名前が呼べない




「私、あの人ちょっと苦手だなあ」

「……カリンが? 何かあったか」



コーヒーひとつ。カフェラテひとつ。ソーサ―に添えられた焼き菓子と共に。

デートにピッタリ。オシャレなカフェのテーブルに雰囲気を無視してぺしょ、と灰田優が突っ伏した。

自分よりも数万倍人付き合いが上手な彼女。そんな彼女の零した嘆きが意外で、一色蓮は首を傾げた。


特筆して何か、と言うほどの事はない。

まあ脅されたり怖い思いをしたのだから苦手意識が芽生えるのはおかしくないが、その程度で苦手な人が出来ていては普段の仕事もままならない。



「まずなんて呼んでいいか分からない。会うとムズムズする」

「そういえば再会してからカリンを呼ぶところ、聞いたことないな。名前じゃダメなのか?」

「私からの用事とかないし……。シグマさんはシグマさんって呼べるんだけどね。私が"カリンさん"って呼ぶの、なんか違くない?」

「違うのか」



優の中ではとても違和感があるらしい。蓮にはよくわからないが。

でも件の作戦中、彼女はその名を何度か口にしていた気がする。それを指摘すれば、読むのと呼ぶのは違うのだとか。とにかく、現状なんとも収まりが悪いらしい。

意図せず物理的にも近しい距離感になってしまったある日、そんな奇妙な縁の形についての悩みを蓮は聞いていた。




これは時系列がちょっぴり前の話。

シグマとカリンがヘアサロン"LOSERSルーザーズ"に居着いてしばらくの頃。


それでも、人の多い休日でましてや真昼間に極一般的な生活リズムを送る優と、日陰者となったあの二人とはよほど関わる事はない筈だ。そう考えていた。


筈、だった。



「オメェ何してんだこんなとこで」

「え゛……」




見覚えのある身長、シルエット、サイズ感。

こんな場所で邂逅すると思っていなかったカリンは、道の端に寄って端末を弄る優に気づき声をかけた。

優もまさか自分が用事のあるエリアにカリンが単身現れるとはつゆ程も思っておらず、思いきり眉間にシワを寄せて驚いた。




ここは商業街区の上部で優が偶に利用するエリア。

ネットショッピングでは扱っていない物や、訳アリ受注生産品、事前に連絡した上で買いに行くような物がある時に使うショップが集まっている。

とはいえ利用者が全員訳アリかというとそういう訳でもなく、あくまで優が使うショップがそういう事情にも対応してくれるだけであって、基本的には普通に普通の各ジャンルのショップである。


人違いですと押し切るには既に遅く、話しかけられた以上無視も出来ず。

そもそもこんな白昼堂々こんな場所になんで居るんだ。その質問はこっちのセリフだろう。



「そりゃあ欲しいものがあるからお店探してただけだし。そっちこそなんでこんなところに?」

「なんで俺が答えなきゃいけねんだよ」

「ちょっ……はあ?」



作務衣の袂に腕を置いたカリンの一方的な受け答えに更に優の眉根が寄せられた。


先日蓮にカリンが苦手だと白状したばかりだ。

あくまでフィーリングだが、苦手なものは苦手である。

そして灰田優という人物の特性上、機嫌が顔や態度に出やすい節がある。


普段オフィスでのイジられキャラとは正反対な態度が隠せていない。



「この辺で買うようなモンがいるのか。連れは?」

「別に私が何買ったっていいでしょ。……ひとりですけど」

「どっちもいねェのかよ使えねー」

「ちょっと、あんまり蓮さんとハルさんのこと悪く言うならお」

「んで店は? 決まってんのか」



こっちのことは一方的に聞く癖に、話を聞いてなさそうなカリンの独特なテンポに優はムッと口を噤む。

つい先程の意趣返しでもしてやろうか。

でもこういう人ってそういうことされると自分がしたことも忘れてキレてくるんだ。なんて理不尽。



「確かこっちの……なんでついてくるの?」

「連れいねェんだろうがお前」



子どもじゃあるまいし、スラムを通るわけでもないし、カリンの行動が分からなくて戸惑う。

立ち止まったままの優。早くしろと言うように鼻上にシワを作るカリン。

まあ居られて困る用事でもないし仕方ない、連れて行くか。


数メートル歩いて確認するが、やっぱり着いてくるらしいカリンに首を傾げて前を向いた。







用があるのはなんてことない日用雑貨屋。

店に入ってからこちらを確認した店員に軽く会釈しておく。

オーナーだろうか。そこそこいい年頃の男性だ。


明らかに店員は優ではなく後ろにいるカリンに目を取られていたが、彼の方がこの場所にとってもの珍しい風貌の客だっただけだろう。

それ以上のアクションはなく、客として好きに店内を見させてくれる。



「これと、これと……」



カリンも優が商品を選ぶのを邪魔はしてこない。入口付近で買い物が終わるのを待っている。

勝手についてきたとはいえ、連れてきてしまった以上あまり長い時間待たせると怒るのだろうか。

チラッと商品を選ぶフリをしながらカリンの様子を窺うが、腕を組んだまま店内を眺めているように見える。

もう少しくらい時間をかけても良さそうだ。


買い忘れがないか端末に残したメモを見たり、記憶を辿って店内の商品を見比べる。



「そろそろ自分のPCのクリーンアップもしないとなぁ。まあハードのパーツは今度別のショップで揃えよう。すみませーん、これお願いします」

「少々お待ちを。……持ち帰りますか?」

「いや、配送でお願いします」



商品を会計カウンターに乗せた。

数言ショップのスタッフとやり取りして会計を待つ。

選んだものはいつも使うテープだったりの小物類なので重量はないが、バラバラと数を買ったので部屋に送ってもらったほうが楽ちんだ。

大まかな配送先のヒアリングを受けて配送料が決まる。



「配送料込みで12,530Cです。配送先登録とお支払いでこちらにタッチを……うわっ!?」

「テメェ、もう一回やってみろ。今なら数え間違いで済ましてやる」

「な、何のことですか?」



優が支払い端末に手首を近づけようとした時、横から割り込んだカリンが端末を鷲掴みにした。

男性スタッフが目を白黒させている。

優もいつの間にか背後に居たカリンにびっくりした。終わるまで入口から動かないと思ってたのに。



「でも商品のタグ読むシステム計算だったよ。もう一回やっても同じじゃないの? 買った点数だってあってるし」

「システムだからって信用すんな。どう見ても金額合ってねェだろ足し算も出来ないのか?」

「え、待ってそんなすぐに計算出来ないんだけど」



優が端末の計算機アプリで計算しながら店内を回り、金額を確かめる。

その間、男がカリンにビビりながら顔を青くしている。



「あの、すみません、き、金額直しますから、端末をお返しいただいても宜しいでしょうか……」

「あ?」

「ひぃっ!」

「計算してきたよー、あれ本当に合わない?」

「配送料分入れたのか」



忘れてました。

カリンに最後のミスを指摘されて先程スタッフに言われた金額を足す。

相変わらず端末を保持したままのカリンからそれを取り返せない男は頭を抱えた。



「でも10,280になった。あれほんとに?」

「それが正解だ」

「うそぉ、入口から棚に書いてある金額見えてたの!?」



遠くは見えるんだよ、とカリンが鼻にシワを寄せた。

世間ではそれを老眼と呼ぶのだが、優の年齢だとその現象はちょっと当分縁がない。



「暗算が得意なんてコンピューターみたい! じゃあ、ここからここまで一個ずつ買ったらいくら?」

「めんどくせーな金額読み上げろ」

「940C、280C、1,760C、610C、770C」

「4,360C」

「はやーい! じゃあじゃあ、この棚から……」

「オメェ本当に合ってるかどうか確かめ算してんだろうな」



間違ってるつもりはないが、即答してしまうカリンのそのレスポンスに感動して解答の正誤が蔑ろにされている気がしないでもない。

こんな単純な計算が出来ただけでコンピューター扱いされるとはこれ如何に。


……某とてもすごいコンピューターさんから一部分野でもコンピューターみたいと比喩されるのはかなり希少な名誉なのだが、いつの日かカリンが彼女の能力を知る日は来るのだろうか。


オーナーも散々である。勝手に店内の商品で計算クイズが始まるわ、怖いおじさんが金額のちょろまかしに気づくわで。

だがどうも均整局に通報する様子はない。目的は何だろう。



「ったく、小売り如きがこすいぼったくりしてんじゃねェよ」

「すっ、すみません……」

「お前ここのオーナーか? ならこの店でもっと効率のいい稼ぎ方教えてやろうか」

「お師匠! この棚の足し算は難しそう!」

「桁が増えてるだけで難しかねェだろうが今別の話し中だ待ってろ!」



もとは警戒心の薄そうな客からほんの小遣い稼ぎ感覚で始めた悪事だ。案外そう大きく金額が違わなければ金額の水増しに気づく客も少ない。

だが確かに、店舗を経営する以上まとまった稼ぎがあった方が良いのはそうだ。



「一体どうやって……」

「おっと、そこからはコンサル料が発生すんぜ? なァに、支払いは1回だけだしすぐ取り返せる。難しいやり方じゃねェ。それと」



カリンがずっと握っていた支払い端末からパキ、と音がした。

端末を注視した男は口端を引き攣らせる。



「コレは悪くねェ手口だ。紹介しろよ、作った奴はどいつだ?」

「あ、あ……」



支払い端末に重ねるようにくっついていた、別の読み取り装置。

カリンが握り潰してかかった力で接着面が剥がれ分離する。

一体いつから気づいていたのか、だから離さなかったのか?



いつの間にかコンサル料という名の誠意、またの名を口止め料を搾り取る話になっていた。オーナーのくるくる変わる顔色に優は今更ながら憐れみの眼差しを送っておく。

彼はこうやってパイプを作っていくのだな、と過去引っかかってしまった自分にもオーナーにも内心で手を合わせておいた。くわばら。


というかカリンが教えてくれなければ少額とはいえぼったくりに気づかないところだった。

二重になった端末も、そういう手口があると知れてヒヤリハット案件である。カリンには感謝しなくてはならない。





「俺のお陰でお前さんの会計までタダになっちまった。良かったな」



"お話"が終わったカリンについてショップを出る。

収穫もあったようだし、ついでに恩恵を受けてしまった。これが嬉しい誤算というやつか。

誤算? 正しい計算をしたから誤算ではない? まあそこはどちらでもよくて。



「んで、さっきのお師匠ってのは何だ?」

「暗算すごく早いから、計算のお師匠。超リスペクト」

「計算もクソも慣れだよ、回数こなしゃ出来るようになる。師事するほどでもねェ」

「慣れはあるんだろうけど、もしかしてもしかするとあのコロコロついた板のおかげなのかなって! ねえあれってどう使うの?」

「あー……?」



コロコロついた板……?

カリンは優の言ったそれが本気で思い当たらなくて、髪を撫でつけるように頭に手を置く。

その動きで作務衣の懐に入れていた私物の存在を思い出した。



「これか。算盤そろばんって言うんだよ、大昔の計算機」

「計算……機?」

「電卓じゃ見えねんだよ数字が。こいつは単純だから珠さえ数えれば数字が読める」



機械の名を冠するにはどうにも原始的で。

なんなら金属パーツもない木材で出来たそれはどうしても計算"機”には見えなかった。


後で使う用事があるから暇ならこの後もついて来いとカリンは言う。

灰田優は好奇心の探求者だ。今度は彼女がカリンの連れになった。







「おいシグマァ! オメェが言ってた饅頭屋、聞いた場所と全然違ったぞどういう事だ!!」

「む? 一度立ち寄ったきりだからな。少々記憶違いはあったかもしれん。……おやこれは珍しい連れ合いだな」

「シグマさんって甘党だったのね……。お邪魔しまぁす」

「チビ助が居なかったら酒だけ買って帰って来るとこだった。感謝しろ。それよりまず俺に詫びろ」



in 隠れ家ヘアサロン。

今日はエムが仕事で出ているのでお店はクローズ。


饅頭を買ってこいとごねたシグマのお使いで出たカリンが優を見つけた、という流れだったらしい。

シグマの指定した和菓子店を目指していたが見つからず、いい加減どこに向かいたいのかを聞いた優に白状したら目的地を調べてくれたので目的が無事達成された。


では茶でも淹れるかとカリンの発言を無視して人数分のお茶の用意を始めるシグマ。

感謝しろとか詫びろとか言う割に自分の仕事を始めたカリン。

こういうものか、と二人のテンポに慣れ始めた優は構わずカリンの手元を覗いた。



「それのどこが数字になるの?」

「……始めにこれで御破算」

「破産?」

「違ェ。いや文言はいいか。とにかくこれでフラット。どの桁も0ゼロ



カリンが指を滑らせて珠を端に寄せた。

パチ、パチ、とかなりゆっくり珠を弾く。



「1、2、3、4……5」

「ん! それでそこだけ別枠かあ!」

「あとは分かるだろ。6、7、8、9、これで10」



ズズ、と茶を啜るシグマの眼前に珍しい光景が広がっている。

教えるのが苦手なカリンが随分丁寧に説明している。明日は上層街区が落ちてくるやもしれん。

……と思ったのも束の間。カリンからそれ以上の説明はなく、老眼鏡をかけて仕事を始めてしまった。

だが優の方は一生懸命カリンの手元とカリンがタブレットに表示した資料を見て追いかけている。



「お師匠待ってちょっと早い。……え、待ってもう一回」



待ってと言われたカリンはその瞬間だけ珠を弾く速度を緩め、またすぐに元の計算速度に戻る。

二、三度待てをかけられて同じように速度が緩むが、とうとう待てをかけても速度は落ちなくなった。



「うーん、数字は読めるけど足し引きになると珠乗せたりするの難しいかも」

「だろうな。これこそ慣れだ。ちなみにこの点が第一位の基準点」

「へえ、でもどこから始めても出来るよね」

「いい発想だ。それがわかってりゃもう算盤マスター出来てんぜ」



これを使った計算は慣れが必要だが、既に算盤上での数字の読み方は覚えたらしい。優の覚えの良さにカリンは素直に感嘆する。

それならカリンの珠弾きを見ていればすぐ計算も覚えられそうだ。


だが結局、パソコンを使い慣れた優にとってはそっちで計算させた方が早いという結論に落ち着いた。算盤があまりに時代錯誤なのもある。

この日を機に、優はヘアサロンに行くことに難色を示すことはなくなった。






別の日。蓮は算盤を弾くカリンと、並んで手元を覗く優を見ている。

彼女からはカリンの事が苦手だと聞いていたが、苦手な間柄の距離感ではない気がする。

首を捻る蓮の視線を追って、何となく事を把握したハルが蓮の疑問に答えてくれた。



「ちょうどいい距離感っつうの見つけたんじゃね、お互い」

「仲良くなったということか?」

「打算で人付き合いするとこあるからなアイツ等。そりゃ似たタイプが鉢合ったらやりづれーだろ」

「似たタイプ……?」



カリンと優が?

蓮には大変難しい問題だった。


算盤を弾いていたカリンが唸りながら一旦掛けていた老眼鏡を外した。

片手で目元を覆いながらついでに眉間を揉んでいる。



「あ゛ー、目ェしんどい。どれでもいいから暇してる若いの、数字読め」

「読むだけでいいの?」

「金額だから百千万もつけて読めよ、代わりに最後のCコストはいちいち読まなくていい」

「カンマついてれば読めると思う。うん、大丈夫そう」



隣にいた優が行くよーと再び老眼鏡をかけたカリンに呼びかけて、共同作業を始めた。

タブレットに並べて表示された金額を読み上げる優と算盤を弾くカリン。順調に始まった作業だが、ふと優がタブレットを訝し気に見る。



「ひゃくななじゅうご、万……? お師匠、これサロンの帳簿じゃないよね、どこの帳簿?」

「聞いて後悔すんのと聞かずに寝て忘れるならお前どっち選ぶ?」

「続けまーす。361万2千……」



世の中には開けてはいけないパンドラの箱が足元に沢山転がっているらしい。

カリンと居ると、つい出過ぎる好奇心のしまい方が学べそうな優だった。





これは完全に余談なのだが、恒例のシンデレラプレゼンツ本日のお題にて、ある日ツクヨミ情報処理部サーバーにお邪魔した際この算盤モチーフの計算問題を出題した。

全体的な正答率が異様に低かったので、某シンデレラさんは小憎たらしいドヤ顔ダブルピースでサーバーから退室していったとさ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る