第4話 沙耶

 ある日の昼休み。

 郁斗のスマートフォンにメールが届いた。

 差出人は「たかさせや」。

 放課後、校舎裏で待っていますという内容だった。


 この人物に覚えはなかったが、とりあえず放課後、指定された場所に行ってみた。


 女子生徒が二人いた。

 青いブレザーに膝上のスカート。彩雲学園高等部の制服姿の、小早川しほり。春香の友人だがここ最近は接触がない。

 もう一人は白いブラウスに紺のスカート。彩雲学園中等部のセーラー服を着た少女。高瀬翠の妹、高瀬沙耶だった。


 が、尋常でない状態に目を疑った。

 沙耶がしほりを壁に押し付けて、襲うような恰好で唇を奪っていたのだ。

 しほりは抵抗する様子など微塵も見せていない。

 逆に沙耶の口を求めて夢中で吸っているさまに見える。


 そのまましばらく……

 郁斗が唖然として見つめる中、二人の接吻が続き。

 やがてしほりが感極まったという感じで、壁にもたれかかるようにして地面にへたり込んだ。


 しばらく……


 じっとした時間が過ぎ……


 不意に沙耶がこちらに振り向いてきた。

 郁斗が我に返る。


 見てはいけないものを見てしまった。

 逃げようとすると、


「郁斗さん」


 沙耶がその声を響かせてきた。

 真っ直ぐこちらに歩いてきて、郁斗の眼前にまで達する。


 沙耶はにこっと笑った後、


「『たかさせや』です」


 そう名乗ってきた。

 郁斗は戸惑いながらも返答する。


「あのメール、沙耶ちゃん、だったんだ……」


 と、沙耶はふふっと口元を丸める。


「わからないですか? お姉ちゃんの小説に、一杯感想書きました」


 その言葉に郁斗は思い出す。

 確かに翠の投稿小説の感想欄にそう言った名前があったことを。


「お、おまえかよっ! いや、ごめん……」


 混乱しながら突っ込みと謝りを同時に行った。


「覚えていてくれたみたいですね。嬉しいです」


 沙耶が素直な答えを返してくる。続けて、


「お姉ちゃんの事がバレたみたいですね。一か月も前の話になりますが」


 少し笑みを曇らせた。


 沙耶の言葉に、郁斗は顔を背ける。

 郁斗にはこの少女に合わせる顔がなかった。

 どう取り繕っても、言い訳にもならないと思ってしまう。


 と――


「中等部にまで噂になってましたよ。個人名は出なくても、郁斗さんの事も」


 沙耶がそう続けてきて、後、

 にっこり笑う。


「大丈夫です。郁斗さんがどういう状態か全部わかってます。弁解とか申し開きとか全くする必要ありません」


 沙耶の言葉に郁斗は下を向いた。


「申し訳ないが……もう翠とは……」


 言葉を絞り出すと、


「みんな自分の思惑があって動いてますから仕方ないとも思いますが……」


 沙耶が背を向ける。

 再び振り返ってきて、


「私、女の子が大好きなんです」


 全く関係ないことを言ってきた。


「正確に言うと、私の事を好いてくれる女の子の心と身体が、ですが」


 沙耶が天使の笑みで悪魔の言葉を発する。


「あそこでへたり込んでいるしほりさんも、私の秘密ファンクラブのメンバーの一人なんです。ずっとお姉ちゃんと郁斗さんを見張る様に言われていたんですよ。スパイの様に」


「翠と俺を、見張る……」


 郁斗は口にしたが、その意味はよくわからない。


「この学園中にネットワークを張り巡らしてあります。趣味でもあるんですが。学園外にも私のファンは大勢いるんです。だから……」


「だから……?」


「強硬策ならば何とでもなるんですが……」


 沙耶は一口置いて、


「ちょっとだけ様子見です。お姉ちゃんと郁斗さんのことは」


 郁斗が理解できないことを言って、微笑むばかりだった。





 ◇◇◇◇◇◇





 同時刻。


 翠は生徒会室で残務を行っていた。

 ただただ黙々と一人、椅子に座って書類を片付けてゆく。


 ここには自分を卑下する生徒たちはいない。

 その嘲笑の声は聞こえず、侮蔑の顔も映らない。

 静かで、けれど孤独な時間が過ぎてゆく。


 ――と、


 生徒会室のドアが開いた。

 吉野春香が入ってきた。

 春香が部屋を見回す。


「誰もいないのね。独りで事務整理?」


 ふふっと嬉しそうに笑う。

 翠は黙って答えない。


「部屋の鍵はどうしたかって?」


 春香は謎かけの様に言った後、ちゃらちゃらと鍵束を翠にひけらかす。


「顧問の先生から貰ってきたわ。私の言う事ならなんでも聞いてくれるの。男なんてみんな同じ。女の身体が欲しいだけ」


 春香が唇をその舌で妖しく濡らし、さらに続ける。


「しほりにずっと見張らせていたんだけど。独りで寂しいよね。郁斗君、もう付き合ってくれないのよね。副会長や書記の生徒にも捨てられて、もう誰にも相手にされないのね」


 その言葉に翠が俯き。

 クスクスと、春香が翠に向けて声を漏らす。


 後――


「ずっと気に入らなかったの」


 春香は自分の気持ちを翠に向けて言い放った。


「小学校中学校でずっと一番だったのに。みんな私をみてちやほやしてくれてたのに」


 春香はあくまで落ち着いてはいる。がその抑揚には棘が含まれていた。


「だから貴方が気に入って自分のものにした如月郁斗を奪ってやりたかった。今、郁斗は私の物よ」


 春香は満足しているという笑みを高みから降ろしてくる。


「生徒会長選挙の応援演説も郁斗がしてくれるの。貴方、生徒会長選挙なんて辞退した方がいいわよ」


 言い終わると、春香が『入ってらっしゃい』と声で合図をする。

 男子学生五人が生徒会室に入ってきた。


 竹刀や、何故かバケツを手に下げたりしている。


 その男子生徒が――


 いきなり――


 暴れ出した。


「おらっ! 壊れろっ!」


「ぶっ壊れろっ!」


 声を上げながらファイルの並んだ棚を打ち倒し、中の紙を破り捨てて撒き散らし。

 並んでいる茶器の類を粉々に打ち砕いてゆく。


 最後にバケツに入っていた水を椅子に座っていた翠の頭からぶちまけ。


「そのくらいでいいわよ。来年からここ、私が使うんだから」


 春香の言葉で動きを止める。


「どう? トイレの汚水の味は? 貴方にお似合いの臭いだと思うけど」


 春香がふふふと声を漏らし、続けて腹を抱えて大きく笑いだす。


 そのまま。


 春香たちが部屋を去って。

 大地震の後の様な惨状が残される。


 翠は黙って椅子に座っていた。

 震えながら、でも泣き出しもせず。

 翠はただ黙って椅子に座っている。





 ◇◇◇◇◇◇





 さらに。

 一週間後の放課後。

 郁斗は下駄箱で見知った顔を再び見つけた。


「お久しぶりですね。といっても一週間ですが」


 そのセーラー服の少女は近づいてきて、郁斗に懐かしいという声を掛けてきた。

 高瀬翠の妹、高瀬沙耶だった。


 郁斗は顔を背けたが……


「少し歩きましょう」


 沙耶は優しい言葉をかけてくれた。





 二人して校門を出て、並んでスロープを下る。

 しばらく中央公園内を一緒に歩いて、住宅地区に差し掛かる。


「お姉ちゃんの事をバラした犯人は突き止めてはいるんですが……」


 沙耶の言葉に驚く。

 続けて沙耶は、


「でもそこは本筋じゃなくて。ここはお姉ちゃんと郁斗さんに乗り越えて欲しいんです」


 そう言葉にしてきた。


「この話がお姉ちゃんにとって悲劇で終わったら、犯人には罰を与えます」


 沙耶は決めているという調子で断言してくる。


「俺にも……罰が与えらえるのかもな……」


 郁斗がつぶやくと、


「お姉ちゃん、負けん気は強いから気丈に振舞ってますけど、本当は繊細ですごく傷つきやすいんです」


 沙耶は罰の話とは関係ないことを振ってきた。


「ここです」


 沙耶が足を止め、郁斗もそれに倣う。

 高瀬翠の自宅にまでやってきてしまっていた。


「どうぞ」


 沙耶が門を開け、中に郁斗を誘う。


「お姉ちゃん、今日は所用で港南シティガーデンに行ってますから、私だけです」


 沙耶の笑顔に促されて、郁斗は玄関をくぐる。

 久しぶりの翠の家に上がった。





 沙耶が郁斗を先導する様に階段を上がってゆく。

 翠の部屋の前にまできた。

 沙耶が扉を開く。


 中に入って。

 その惨状に愕然とした。


 カーテンがびりびりに引き裂かれ、服や下着が散乱している。ペットボトルの容器に、本や大切な物だろうDVDが無造作に床に転がっていて。ベッドメイキングした様子はなく、部屋は以前の小奇麗な女の子の部屋の面影を全く残していなかった。

 引きこもりの部屋だと言われても納得してしまう。


「お姉ちゃん、机に座ってただじっと泣きもせず震えているんです。まるで小学校の時に虐められたみたいに」


 沙耶が口にする。


 郁斗は何も答えられなかった。

 目の前の広がる光景に拳を握り締める。


 自分が翠をここまで追い詰めてしまった。

 郁斗は生まれて初めて、死にたいと思った。





 沙耶にリビングに案内されてソファに座っている。

 温かいレモンティを給仕されて、沙耶が前に座った。


 郁斗は俯いていたが、沙耶の「どうぞ」という言葉に従って紅茶に口を付けた。

 温かい液体が体内に入ってくる。

 少しだけ気分が落ち着いた気がする。


 郁斗がティーカップをソーサーに置くと、


「お姉ちゃん……」


 沙耶が言葉を紡いできた。


「前みたいに郁斗さんのこと夢中で話すこともなくなって。食事のときとかほとんど無言で」

 郁斗は返答できなかった。


「一言ぽつりって、『こんなことならホテルで無理やりにでも襲っておくんだった。そうすれば想い出だけで生きていけたのに』って寂しそうにつぶやいてました」


 その沙耶の言葉に、郁斗は泣きそうになった。

 ただただ奥歯を噛みしめる。


「郁斗さん……」


 沙耶が問いかけるような調子で聞いてきた。


「本当にもうお姉ちゃんとはこれっきりで十分ですか? それは郁斗さんの本当の選択ですか?」


 郁斗は答えられなかった。


 翠とはうまくいかなかった。

 翠といると辛い、その事実は眼前とある。


 逆に春香といると安心できて癒される、春香の温かさに癒えてゆく、それも間違いないと思う。


 だが。


 心の奥底で芽生えた翠という芽が枯れずに、まだ青々と息づいているとわかっている。


 今はそれから目を背けている。

 だが、本当は知っているのだ。


「郁斗さんが今の人を選ぶのなら、それが郁斗さんの選択なら、私は何も言いません。でも郁斗さんには後悔だけはしてほしくないんです」


 沙耶の言葉は胸に染みた。

 これからどうなるのかわからない。

 でも、翠と別れるにしてもきちんと決着をつけよう。

 ちゃんとごめんと謝って、付き合えませんと言葉にしよう。


 郁斗は沙耶の前で思って。


「ありがとう」


 ただ短く、沙耶にそれだけを音にして返した。

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