第二話 春のライブ③
「ちょっとトイレ行って来ます」
「行ってらっしゃい」
部屋にいた衣装さんに声をかけておく。
ライブ開始三十分前の午後二時半。開場自体は一時間ぐらい前から始まっている。
緊張がもやもやとしたものを胸の中で燻らせている。
メイクも終えて、衣装に着替える前にトイレに行く。もちろん、トイレには行くけど、少しだけ寄り道をする。
向かったのは舞台袖。
そして、袖にある会場の様子を映したカメラを見る。
まだまだ時間があるとは言っても、お客さんの九割方は席についていた。
チケットは全て完売。まあ、今回はツアーじゃないから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけど。
ライブ前にはいつもそうしている。チケットが完売していると聞かされていても、自分の目で見るまでは信じられないからだった。
多分、これはただ不安なだけだと思う。でも、不安になってしまう。それは変えられない事実だった。
自分の目で見て実際に確かめたことほど真実に一番近い。僕はそう思っている。もちろん、他の人を信じていないわけじゃない。
でも、不安がんこるぐらいなら自分で確かめた方が安心できる。それだけだ。
「さて、時間もないし、トイレに行ってから衣装を着ようかな」
そうやって、自分に自信を持たせる。
今も、胸の中は緊張の蓋文字が閉めている。だけど、さっきとは違った緊張。緊張の中でも良い緊張だった。
「あら遅かったじゃない」
楽屋に戻ると、衣装の鈴木さんに声をかけられた。
「すみません。緊張しちゃって」
「いいのよ。トイレに行って遅くなるより、衣装に着替えてからトイレに行く方が私としてはハラハラするから」
「はい。それじゃあ、一番最初に着る服をお願いします」
「はいはい」
鈴木さんが上に着る服やアクセサリーを順々に渡してくる。朝、ここに来た時からジーパンを履いていたのは、鈴木さんが女性だから、互いに気を使わないためだ。まあ、衣装の順番とかの兼ね合いもあるけど。この後は基本この衣装のまま、若干着替える程度だ。
「そう言えば、あの弟くん、あなたにぞっこんじゃない」
「そうですかね?」
「そうよ。いくら歳が九つも離れているからって、あの反応はただの兄弟ではそうそうないわよ」
「そうなんですかね?」
鈴木さんは「うん」と言うかのように、大きく首を縦にふった。「まあ、あの弟くんが小学生なら話は違うけどね」と付け加えながら。
「鈴木さん、僕はちょっとだけ違う気がするんですよね」
そう零す。
「僕って、家を出てから八年が経っているんですよ。それに、高3の時はとにかく関東の大学に行こうってめちゃくちゃ勉強していたんですよね」
一着目で使うアクセサリーを出し終えると、鈴木さんはアクセサリーの入った箱の蓋を閉じた。
「それで?」
「両親が数年前まで共働きだったんです。だから、本当に小さい頃って、輝央は僕と過ごしていたんですよ」
鈴木さんは椅子に座った。
「僕が高校生になった時に小学一年生だったんです。僕は多少勉強しないといけなかったから、あいつに構ってあげられなくて」
生まれたばかりの小鳥が、近くにいる自分より体の大きい鳥を親だと思うのと同じで、多分、輝央は僕を親とは違う、でもそれに近い存在として見ていたんだと思う。
中学生の時は保育園に迎えに行ったりもした。流石に小学生に弟を迎えに行かせるようなことを親はしなかった。輝央が小学生になってからは僕といる時間が増えた。もちろん、輝央が保育園に行っている時からだけど、寝る時は僕と一緒の部屋。輝央が小学生になるタイミングで、諸々の都合で引っ越すことになったから、二段ベットを体験することはなかった。
でも、三年間は同じベッドで寝ていた。
「だから、あいつ、昔から大人しいのはそのせいなんです。多分、子供ながらに、邪魔しちゃいけないっって察したんでしょうね。後、僕に甘えてくるのも、小さい頃に構ってもらえなかった分、今は構って欲しいって言うことなんだと思います」
そこまで聞いて、鈴木さんは「はぁー」と、ため息をついて僕の肩に手をおいた。
「ライブ前にごめんなさい。まあ、私の勘違いだったみたいだから、今の話は忘れて」
「わかりました」
「あと、弟くんは大事にしなさいよ。ほら、そろそろ時間でしょ?」
「あ、そうだ。それじゃあ、鈴木さん、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ」
そうして、僕は楽屋を出る。
舞台袖には、すでにバンドメンバーの人たちが集まっていた。もちろん、harukaも輝央もいた。
僕はみんなの真ん中に立って、少し声を出す。
「えー、それじゃあ皆さん、まだ開始まで少しありますが、円陣組みたいと思うので、真ん中に集まってください」
その言葉に、バンドメンバーとharukaが集まってくる。輝央はマネージャーの人たちと一緒に、少し遠目から見守っていた。他のスタッフの人たちも、手の空いている人たちが集まって来た。
「今回、僕がライブを行うには、ここにいる皆さんの力を貸してもらわなくてはいけませんでした。本当に、僕みたいな、ただ一人のために、協力してくださって、ありがとうございます。ここにいないスタッフの方もいると思いますが、その方たちにもお礼を言いたいと思います。ありがとうございます。後は、ライブやって、片付けて帰るだけです。なので、ライブの間は盛り上がってください。で、ここからはちょっとだけ協力してもらいたいのですが、僕が、『頑張るぞー』っと言ったら、『おー!!』って、足を一歩踏み込んで欲しいんですけど、お客さんに聞こえるとあれかなって思ったので、今と同じぐらいの声の大きさで僕が言うんで、皆さんは本当に小声でお願いします」
そこで、少しの笑いが起きた。
「それじゃあ、行きたいと思います。頑張るぞー」
「「「「おー!!!」」」」
一人ひとりの声は小さくても、集まると大きく聞こえる。
みんなが一歩踏み出した後、円陣が解かれると、どこからともなく拍手が起こる。
そして、スタッフの人達は自分の仕事に戻る。
バンドメンバーの人たちは先に舞台に上がって、自分の楽器の音を出したり、チューニングをしている。
呼吸を整えて、舞台に上がる階段の前に立つ。
「マイク、失礼します」
「お、お願いします」
スタッフさんがマイクをつける。手が塞がらない、ミュージカルとかでよく使われるあれだ。
「兄さん」
横から、輝央が声をかけてきた。
「がんばってね!」
「うん。がんばってくるよ。だから、モニターで見てて」
そう言うと、輝央は笑顔でうなずいた。
さっきまだ明るかった階段の先が暗くなった。僕の音声が流れると同時に、観客の歓声が聞こえてきた。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
さて、とにかく今は、ライブに全力を注ごう。
階段の途中まで上がる。
『それっではみなさん、最後まで楽しんでいってください!以上、茜音唯斗でした』
その声で、完全に暗くなる。
スタッフさんの合図月出るのを見届けてから、階段を上がる。
ちょうど、映像が後ろで流れ始めた。会場は色とりどりのペンライトで彩られていた。
映像のカウントダウンが終わると同時に、スポットライトが僕に当たる。
「それじゃあ皆!今日は楽しんで行こうね!」
歓声と共に、一曲目のイントロが少し流れて止まる。
「一曲目は『ラストハート』」
暗転したのち、ギターの軽快なリズムが聞こえてくる。それと同時に、ドラムとベース、ピアノが入る。
さて、思いっきり歌おうか!
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