幕間 輝央の考えていること

 朝、僕は誰かが玄関の鍵を開けて家に入ってくる物音で目を覚ました。

 隣では飼い猫のニャン太が丸まっていた。それを抱き上げて、腕で支える。

 ーー誰だろ……?

 そう思って、物音の移動したと思う道を辿る。

 ついた先は、ゆい兄の部屋だった。障子が空いていて、中にはランニング用の服装の兄さんがいた。

 ーーゆい兄、おかえり

 正直、何を自分が喋ったかなんてわからない。自分じゃ無い誰かがしゃべっているみたいな、でも、自分の声なのはわかる。そんな感じだった。

「ただいま、輝央。ねむいなら寝て良いよ」

 ゆい兄の声が聞こえた。とりあえず、抱きつきたい。

 ただ、ゆい兄がいて、ゆい兄の声を聞いたから、だからゆい兄に甘えるだけ。

 それが全て。

 ニャン太を床に下ろしてから、ゆい兄に抱きつく。

 これが一番落ち着く。

 小さい頃はゆい兄と一緒に寝ていたから、やっぱり、ゆい兄に抱きついて寝るのが一番落ち着く。

 ーーゆい兄と、寝たい

 頭に何かが触れた気がした。

 でも、それは不快ではなかった。

 ゆい兄が帰ってきた。

 それがただ嬉しくて、いない間の寂しさが、これで満たされた気がした。



「あれ、兄さん?」

 目が覚めると、兄さんがすぐそばにいた。

「輝央、ようやく起きたな」

 そう言っている兄さんは笑顔でいっぱいの顔をしていた。

 だんだん、頭が回り始めて、今の状況を冷静に分析する。

 ここは、兄さんの部屋で、兄さんに抱きついている? いや、抱かれているのかな? あと、兄さんの後ろは白色だから壁かな。

 そこで、自分の足の感覚がいつもと違うことに気がつく。なんと言うか、少しゴツゴツとしている感じだった。てことは、今、兄さんの膝の上にいるのかな?

「え?」

 そこまで考えて気がついた。

 僕は兄さんが帰ってきたときにたまたま起きて、回らない頭でとりあえず兄さんに抱きついて、そのまま寝た。それを、兄さんがどうにかしてこの体勢に変えたってことなの!?

 それを一瞬で悟った。

「ごめん、兄さん。抱きついたまま寝ちゃって」

 ひとまず、離れようと畳に手をつけようとした。その時、兄さんが僕の腕を掴んで、先と同じような体勢に戻した。さっき違うのは、僕の肩に兄さんが顔を埋めていること。正直、何がなんやら分からなくて、何もできずにいた。

「もうちょっと抱かせて」

 唐突に兄さんが口にした言葉。それに驚く。

 驚くよりも前に、今兄さんの口があるのは左耳のすぐ近くで、そんなところで囁かれると、思わず反応してしまう。

 ほのかに、耳元が熱い。

「ごめん。気持ち悪いよね。でも、もうちょっとこうさせて」

 その声は震えていた。

 そして、その声を聞いて思い出した。今日は兄さんのライブの日で、そのライブが名古屋ドームで開かれることを。そして、空回りして、止まっていた思考が元どおりに働き始めて、兄さんがなんでこう言ったかがわかった。

 なんだか、疼いていた耳の熱さが、ちょっとだけ馬鹿らしくなってきた。

「あ、うん。兄さん。分かった。緊張しているのは分かったから」

 そう言うと、当たっているみたいで、「うん。ごめん」と言う兄さんの声が聞こえてきた。

 それを聞いて、疑いが確信に変わった。LINEで教えてもらったことを頭で思い出してから言葉にする。

「それに、今週はBLものの収録が多かったんでしょ?」

「うん」

 うん。間違ってなかった。それが分かったのは良いことだけど、さっきから、兄さんの返事の仕方が、なんと言うか、ちょっとだけエロく聞こえた。それに、さっきから、息が耳元で聞こえて、このままだと、いろんな意味で耐えられない。

「分かってる。分かってるけど、兄さんの声で言われると、さすがの僕も平常心でいられないから」

 思わず、自分の本音が漏れたことに自分で恥ずかしくなる。

「本当に、ごめん」

 多分、兄さんは兄さんで恥ずかしいんだろうなと思った。それで、なぜか落ち着きを取り戻している自分がいた。

「今日のライブ、直前まで楽屋にいた方が良い?それとも、本番中も袖にいた方が良い?」

 まだ、兄さんは緊張と恥じらいの渦に取り込まれているようで、何も考えずに即答したような答えが返ってきた。

「どうせなら、兄さんについていくよ。ついでになんか仕事あるなら手伝う」

「うん。ありがとう」

 そう言うと、兄さんはさっきよりも強く僕を抱きしめた。

 いつもは、自分の身長にコンプレックスを抱いていた。でも、兄さんよりも背が低いおかげで、こうやって兄さんに抱きつかれるならこの身長も捨てたものじゃ無いなと思った。

 普通、九つも離れた男兄弟に抱きつかれるのは嫌なのかもしれない。

 でも、僕はそう思わない。兄さんは僕の憧れだし、それに、兄さんに抱き付かれても不快に思わない。むしろ、気持ち良いぐらいだ。

 そんなことを思っていた。


 ライブが始まってから、僕はharukaさんと一緒にモニターで会場の様子を見ていた。

 ライブ前は兄さんのマネージャーである佐々木さんと一緒にいた。その場にいる関係者の中の主要な人たちに名刺を配ったりしていた。あとは、ライブグッズや会場のいろんなところの写真を、SNSに載せるために撮っていた。その間は、だいたい僕が荷物持ちで、行く先々で、短時間で終わる作業とかを手伝っていた。

 多分、佐々木さんは僕のお目付役みたいな物だったのだと思う。まあ、当日になってから入った飛び込みのバイトなんてそんな物だよね。

 そんなふうに過ごしていたのもお昼前までで、あとは会場にお客さんを入れる作業だから、僕は兄さんのところにいた。

 午前中に兄さんもharukaさんもリハーサルとかの諸々の準備が終わっていたみたいで、ライブ開始まではスタッフの人たち含め、みんなが休憩していた。僕も他のスタッフの人たちと同じ時間帯にお昼を食べた。

 お昼を食べ終わった後、開場までまだ時間があったからか、僕をセリに乗せてみたり、歌わせてみたりと、兄さんは僕で遊んでいた。なぜか周りのスタッフの人たちまで微笑ましく僕をみていたけど。

 開場した後には、兄さんは忙しさ半分、緊張半分で、ソワソワと落ち着いていなかった。そんな兄さんを見ながら、僕とharukaさんはずっと喋っていた。なんとなく、僕も少しは働いた方が良いかなと思って、荷物運びを手伝ったり、伝令として名古屋ドーム内を駆け巡ったりした。まあ、伝令なんてほとんどなかったけど。

「そういえば、輝央くんはさ、唯斗くんの事どう思っているの?」

「……え?」

 唐突に投げかけられた質問に、反応しきれなかった。

「だからさ、お昼の時に、二人ともラブラブだったじゃない?」

 そうなのかな?いつも通りに接していた気がするけど。

「だから、いわゆるブラコンかなって」

 それを聞いて、思わず、昔兄さんが出演したBLドラマCDを思い出した。

 その作品は兄弟恋愛ものだった気がする。そういえば、兄さんがお兄さん役だったのは良いとして、弟役の人に少しだけ腹が立った気がする。作品は悪くなかったんだけど。むしろ好きだったし。

「えーっと、つまり、harukaさんは僕と兄さんが恋人関係にあると?」

「うー……ん。ちょっと違うけど、まあ、そんな感じ」

 harukさんが「少し違うな〜」みたいな微妙な反応をしていた。

 harukaさんの考えは一旦置いておくにしても、そんなこと考えたこともなかった。

 でも、言い切れる。

「harukaさん、違うと思います」

 僕と兄さんは多分特殊なんだと思う。

「ただ、小さい頃から兄さんがそばにいた。両親のことも好きだけど、甘えやすいのはどっちかって言うと兄さん。だから、兄さんに甘える」

「ーー」

 harukaさんはただうなずくだけっで、何も口を挟まなかった。

「僕は確かに兄さんのことが好きです。でも、その好きは、今はまだ、家族として、兄弟として好き、そういう感情なんです」

「愛」の言葉に込められた、いくつもの「愛」の形。

「ブラコンは合っていると思います。でも、harukaさんが期待する意味とは違うと思います」

 そこまで行ってしまうと、僕は自分の心の声をしっかりと理解できた。いや、僕はもっと前から気付いていたんだと思う。

「それに、もし、僕が恋人として兄さんを見ているなら、それは叶わないって分かった上で接しているんだと思います」

 だから、僕と兄さんの関係は、あくまで兄弟。恋愛感情とかじゃない。

 でも、その感情はふとしたときに恋愛に変わってしまうような物。

 だから、僕は最初から諦めている。それに、多分、兄さんは僕を「そういう対象」としてみてくれないと思う。

 harukaさんはそれを察したのか、「そうなんだ……」とだけ言った。

「でも、僕は今の関係が一番楽なんです。兄弟でしかも九つも歳が離れている。背も兄さんと比べたらすごい低い。それでも、僕が甘えたら甘やかしてくれる。逆に、兄さんが僕に甘えてくれる。そんなふうに、僕は兄さんの全てを受け止められる存在でいたいんです。もし、恋人なんかになったら、兄さんが僕に頼ってくれなくなるじゃないですか」

 この気持ちは元からわかっていた。

 あくまで兄弟の関係に徹する。

 でも、僕は兄さんが好きで、頼って欲しくて、頼りたい。

 そんな関係になれるなら兄弟が一番良いと思っていた。

 不意に、harukaさんに抱きしめられる。

「輝央くん、後でLINE交換しよ?いいですよね?半田さん?」

 僕たちと一緒にライブの様子を見ながら、電話対応をしていた佐々木さんと半田さん。まだライブは始まったばかりだからか、二人ともそれほど忙しくしていなかった。最後の方になると、レコード会社の方とか、お偉いさんが来るらしい。

「うん。輝央くんは勝手に他の人にharukaのLINEを教えたりしないと思うから、別に構わないよ」

「だそうなので、輝央くん、私に聞いて欲しいこととか、唯斗さんに言いにくいことがあったら、私に言ってくださいね。私みたいな歌手って基本的には暇なので。むしろ、アマチュア歌手としてやっている歌い手の人たちの方が忙しかったりするから」

「そ、そうなんですね……あ、でも、自分で作詞作況としている人たちっているじゃないですか」

「そんなのは一握りだけだから!私は歌と歌詞ぐらいしかできないの。だから、忙しくない時は本当に忙しくないから。あっても、ラジオとテレビ出演とボイストレーニングぐらいだから」

 それはそれで忙しい気がする。でも、harukaさんがここまっで言っているから、断るのは失礼だよね。

「わかりました」

 僕がそういうと、嬉しそうにharukaさんはスマホの画面にQRコードを表示した。

 アカウント名が『千島遥香』となっていた。聞くと、それはharukaさんの私用のアカウントで、アカウント名は本名なんだそうだ。

 しばらくして、兄さんが四曲目を歌い始めると、遥香さんはharukaとしてステージに出るために、マイクをつけたりしていた。

「それじゃあ、輝央くん、行ってくるね!」

「あ、はい。いってらっしゃい」

 すぐに兄さんに名前を呼ばれて階段を駆け上がっていった。

 駆け上がる直前の遥香さんの笑顔を見せた。なんと言ったらいいかわからないけど、その笑顔はとても似合っていた。

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