第3話 春香
ある日。
四時間目の終齢が鳴ってから。
物理の実験室から教室に戻る廊下途中で、
「郁斗君」
声を掛けられた。
吉野春香だった。
翠と郁斗を笑いものにして楽しんでいる一般生徒と違って、朗らかでにこやかで親しみのある笑みを浮かべていた。
「苦労しているみたいね」
いたわってくれるような声を掛けてくれた。
思わず泣きそうになった。
「きて」
春香は短くそう言うと、郁斗を先導するように歩いてゆく。
保健室に入って鍵をかけて、郁斗をベッド淵に座らせて自分も横に座った。
その春香が話し出す。
「私、高瀬さん、別にみんなが言う程変な人じゃないって思うの」
春香が郁斗の様子をうかがいながら、言葉にしてくる。
「確かに高瀬さんと郁斗君、いちゃいちゃしすぎでちょっと反感を買っていて。高瀬さんの外見だけを見て慕っていた人たちにはショックな内容だったと思うけど、それだけで」
郁斗が春香を見つめると、優しい微笑を返してくれた。
「この年だもの。女の子でも少しくらいいやらしいこと考えるのが普通だと思うの。私だってエッチな事想像して……」
春香が言葉を切る。
少しだけ恥ずかしそうに、
「一人で楽しんだりするもの」
そう口にしてきた。
春香は郁斗の手を取る。
「私、郁斗君と高瀬さんのこと、応援したいなって思っていて」
春香は言った後、まっすぐな瞳を向けてくる。
「学校のみんなが虐めで楽しんでるって思うかもしれないけど、郁斗君たちを応援している人っていると思うの。少なくとも私は郁斗君たちを応援してるんだってわかって欲しくって」
郁斗はそれ以上堪えきれなかった。
「うまく……いかないんだ……」
震えながら言葉を続ける。
「翠と……昔みたいに……一緒にいるのがうまくいかないんだ……」
郁斗は春香の胸に顔を埋めた。
「俺が翠の重荷になっているのかも……しれない……。俺はどうすればいい……?」
つかえていた胸の重みを春香に吐き出す。
春香が優しく両腕で郁斗を包み込んでくれた。
もう我慢が出来なかった。
ぼろぼろと春香の中で涙をこぼした。
後から後から湧き出してくる。
春香がじっと黙って、でもずっと郁斗を抱きしめてくれている。
郁斗はただずっと、春香に抱かれながら涙をこぼし続けた。
◇◇◇◇◇◇
その日から昼休みは翠のいる生徒会室には行かずに、春香と保健室で過ごすようになった。
教室ではいつも通り翠と一緒に過ごしている。
下校も共にしてはいるが、翠は「さよなら」と短く言うばかりで、昼休みに自分の元へ来なくなった郁斗に対する不平不満は一切口にしてこなかった。
今日も郁斗は保健室のベッドで春香の膝上に頭を載せて、優しく頭を撫でられている。
こうしていると、心の中に溜まった錘がすうっと溶けて消えてゆく様な安堵を感じる。
春香と積極的に何かを相談するということはなかったが、自分を癒してくれる優しい手があると実感できる。
知らず知らずの内に……
郁斗はこの昼休みの春香との逢瀬を、待ち望んでいる自分に気付いた。
授業中も下校途中も。春香に癒されることを、春香に癒された時のことを思い描いている。
「さよなら」と翠と言葉を交わして。
春香のことを考えている自分を理解して。
郁斗は自分を憎悪するが、それを変えることができないことも理解していた。
◇◇◇◇◇◇
気付くと。
翠と一緒に帰らなくなっていた。
保健室で春香と何気なく会話をする。
「私、去年生徒会長に立候補したでしょ」
「ああ……」
郁斗は春香の膝枕の安寧の中、虚ろに答える。
「今年も立候補しようと思うの。高瀬さんには辛いと思うし、私も一度くらい生徒会長やってみたいって思うし」
「そう……だな……」
「郁斗、応援してくれる?」
「ああ、春香がそういうのならな……」
郁斗は答える。
翠が生徒会長として講堂の檀上で話をしている姿が脳裏をよぎったが、それ以上考えるのが辛くて、春香の中に逃げ込んだ。
今は、今この瞬間だけは春香に優しく包まれていたい、そう思いながら今日も春香に愛撫されている。
◇◇◇◇◇◇
学園内で翠と一緒に過ごすことがなくなっていた。
昼休み。
厚生棟のカフェテリアに春香と一緒に向かう途中。
向こうから翠が歩いてきた。
春香が郁斗に腕を組んできた。
翠は表情という表情を浮かべていない。
冷たく。
ただひたすら冷たく。
交差する。
翠はこちらを見向きもしなかった。
郁斗の胸に痛みが走る。
それを無理やり押しつぶした。
翠と郁斗は互いに目を合わせることもない。
ただ見知らぬ他人とばかりすれ違っていった。
◇◇◇◇◇◇
昼休みの教室に隣のクラスの春香がお弁当を持ってやってくる。
翠が教室を一人後にして、入れ替わりに春香が郁斗の隣に座る。
「今日は傑作よ」
春香がもったいぶるような声音を向けてくる。
「そうか。楽しみだな」
郁斗は答えるが、心に残った棘がちくちくと痛んでいる。
もう忘れるのだ。
もはや自分の手を離れた事なのだ。
春香の差し出す箸に口をつけながら脳内で繰り返すが、口内に苦い味が広がる。
春香との穏やかな日常を過ごしながら。
郁斗は心の中の残滓をまだ捨てることができない。
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