トランキライザー


穢れを知らない白色。

いいや、穢れを知らないわけではない。

穢れを知って尚、拒絶し、排斥し、否定する色。

この大病院の白色はそんな風に見える。


近くに居た人の咳払いが自然と蓮の他所に逸れていた意識を寄せた。



「本日の治療は終了です。一色君は何か気になる事とかあるかい?」

「……特に何も」



そう、と暫く世話になっている担当のドクターが頷く。

40代くらいのベテランドクター、彼は精神疾患を手広く扱う。

カルテの入力をしながらほんの世間話のように蓮の現状を聞いてくる。



「最近は何か固形物口にした?」

「いや、水だけ」

「体調が良さそうなときにゼリー飲料、挑戦出来るといいね。いつまでも点滴で栄養補給なんてやれないのは君も分かってるだろう」

「……ああ」



あまり乗り気ではなさそうな蓮にドクターは苦笑いしつつ、話題を切り上げて帰宅を促した。

診察室を出る時、そうそうと呼び止められる。



「灰田ちゃんは最近どう?」

「……お気に入りのフレグランス見つけて楽しんでる。発作は、まだ偶に」

「楽しみが見つかったのはいい傾向だ。そろそろハル君にも一度来るように言ってくれるかい? 薬の調整が必要だろうから」

「わかった」





帰り道にあるコンビニで、パウチに入った清涼飲料水とゼリーを買う。

調子が良ければパウチの飲み物は飲めた。ゼリー飲料の方は滅多に食べられない。

こうして通院帰りに買って食べていないゼリー飲料が冷蔵庫に沢山入っている。


点滴で栄養補給したからか身体の調子がいい。

こんな身体だが、きちんと動いてくれるのはやはり気分もよく気持ちがいいものだ。

自分の部屋に寄って冷蔵庫に買った物をしまい、医者からの伝言を伝えるためハルの部屋を尋ねるが不在。今はどこかに出かけているのか。


であれば、と蓮はその足で優の部屋へと向かった。






寒い。

足が、手先が冷たくなっていく。

これはマズイと頭では分かっているのだが、自分の身体を俯瞰して見られるだけで一向に自分の身体にアクセスができない。

腕から、首の後ろからぞくぞくとする寒さを感じている、のに。


パニック障害なんて脳の誤作動。落ち着け。

落ち着け。言い聞かせる程に身体が自分を拒絶する。

苦しい。意識が、



「優、息しろ。ゆっくりでいい」

「はっ……は、ひゅ……」

「戻っておいで。何も考えなくていいから」



いつの間にか部屋にいた蓮がブランケットをかけてくれていた。

頭を胸につけるように抱きしめて、背中をさすってくれる。

金縛りから解けたように震える手で蓮の腕に触れる。

自分ではない彼の体温を感じられたとき、ようやく意識の剥離も取り返すことが出来た。


冷たい床に触れ続ければ冷える一方だ、とへたり込んでいた優の身体を持ち上げて蓮の脚の上に乗せてくれた。

胸に寄りかかり、いつもより温かな彼の体温を求めて額を擦り付ける。



「何か飲むか?」

「んん……、いま飲んだら吐く。から、一口だけほしい」



事前に机に置いておいた常温のボトルを手渡され、細心の注意を払いながらボトルに口をつけ、一口にも満たないくらいの水で唇を湿らせた。

蓮の体温があるおかげで回復も早いのが助かる。



「病院行ってきたの?」

「ん、点滴打ってきた。調子がいい」

「だからかぁ。蓮さん体温低いけど、温まるのは早いから今すごくぽかぽかしてる」



そうなのか、と蓮が自分の首筋に手のひらを置いて体温を確かめる。自分だけだと分かりにくいが、膝に乗せた彼女からすれば丁度欲しかった温もりなのだろう。

人肌の触れ合いがあればお互いの体温が程よいところで馴染む。



「そういえばハルが部屋に居なかった。どこにいるか知らないか」

「いないの? 昼間から出かけるなんて珍しいね」

「何もなければいいが」



ハルも体調面に不安がある。一日の中でかなりムラがあり薬を使いながら過ごしてはいるが、特に夜よりも昼間の方がトラブルが起きやすい傾向にあった。

不眠症、それに伴う諸症状。

我慢強い人だからこそ、それらの不調を認めるのにも時間がかかった。重篤化した症状からの回復は難しいもので、それが精神疾患といえるものなら尚のこと。


彼に何かあると悲しくなるし、助けが必要なら助けてあげたい。

誰も明確に口にしたことはないが、昔から三人で一緒にいるための自然な決まり事。



「通話繋がるかな」



優が彼の端末にコールしてみる。

数コール目で反応がなさそうなのでもしかして端末持ち歩いてなかったかも、と諦めようとしたタイミングで通話が繋がる。

丁度切ろうと指を動かしていたのでつい端末を取り落としそうになった。


蓮にも様子がわかるように出力をスピーカーに変える。

繋がったが聞こえてくるのは呼吸音のようなノイズだけで、肝心の本人の声が聞こえない。

ハルさん?と優が呼び掛けてようやく応答がある。



『あ゛ー、急用か?』

「ううん、待ってて迎えに行くから。GPS切らないでね」

「……調子悪そうだな」



ハルの声色に蓮が難しい顔をする。

端末越しに一言聞いただけで調子の良し悪しが分かるくらいには互いのことを理解しているのだ。優がいそいそと靴を履いて蓮を振り返る。

蓮は上着を着ずに出ようとした優の為にクローゼットから上着を取って着せてくれる。

慌てないようにしていたつもりだったがハルを迎えに行かなくてはと気持ちが逸っていたらしい。


GPSを頼りに、ハルを迎えに行く。






大通りから外れた薄暗い路地。

人目はあるに越した事はないとは分かっているが、明るさに疲れてしまった。

さっきからジリジリと止まない耳鳴りに辟易する。よく震えた端末に気づいたものだ。



「煩ェな畜生」



頭はずっと痛い気がしている。

身体の不調に無視を決め込んで目を閉じた。

さっさと帰りたいが、今は動けそうにない。

目の下にこびりついた隈は彼の明かした夜の数だけ重なっていた。


ふわりと柔らかい香りがして意識が戻る。

目を閉じて、何分経った?

少しだけ耳鳴りが治まっている。ハルは顔を上げた。



「ちょっと寝れた? 迎えに来たよ」

「……わかんね。帰るか」

「用事、済んだのか? 何かあってこの時間に外出したんだろう」



隣に優が座っていて、蓮も腕を組んで立ったまま壁に寄りかかって待ってくれていた。


用事が何だったか、パッと思い出せない。

それよりこいつら二人を外に居させるのは余り良くない。だから帰らなくては。


自分を迎えに来てくれたという要因を半ば忘却しているハルに、慣れている優は何も言わず彼に寄り添った。

蓮にも手を伸ばし、纏まって歩き出す。

逸れないように。不安にならないように。


大通りまで先導した、ハルが歩くペースを落とす。



「突っ切って平気か?」

「うん、今は大丈夫そう。ハルさんのペースでいいよ」

「止まるとまた動けなくなっから、早ェとこ帰っ……」

「こんばんは〜! 試食配ってます、良かったらどうぞ!」



夕方時。街灯に白色からオレンジが混じりだした頃合い。

通行人も徐々に捌け始めるそんな時間だ。

明るい声色でポップなエプロンを着たお姉さんが、一番手が空いてそうな三人の最後尾に居た蓮に何かを手渡す。



「っ……」

「新作です、気に入ったら是非お店にいらしてくださいね!」

「蓮、寄越せ。悪いな姉ちゃんまた来るわ」



ビニールで簡単にパッケージされた焼き菓子を渡された蓮は固まる。

ハルが奪い取って再び空いた手が胸を、もう片手が口元を押さえた。

その様子を見せないようにハルが蓮と立ち代わりお姉さんを逆方向に送り出した。



「蓮さん吐く?」

「おい、水要るか?」



道の端に寄ってしゃがみ込んだ蓮が二人の問いかけに首を振って否定する。

呼吸は浅いが、何とか自力で取り戻した蓮が咳き込みながら喉を調える。



「今は、いい。驚いたのはそうだけど、生地から染みたバターの感触が……ぐ、う」

「もう現物ねェからそんな細部思い出すなよ。今は俺も優もいんだからどっちかが食ってやれる」

「無理に食べなくたっていいんだよ」

「悪い……もう少し」



蓮が落ち着いてようやく帰路につける。





こうして三人は三人のうち誰かの部屋にたむろする。

相談するでもなく自然に。

これがいつもの三人で、かけがえない関係で、唯一安心が保証されている落ち着ける時間。



「さっきからそれなんの匂いだ?」

「どれ? あー、リリーってお花のフレグランス。最近のお気に入り」

「鎮静作用があるらしい。ハルにもいいんじゃないか」

「通りで。悪くねェな」



今回はハルの部屋。

ソファの端を陣取って映画を選ぶ蓮、冷蔵庫に飲み物を取りに行ったハル。

優が上着を脱ぐときにハルは今日時々鼻に届く匂いが彼女から香るものだと認識して尋ねる。


現物を持ってこようかと提案したが、優から香ってるくらいの今が丁度いいのだという。

香りが強すぎても刺激になってしまうのか。



「外出たし、少し横になる?」

「丁度薬入れたとこだし試してみっか」



中途半端に上着を脱いで引っ掛けた状態で、ベッドに寝転んだハルの頭側、ベッドの淵に優が座る。

それならばと蓮は大画面で映画を選ぶのを止め、タブレットとイヤホンを持って優と同じベッドサイドに座った。



「俺にも見えるように持てよ」

「休むんじゃないのか?」

「音は要らね。寝れそうだったらこのまま寝る」

「ん、蓮さんこれ見たい」



部屋はそこそこに広いのに、わざわざ三人固まって片隅で過ごす。

それぞれが抱える爆弾も三人が揃っていれば怖くない。


そうやって、依存し合って生きていく。



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