第二話 春のライブ

 目を開けると、天井がいつもと違っていた。

「そっか。今日はライブなんだった」

 僕がいるのは名古屋にある、あるホテルだった。今日は名古屋ドームでライブをすることになっていた。

 近くに置いてある携帯で時間を確認する。まだ、朝の五時半。いつもより少し遅いぐらいの起床だった。

「それにしても、春なのに寒くないな」

 春真っ只中の四月末。これが五月半ばならまだ納得できなくもないが、些か早すぎやしないかと思える。シーツに突っ込んだ足が若干熱いと感じて、ベッドから出る。 

 唯斗が名古屋に来たのはつい昨日のこと。

 いつも通り、朝のラジオを終わらせて、午前中にアニメのアフレコをしてから新幹線で名古屋に来ていた。

 そこからすぐに名古屋ドーム待で来て、ライブのリハーサルをした。

 それも終わってホテルにたどり着く頃には、いつもの何倍も疲れていた。

 唯斗が出るライブは、『茜音唯斗ライブサーキット2022〜ノスタルジーなモノトーン〜』という名前で、いわゆるソロライブだった。

 そして、今日は土曜日。唯斗がやっているラジオ番組は月曜から金曜の週五日なので、朝、名古屋のラジオ局に行って生放送をする必要もなかった。

 ベッドから出て、すぐにシャワーを浴びる。今朝は暑いなと感覚的に思ったので、暑いお湯ではなく、三十度程度のぬるま湯を浴びる。

 さっと体と髪を洗って、水で流す。そうしたら、持ってきていたランニングウェアーを着て、ホテルをでる。

 名古屋の地理はよく知っている。というよりも、高3まで名古屋に住んでいたから、多少目新しいビルがあっても、道はあまり変わらないのでランニングぐらいならできる。これが買い物になるとまた話が変わってくるけど。

 その足で実家に戻る。

 自分の持っている合鍵を使って中に入る。

「ただいま」

 まだ寝ているのか、返事が返ってこなかった。

 まあいいやと思って、今でもそのまま残してもらっている自分の部屋に入る。そこには、東京に引っ越す時に持っていかなかったものがたくさん置かれている。

 特に多いのは本だった。

 それを見ながら懐かしんでいると、部屋の戸が開けられた。そこに立っていたのは兄弟の輝央きおだった。腕には飼い猫のニャン太さんを抱えていた。

「ゆいにい、おかえり」

 まだ寝ぼけているのか、もう高校生にもなるのに甘えたなところが出ていた。

「ただいま、輝央。眠いなら寝て良いよ」

 そういうと、ニャン太さんを床に置いて、僕に抱きついてきた。

「ゆい兄と、寝たい」

 そのまま、寝てしまった。ライブ会場には十時についてなきゃいけないから、ホテルに戻る時間も考えて、後二時間は居れるかな。

 そんなことを考えながら、輝央の頭を撫でた。


「あれ、兄さん?」

「輝央、ようやく起きたな」

 輝央が抱きついてきた後、ひとまずゆっくり腰を下ろした。そのまま、僕は壁に背を預けて、輝央を引き寄せた。

 九つ離れた輝央は昔から甘えただった。顔はだんだんカッコよくなってきて、兄としては嬉しい限りだった。

「え?あ、ごめん、兄さん。抱きついたまま寝ちゃって」

 そう言って、離れようとする輝央の腕を掴んで、抱き寄せる。

 そういえば、年末に変えた時から背があまり変わってないな。そんなことを思った。

「もうちょっと抱かせて」

「え?」

 あ、いうべき言葉を間違えたかな?

 そんなことを思った。

 そういえば、今週はBLのドラマCDやらアニメの収録が多かったな。

「ごめん。気持ち悪いよね。でも、もうちょっとこうさせて」

「あ、うん。兄さん。分かった。緊張しているのは分かったから」

「うん。ごめん」

 あーあ。自分も人のこと言えないな。こんな二十代も後半なのに、緊張で弟に抱きつくとは。

「それに、今週はBLものの収録が多かったんでしょ?」

「うん」

「分かってる。分かってるけど、兄さんの声で言われると、さすがの僕も平常心でいられないから」

「本当にごめん」

 分かってる。知ってる。

 輝央が僕の声を好きでいてくれていること。

 行けるイベントがあったら来てくれていること。

 僕が出てるアニメは欠かさず見てくれていること。

 僕の曲はきちんと聞いてくれていること。

 僕のラジオも聞いてくれていること。

 知ってるからこそ、頼っちゃう面がある。

「今日のライブ、直前まで楽屋にいた方が良い?それとも、本番中も袖にいた方が良い?」

「うん。お願い。そっちの方が安心できる」

 なんだろ、兄失格な気がする。

「どうせなら、兄さんについていくよ。ついでになんか仕事あるなら手伝う」

「うん。ありがと」

 本当、頼もしい弟だ。僕なんかよりもしっかりしてる。


 その後すぐに、母さんに唯斗とに行ってるねと伝えた。

 父さんは仕事の都合で来れないけど、母さんは僕のライブに来てくれるらしい。元々、唯斗は母さんと来る予定だった。

 でも、ついでに手伝いをするみたいだから、一緒に来てもらった方が良い。

 さっき他のスタッフの人たちと一緒に行動しているであろうマネージャーに電話をかけたら、「仕事はいくらでもあるから、連れて来て良いよ。後、その弟くんには『お給料も出るからがんばってね!』って言っておいて」と言われた。

 ちなみに、母さんの許しはすぐに出た。

 時間を確認すると、八時十分だった。

「輝央、まだ時間はあるけど、早めに会場に行く?」

 台所で四人分の朝食を用意していた輝央に話しかける。

「そうする」

「うん。分かった」

 僕が輝央の髪の毛をワシャワシャとすると、レタスをちぎっていた手を止めて、僕の手に頭を擦り付けて来た。

 輝央は背が低いことにコンプレックスを持っていた。

 まあ、コンプレックスを持つようになった原因は僕にもあるからなんとも言えないんだけど。僕は父さんの形質を色濃く受け継いだらしく、おかげで背が高い。確か、百八十はあったはず。それに対して、輝央は母さんの形質を色濃く受け継いだ。母さんは女子の中でも背が低かったので、男の輝央にはそれが出て、百六十と、同年代の男子の中では背が低い。もちろん、これが日本人男性の平均身長値なら平均値らしい。

 それだけなら、まだ良かったかもしれない。

 でも、僕が身長が高くなってしまったがために、身長について悩んでいるようだった。

 そんなことがあっても仲が良いのは、先輩声優さんがラジオのゲストに遊びに来てくれた時におっしゃった言葉があるからだろう。

「兄さん」

「何?」

「僕はこのまま撫でていてもらえると嬉しいけど、父さんが仕事に遅れるから」

「あ、うん。手伝うよ」

「お願い」

 相手の言わんとしていることが言葉にしなくてもなんとなく伝わってくる。というか、歳が離れていて兄弟仲も良いから、より相手が何を言おうとしているのかを考える。だから、言葉にしなくても分かることは分かるのだろう。

「それじゃあ、僕はベーコンと目玉焼きやるね」

「うん。終わったら、先に盛り付けてて良いよ」

 まだ成長途中なのか、声は男子にしては低くない。でも、その声は落ち着いていて、聞いていて不快感がない。後、少しだけ幼く聞こえる。それは多分、声以外の要素、それこそ口調が大きく絡んでいるのだろう。輝央は喋り方がゆっくりなわけじゃないけど、早いわけでもなくて、声に出る感情の起伏が大きくはないけど分かりやすい。それが声と組み合わさって、幼く聞こえるのだろう。いや、幼いというより、落ち着いてるのかな?

 そんなことを考えている間にも、手を休めずにテキパキと作業をこなす。フライパンに油を一回しし、四個の卵を割り入れる。そして、別の小ぶりなフライパンに半回ししないぐらいの油を入れて、真空パックに入っている薄切りのベーコンを八枚入れる。

 目玉焼きの方からよく焼けてくる音がしたら、少量の水を用意し、フライパンに入れ、蓋をする。同じぐらいに、ベーコンの方からも脂の跳ねる音がし始めて来た。火加減を落とし、目玉焼きに集中する。

 良い感じに焼けたら、火を止めてひとつまみ程度の塩をかけ、胡椒を少量かける。ベーコンも火を貴kちんと止める。皿の右側にベーコンを二枚ずつ敷き、その上に目玉焼きを載せる。

 既に左半分にはレタスが盛られていた。輝央はテーブルに醤油と塩、マヨネーズを置いて、炊き上がっていたご飯を自分のお茶碗によそっていた。

 油だけが残ったフライパンにキッチンペーパーを入れる。そして、手早く油を拭き取ったらキッチンペーパーを捨てる。そのフライパンを流しに置いて水を少し入れておく。

 そこまでしてから、自分もお茶碗にご飯をよそう。輝央が二皿持っていったから、もう二皿は僕が持っていく。

「いただきます」

 席についた僕が言った後、輝央も小声で「いただきます」と言った。

 そのうちに、スーツを着た父さんが来た。

 これが数年前までの茜音家の日常だった。


 朝食を食べ終わって、輝央が用意し終わるのを待っている間、僕は朝食の片付けをした。それも早々に終わったので、新聞を見ていた父さんとコーヒーを飲みながら会話を交わした。まあ、ほとんど僕の近況報告だったけど。僕が出ている作品の情報はその都度報告しているし、何より輝央が調べて父さんたちにいっているみたいだ。だから、ほとんどは「きちんと休みは取れているのか?」とか、「きちんと食べているのか?」といった物だった。

「兄さん、持っていく物って、学生証とお金だけ?」

「うん。それだけで十分だよ。移動も歩きだから」

「分かった」

 そう言って、荷物を持って出てきた。最近の輝央はおしゃれに気を使うようになったらしく、たまに写真を送ってくる。

「今日は黒のジーンズと少し早いかもしれないけど、半袖のシャツにしてみた」

 うん。弟贔屓かもしれないけど、よく似合ってる。

 ジーンズこそ普通のかもしれないけど、シャツは下に黒いのを着ていて、その上から白い襟付きのシャツを着ていた。ちなみに、どちらも半袖だ。

「うん。似合ってるよ。輝央によく合ってる」

 そうやって褒めると、輝央は少し顔を俯かせた。

 とそこに、電話がかかって来た。画面を見ると、マネージャーからだった。

「もしもし、茜音唯斗です」

「唯斗くん、今日連れてくるって言っていた弟くんなんだけど、スタッフとして会場にいるなら動きやすい服で来てって伝えておいて。それと、いきなり接客系の仕事は無理だと思うから、もともと僕がやるはずだった仕事を手伝ってもらおうと思ってる」

「あ、はい。そこは大丈夫だと思います。動きやすい衣服そうですし、卒なくいろんな事をこなせるので」

「なら良かった。それじゃあ、今日の集合場所に少し早めに来てね」

「分かりました。それでは失礼します」

 時計を確認すると、八時四十五分になろうとしていた。

「兄さん、誰から?」

「僕のマネージャー。今日一日、輝央はマネージャーの仕事を手伝うことになりました」

「分かった。それじゃあ、もう行く?」

「うん。そうだね。じゃあ、そういうわけだから、行ってくるね」

 父さんに言うと、無言でうなずかれた。

 靴を履いて、家を出る。

 久しぶりに兄弟で話していた。

 偶に電話をすることはあっても、輝央はまだ学生だから勉強があるし、僕も次の日に仕事が入っていることが多いから、長く電話できない。

 そういえば、もう桜は散って、葉桜なんだよな。

 そんなことを思っていた。

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