第五話 夏のある日
帰りにスーパーに寄ったは良いけれど、どこか体が重い。
思い当たる節はある。多分、朝のあのことだろう。
まあ、自業自得と言えばそれで済んじゃうし、遭遇しちゃったものは仕方ない。自然現象だから。
これから家に帰って荷物を置いたら、すぐに東京駅に行かないといけない。今日は輝央がこっちに来る日。今がちょうどお盆の期間だからか、今日から一週間はこっちで過ごすらしい。
帰り道の坂を登っていると、だんだんと体が重くなってきた。少し進む度に、さっきよりも体が重くなっていく。
まだ体がふらついていないだけマシだろうけど、輝央と一緒に戻ってくるまで持つかどうか、それが不安だった。割と体格はしっかりしている方だと思っているから、それを輝央に任せるのは兄としての面目が立たない。
ひとまず、明日から一週間はラジオだけしか仕事がない。最悪、ラジオさえ乗り切って仕舞えばなんとかなる。
声優として売れ出してから初めてのことだから、どうすれば良いかがわからない。ひとまず、家に帰ったら強めの風邪薬を飲んでおこう。
そう、決めた。
買った食材を冷蔵庫にしまったりして、風邪薬だけ飲んで東京駅に向かう。夏とは言っても、四六時中声を使わなきゃならない職業だから、いつもマスクはしている。
いつもならなんともない最寄り駅までの道のりも、駅に着く頃には息が上がっていた。
これは帰りは持たないだろうなと、容易に察せる。
それでも、気をしっかりと持っているからか、まだ立っていられないほどじゃない。それが不思議だった。
駅につけば、あとは乗るだけ。金曜日の昼間だから、車内は空いていた。
それが幸いだった。
シートに座っていたら、そのまま寝てしまいそうだから。それこそ、ドアにもたれかかっている方がまだ良い。
カバンの中に入っている読みかけの本も、今は読む気がしない。かといって、イヤホンで音楽を聴く気にもなれない。と言うよりも、音楽を聴いていると、頭の中でガンガンと響きそうで怖い。
何もしないまま、特に考えることもなくぼーっとしていると、乗り換えのアナウンスが耳に入った。面倒くさく思えても、しなきゃいけないものはしなきゃいけないので、乗り換える。幸い、乗り換えは一回だけだ。場合によっては二回三回と乗り換えをしなきゃいけないから、それに比べればまだマシなのかもしれない。
乗り換え先で乗った電車でもドアに背を預けて立って仕舞えば、あとは身を任せていても構わなかった。
東京駅に着いたところで、新幹線の改札口まで移動すると、ちょうど輝央が改札を出てくるところだった。
棋王も僕に気がついたみたいで、僕の近くまで来てくれた。
「兄さん、久しぶり」
「うん。輝央が無事に東京まで着けてよかった。母さんか父さんに連絡する?」
「大丈夫。あとでLINE打っておくから」
「そっか。それじゃあ、僕の家に行こうか。そっちの重そうな方のお荷物、持つから貸して」
そういうと、やはり持つのが大変だったのだろうか、素直に肩から外して、僕に渡した。
「電車で行こうと思ってるけど、タクシーの方が良い?」
「どっちでもいいよ。僕は兄さんについていく」
正直に言うと、今はかなり辛い。でも、なんとなく兄としての意地が出たのか、思わず電車で帰ろっか、と言ってしまった。
仕方ないけど。とりあえずご飯を食べ終わるまではバレないようにしないとな。そう思って、もう一度自分に喝を入れ直した。
***
兄さんが変だ。
そう思ったのは改札を出てすぐのことだった。
いつもなら、僕が近づくと頭に手を伸ばして髪をわしゃわしゃとしてくるのに。それが今日はなかった。
それに、いつもより呂律が回っていないような気がする。あと、荷物を渡したときに、少しだけよろっとした。
これだけでも十分いつもより変だった。
それは電車の道すがらも同じだった。
学校はどんな感じとか、そういった話が何もない。
最初は疲れているのかなと思ったけど、兄さんは声優の仕事が生きがいみたいな人だから、疲れを感じることはあまりないと思っていた。
「輝央?」
「ふぇ?……」
変な声が出て恥ずかしいと思った。
「で、兄さん、どうしたの?」
「次の駅で乗り換えだから。なんか考え事しているみたいだったからちょっと心配になってね」
「ああ。うん。ごめん。完全に人見知りスキルを発動させてた」
「そう?それならいいけど」
兄さんは何を考えて、何を伝えたいのだろう。昔からそうだったけど、兄さんは自分の外には出さずに胸の内にとどめたり、飲み込んだりする癖がある。だから、少し心配だ。
これが杞憂なことを願うしかないのかな。
***
ようやく家に着いたな。
そう思うと、自然と体から力が抜けそうになる。それをなんとか気を張ることで紛らわせる。
部屋の隅に輝央の荷物を置く。そして、軽く部屋の案内をする。とは言っても、一人暮らしの部屋だから、部屋も多くないし、狭くは感じないけど広い訳じゃないからすぐに終わる。
「輝央、先にお風呂入る? それとも、夕飯食べてからにする?」
「いいよ。兄さんが先に入ってきて。その間に夕飯作っとく。何作れば良いかだけ教えて」
まさかそうくるとは思っていなかったから、若干驚きながらも、作る予定だった料理を伝える。すると、自身があるのか、うん、と、一回頷いてから冷蔵庫を漁り始めた。
「それじゃあ、お願いしちゃうね」
「うん。ゆっくり入ってきて良いよ。なんか疲れてるみたいだし」
「あ……うん…のぼせない程度にゆっくり浸かってくる」
いつからバレていたのか。自分の弟ながら、よくできていると思う。まだまだ可愛い弟だと思っていたけど、だいぶ成長したんだなと思う。
その気持ちは兄としての気持ちなのか。なんなのか。
よく考えたら、聞こうと僕は十歳ぐらい歳が離れている。自分が高校生の時はこんなにしっかりいていたのかなと、少しだけ不思議になる。
着替えを片手に持ってお風呂場に行く。衣服を脱ぐ前に自動で湯を張ってくれる機能を起動させる。
少し前まで体が重かったのが嘘のように、今は軽い。軽いと言うよりは、ふわふわの綿か何かに乗った時のように自分の体の重さを感じていない。風邪薬が効いてきたのかなと思った。
今のうちにと思って、シャワーから出る水の温度を上げる。体は軽く感じているけど、それと同時に体全体に力が入らない。多分、湯船から直接桶でお湯を汲んでいたら時間がかかって仕方がない。それどころか、湯を零しつ受けるだけで終わってしまいそうな気がした。
シャワーから出る水がお湯に変わったところで、ちょうど湯張りも終わった。
少し時間がかかりながらも服を脱いで、シャワーで体の汚れを流してから湯船に入る。それが気持ちよかった。
***
兄さんが疲れていると確信したのは家から1番近いという最寄り駅の改札口だった。
違和感を覚えたのは、ちょうど改札を通ろうとしたとき。いつもの兄さんならもっとスタスタと改札を通り過ぎるのに、今日はやけにゆっくりだった。棒の荷物が重かったのかなとも思ったけど、僕と違って兄さんはあれぐらいの量の荷物で根をあげる人じゃないはず。その信頼からくる違和感が僕の心の中で湧き上がってき来た。
よく考えたら、兄さんが疲れない方がおかしい。年末年始とお盆は除くとしても、平日は朝早くから仕事が始まって、それが終わればアフレコ現場にむかう。少ない時はラジオだけなのかもしれなけど、人気絶頂な今の時期にそんなことは稀で、極端な時は夜の九時ぐらいまで何箇所も現場を梯子するらしい。
兄さんは楽しくやっているのかもしれないけど、疲れはきちんと体に溜まっているんだと思う。
元からそれが心配だった。
でも、好きな仕事を楽しそうにやっている兄さんに、少しは休んだ方が良いんじゃない、なんて言えるわけがなかった。
だけど、今日の兄さんにだけは言わないといけないなと思った。平気そうな顔をしようと頑張っているけど、いくらなんでも無茶がすぎる。
そう意を結したはいいものの、言うタイミングがなくて、結局言えたのがついさっき。家に帰ってきてからだった。
大人しく兄さんがお風呂に入ったのを見届けて、料理に取り掛かる。
心の中から心配が少しは薄らいだけど。心の中にはまだ心配が残っているのを自覚できた。
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