして冷ましている。

 そして今は兄さんの寝ているソファーとローテーブルの間に腰を下ろしてアニメを見ている。

 最初は兄さんの顔を見たり、ズレ落ちそうになっていたブランケットをかけ直したりで時間がつぶれたけど、三十分ぐらいすれば流石に飽きてくる。だから、暇つぶしにとアニメを見ていた。ちなみに、見ているのは兄さんが出ている作品だったりする。

 兄さんはというと、さっきから少しだけ苦しそうにしていた。吐いたり吸ったりする息もどこか荒い。手は指先がぎゅっとブランケットを掴んでいる。

 どうしようkと悩むけど、薬を飲ませようにも寝ているから無理。出来たのは、せめてもと思って兄さんのに貼り付けた冷却シートぐらい。

 これ以上は兄さんを待つしかないよね。

 そう思うしかなかった。


 ***


 目が覚めたのは左腕のあたりに重い感触を感じたためだった。

 目を開けて最初に見えたのは家の天井。部屋が静かなせいか、頭の中に鈍い音が流れているようだった。

 額に何かが貼られていると思って触れると、よくある熱さましのシートだった。

 すでに緩くなったそれを剥がして、貼ってあった場所にくしゃくしゃに丸めたそれを持ったまま、手の甲をあてがう。

 多分、今、自分は熱がある。

 それだけはわかった。

 手先と足先気が冷たくて、だけど頭は熱い。自分で分かるぐらいだから、熱があるのは間違いない。

「今、何時だ……」

 身体中が痛い。でも、まだ動く。

 それだけでも少し報われたような気がした。

 時計を見ると、もう八時になろうとしていた。

 キッチンの方を見ると、すでに輝央は作り終えたのか、そこには立っていなかった。

 どうしたのかと思って、すぐに考えるのをやめた。

 頭の中にモヤがかかったように、何か考えようとしても考えられず、霧散していく。これじゃあ、注意力散漫で怒られるな。と、思った。

 思ってから、おかしいなと思った。

 そんなことで怒られたのは養成所にいた高校の時。あの時の厳しい講師がよく怒っていたのが懐かしい。

 とにかく、一度起きようと体を持ち上げようとして、左腕に乗ったままの重さを思い出した。

 見ると、それは寝ている輝央の頭だった。家に帰った時間をきちんと覚えているわけじゃないけど、だいぶ 輝央を待たせたのだけはわかった。このまま寝てしまおうかと一瞬だけ考えて、すぐに辞めることにした。だからといって。体がだるい今、積極的に起きようとは思えない。というよりも、起きるよりも寝ていた方が気持ち悪くなさそうだと容易に想像が付く。

 どうしようかと悩んでいると、輝央が起きた。

「あ、兄さん。ごめん。起こしちゃった?」

 気づいたらすぐに身を離しておろおろとしている姿を見ると、虫わけなさが増すなと思いながら。

「そんなことないよ。むしろ待たせちゃってごめんね」

 口にした言葉は平気そうに聞こえたと思う。そう思いたい。

 だけど、声を出すのでさえ、割と大変なことに今気がつく。

「どうするご飯……」

 なんとなく、輝央が怒っているような気がした。だから、口から出ていた言葉が止まった。

「兄さん、無理してるよね?」

 あってる。だから、何も言い返せない。

「それなら、僕のことは良いから寝て。あと、少しでも食欲があるなら夕飯食べて」

「うん。そうする」

 輝央はいつも、どこかふわふわとしているように見えるけど、こういうときは聡い。だから、隠し事もできない。

「食べる?」

「食べます」

「わかった。ちょっと待ってて。準備する」

 そう言って、輝央はキッチンに戻って鍋を火にかけ始めた。

 僕は僕で、少しでも頭を覚まそうと、洗面所に行って顔を洗うことにした。


 ***


 兄さんは無理をする時がある。

 兄弟だから、兄さんが無理をしているときぐらい、分かる。

 兄さんの苦労とかを全部理解できるとは思っていないけど、でも、少しは分かる。

 兄さんは他の人から見たら、いつもなんなく仕事をこなすのかもしれない。

 だからこそ、兄さんが無理をしているなって思った時には僕が止めてあげないと。そうじゃないと、兄さんが壊れちゃう。肉体的にも。精神的にも。

 そういえば、昔。まだ僕が小学生の時にも、おんなじように兄さんに怒ったことがあったっけ。

 風邪引いてるのに、無理して養成所のレッスンに行こうとするのを必死に止めたっけ。

 あのあと、兄さんに撫でくりまわされたのが気持ち良かったのはちゃんと覚えてるけど、他はあまり覚えていないな。

 そんなことを考えていると、洗面台の方から水の流れる音がきこえてきた。多分兄さんが顔を洗っているんだろう。

 この分だと、明日、兄さんと買い物行ったりするのは無理そうだな。でも、兄さんとずっと一緒にいられるなら良いかな。

 そんなことを思いながら、輝央は温めた肉団子汁をお椀によそう。

 サラダと一緒にテーブルに配膳して待っていると、ゆっくりと兄さんが来た。

「兄さん、食べきれなかったら無理しないでね。味は薄めに作ってあるけど、食べれなさそうならたまご雑炊作るからね」

 そういうと、兄さんは笑って応えてくれた。

「多分大丈夫だと思う。ありがとう」

 その顔は多分、無理していないと思う。

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