第10話 ホテル
部屋自体は割と落ち着いた感じのダークブラウンの色調で、大きなベッドが一つとスケスケの浴室がある。
予想していたものよりシックで大人の装いだというのが率直な感想だった。
翠がテーブルにポーチを置く。
「シャワー浴びてくるわ」
そう言い残して浴室に入っていった。
え? っと思う。
シャワールームはガラス張りで丸見えだ。
高鳴っていた心臓が沸騰して頭のてっぺんにまで血が上る。
ちらっと見ると、翠が服を脱いで下着に手をかけた場面だった。
翠とは色々と変態チックなエロい事を積み重ねてきた。
最後の一線を超える心の準備、覚悟はしてきたつもりだったが。
ダメだった。
後ろを向く。
しばらくシャワーの音が続いて。
浴室の扉が開く音がして。
「空いたわ」
翠の声が背後から聞こえた。
「こっちを見て」
少し媚びを含んだ抑揚が流れる。
「見なきゃ……ダメか……」
郁斗が答える。
「ダメよ」
拗ねた様な声が返ってきた。
郁斗は口内にたまった唾液を飲み込んだ。
振り返る。
………………
真っ白なバスタオルを身体に巻いた翠が、微笑を浮かべて郁斗の前に立っていた。
「どう?」
翠が、見つめている郁斗に感想を聞いてくる。
艶やかな肌と白いタオルのコントラスト。
水着とは違った新鮮な魅力がある。
水にぬれた黒髪がとても眩しくて、吸い付けられた。
翠が郁斗の反応に満足したという様子でにこっと悪戯っぽく笑う。
「裸じゃなくて残念でした。郁斗もシャワーを浴びてきて」
言ってから翠はベッドに向かう。
郁斗も覚悟を決め直した。
シャワー室に入り、ベッドにちょこんと腰かけている翠を見ながら身体を洗い流す。
腰にタオルを巻きつけて浴室を出た。
翠に近づいて、翠の隣に座る。
二人して、タオルだけで身体を覆っていた。
翠の甘い石鹸、シャンプーの匂いが鼻孔をくすぐる。
それが郁斗を更に昂ぶらせてゆく。
もう我慢できない――郁斗が翠の肩に手を載せようとした瞬間、
「このホテルは、一人ではたまに利用するの」
翠が口にしてきた。
行動に移そうとして止められて。
郁斗は少し戸惑ったが、聞いてみる。
「一人で……か……?」
「そう。一人で」
翠はちょっと寂しそうに返してきた。
「男の子と二人でここに来るの夢見ていたの、ずっと小さい頃から」
「……んっ? ちょっと待て」
「だから小学生高学年の頃からここに一人で……」
「おいっ。流石にそれは補導されるだろっ!」
「だから大人の服装をしてカモフラージュして誰もいない昼間とかを見計らって」
「………………」
「………………」
二人して噴き出した。
緊張が一気に和らぐ。
翠と一緒にタオルを巻いたまま、ベッドに仰向けになった。
翠が続けてきた。
「沙耶に私の事聞いたでしょ」
「聞いた」
「私ね、小学校の頃ずっと虐められてたの。きっかけはクラスで変な言葉を言った事。先生に叱られて、両親を呼ばれて。『あの子と付き合っちゃいけません』って」
翠が寂しそうに続けてくる。
「クラスの子たちにはずっと無視されて。一人で給食を用意して食べて片付けて。誰も一緒に遊んでなんかくれなくて。最後には不登校になってずっと部屋で泣いていた」
翠が鼻をすする音が聞こえた。
「寂しかった。でも男の子と一緒に色々な事するの、悪いことだとは全然思えなくって。ずっと諦めなかった」
隣に寝ている翠を見た。
泣いていた。
「諦めなくてよかった。だって今、郁斗が受け入れてくれた」
翠がこちらを見てくる。
顔が横になり、零れ落ちた涙が頬をしたった。
「ねえ、郁斗」
翠が身を寄せてきた。
震えていた。
「私の事……捨てないで……」
翠がしがみついてきて。
郁斗は――
ぽつりぽつりと言葉を返し始めた。
「給食の牛乳が飲めなかったんだ」
「………………」
「アレルギーというわけじゃなくて、苦手で。でもたったそれだけのことで、皆に馬鹿にされた」
翠は黙って聞いていた。
「もともと社交的な性格じゃなかったし。気づいたら誰も俺の近くにはいなかった」
「……虐められた?」
翠が一言だけ聞いてきた。
「一杯虐められたさ。ずっとトイレで泣いていた。だからこんなひねくれた性格になってしまったが……」
翠に微笑んで見せた。
翠が濡れた笑みを返してきた。
「寂しいね……」
「ああ。寂しいな……」
「うん……」
郁斗と翠は、二人だけのラブホテルで泣いていた。
しばらく――
じっとした時が続き――
翠が、うんっと大きく伸びをした。
「ちょっとすっきりしたかも」
明るい表情に戻る。
「どうする? 最後まで『して』いく? 宿泊にはしておいたけど?」
「いいのかよっ! 初めてがそんなんで」
「いいのよ。最初の相手、郁斗で満足よ、私」
「俺は興奮が収まっちまった。どうしてくれるんだ、俺の覚悟」
「ドキドキ」
「だから俺の話を聞け。お前ひとりだけ興奮してるんじゃねーよ」
「だからもう一度最初から興奮すればいいじゃない。手伝うわよ、色々と」
「俺にも最初は甘々なのがいいとか、夢があるんだよ」
「私が最初じゃ、いや?」
少しいじらしい様子を見せる。
「騙されねーぞ。少し演技したら操り放題だと思ってるだろ」
「これから私、郁斗の前でバスタオル脱ぎます」
翠がベッドの上で立ち上がる。
「一人でやってろ。俺は帰る」
「女の子残してどーするのよ。家で一人寂しく自家発電とか、変態じゃないの」
「………………」
「あーダメっ。最後までしちゃいたい我慢できないかもっ!」
にぎやかな二人の夜が更けてゆく。
◇◇◇◇◇◇
深夜二時過ぎ。
翠を自宅まで送って、そこで別れた。
結局、ホテルでは何もしなかった。
少しだけ後悔というか、翠に手を出したかったという欲望が残ってはいるが、これでよかったとも思う。
郁斗は自宅マンションに帰りつき、ベッドに横になった。
色々な想い。翠のトラウマと自分の過去が重なった。
果たして翠は何を思ったのだろう、などと考えてしまう。
うとうとし始めて。
気付いたら眠りに落ちていた。
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