快楽のステップ
少し湿った風が頬に触れる夜。
行く道を街灯だけが照らす大人の時間に、小柄な女性が歩いていた。
肩幅に合ったサイズのジャケット、七分丈のスラックス。
彼女はそんなスマートカジュアルな服装に、履き慣れたスニーカーを合わせている。
手に持っているのはタブレットPCだけ。
身軽な格好、軽やかな足取りの彼女は迷う素振りもなく目的地に向かって進む。
彼女、灰田優が辿り着いたのは中心街からは奥まった場所にある商業街区の外れ。
看板のネオンが微睡む、パブリックハウス
扉を押した瞬間零れだすダンスミュージックのリズム。
灰田は意外と広いハウスの熱気と酒の匂いに蓋するように、中に入って扉を閉めた。
約束している人物を探す。
中央に誂えられたお立ち台で踊るパフォーマー、客のオーダーを受けるために店内を回る黒子、パフォーマンスを見ながら飲食を楽しむ客、客でも雰囲気と酒に酔って身体を揺らし楽しそうに踊る人たちもいた。
耳に入る音楽で上がる気分に身を任せて灰田もスキップ気味に、先に人が座っていたテーブルの向かいの丸椅子にお尻を乗せた。
「初めまして、ミスター。気分はどう?」
「そういうのはいい。早く始めてくれ」
「まぁまぁ焦らないで。ここの音楽とセンターのパフォーマー、それに合わせるお酒は最高でしょ?もっと楽しまなきゃ」
小さく背の高い丸テーブルで肘をついた男は、不自然なほどにソワソワと組んだ手指や脚を組み替えていた。
内心舌打ちして仕方なく灰田は持っていたタブレットPCを立ち上げる。
灰田を初めて利用する男の状態を見て声をかける。
「最近使ったのは?錠剤?」
「粉。吸った」
「へぇ、そしたら次はあんまり弱いのじゃしんどいかもね。ある程度強めで……12万コストってところかな」
「ああ、わかった」
二つ返事で了解した男に思わず灰田は片眉を上げる。
この界隈の末端価格は種類によりけりお気軽1万コストからだが、たかが一回使用分が12万コストの買い物は一般人に即決できるような金額ではないだろう。
それほどに緊急なのか、それほどまでに渇望しているのか。
まあこちらはそれが商売だが。
灰田は男の為に支払い端末を操作し金額を設定する。
「おい、
「私は持ってないよ。支払い済んだら教える場所に45分以内に行って。そしたらそこで貰えるから」
「信用出来るのか?」
「ヤダなあ、信用こそが大事な商売だよ。もし場所分からなくなったら私に連絡頂戴ね、時間内なら貴方の知ってる番号で私が出るから」
疑いの眼差しで灰田の含み笑いを見る男。
疑わしいが、選択肢はない。
なら彼女の言う信用とやらの気が変わらないうちに全てを済ませるべきだ。
ぼやけた視界と乾いた喉に苛立ちながら、腕を捲って手首を端末に押し当てた。
灰田の差し出す支払い端末が決済完了の音を鳴らして光る。
頷いた彼女はぴょんと椅子から降りて、男の耳元に唇を寄せ場所を伝えた。
「……わかった?」
「助かる。じゃあな」
「―――"お幸せに"」
もう聞いてもいない男の背に、まるで医者が気遣うような形の言葉を投げて一息。
携帯端末を弄り、必要箇所への連絡。
それらを終えてやっと灰田はこのショーパブの花形である中央のお立ち台に目を向けた。
スタイルのいい女性のストリッパー。
もう半分以上は
あのパフォーマーのファンが数人、お立ち台を囲う柵を越えようとして黒子に抑えられていた。
灰田はドリンクを貰おうとバーカウンターへ向かう。
「よォ、お嬢。来てたのか。儲けてっか?」
「こんばんは、オーナー。微妙かなぁ、最近どうも新規の入りがよくなくて」
「だろうな。犬が回ってるらしい」
バーカウンターの中で酒を作っているのは
と言っても彼は大概カウンター内で客と駄弁りサボっている。
気が向いたらオーダー通りの酒を注ぐだけ。シェークのカクテルなんかは同じくカウンター内に居るスタッフに任せている。
服装も彼だけ黒服を着ておらずいつもの和装。
オーナーなんだから好きな服でいいんだ、などと横暴な事を前に発言していた。
カリンから聞いた情報に驚く素振りはなく、灰田はカクテルをオーダーした。顔見知り特典か、カリンが自分の手元で作り始めてくれる。
「ま、暫くは大人しくしてるのが安牌だろ。……お前はそういう柄でもねェか。ほれ」
「ありがと。だってつまり、私の近くまで来てるってことでしょ?ふふ、燃えてきちゃうな」
「最近の犬ッコロは随分と優秀だぜ?手出して噛みつかれたら痛かった、じゃ済まないだろうよ。気ィつけな」
「分かってるよ。ねえ、今日はあの人
灰田用に甘口のジンジャエールで作る。
ライムがフチに飾られたモスコミュールを受け取って情報交換も程々に、喜々として今日のショーのタイムテーブルを聞く。
カリンは今日同じ質問を何度もされているようだ。呆れたような表情で鼻を鳴らす。
「流石、うちの看板の格は違うな。
カリンが目線を投げた先、軽々と柵を越えて先の女性スタッフと交代する男。
金髪、特徴的な褐色肌に今日の衣装はセパレートのボンテージ、最初から露出多めのスタイルでお立ち台に上った瞬間。
ドッ、とハウスのフロアが一瞬揺れるほどに歓声が沸き立つ。
音楽が始まれば普段のざわざわした音量に戻るが、それでも誰もが少し浮かれた気分を顔に乗せてステージを見ていた。
「何してもキメてくるよね、ほんとにカッコイイ人」
「これからだろ。テーブル行きな、そっちのがよく見える」
「うん。お酒ありがとう」
グラスを持ったまま空いているテーブルを探す。
偶然見つけた空きテーブルに滑り込み、HARUKAのパフォーマンスに意識を向けた。
太くてゴツいエナメルの首輪に無機質な冷たい鎖が繋がっている。
ステージ中央には天井まで伸びるポール。
さっきのスタッフはこれを使わなかったが、おかげで自分のパフォーマンスが活きるのだと
ポールに首輪の鎖が繋がる先を自ら引っ掛ける。
HARUKAの一挙手一投足に
煌々と照りつけるスポットライトは彼だけを照らしていた。
リズミカルなヒップホップに合わせて自由自在にポールの周りを回り、
彼こそ、たった数ヶ月の間にこのハウスでナンバーワンに君臨した男。
古参も新規も、女性はおろか男性客さえ虜にさせる存在感。
パフォーマンスに興味がなかった客でも、HARUKAのショーを一目でも見れば惹き込まれる。そんな魅力が彼にはあるのだ。
1mもない短さの鎖の範囲で、まるで鎖の束縛など意にも介さず自由に踊る。
それでも時折、手や首でビンと鎖を引っ張り、一身の不自由を皮肉るように織り交ぜた。
人離れした柔軟さは彼の特技だが、ポールに巻き付き難しい体勢でのポーズを決める時の表情はどれも苦しみとは無縁。
煽情、蠱惑、刹那、愉悦。
どこかセクシーなエロスを孕んだパフォーマンスのスタイルは、見ている人に極上の時間を約束する。
パフォーマンスに見入っていると灰田の視界の端、自分のテーブルに誰かがそっとグラスを置いた。
「……テーブル、ご一緒してもいいだろうか」
「どうぞ、素敵なお兄さん」
「ありがとう」
ガタイのいい高身長の男が遠慮がちに声を掛ける。
灰田はよほど変テコな人物でなければ相席は歓迎派だ。こういう店だからこそ、交流も深まるというもの。
だが今はHARUKAのパフォーマンスから目を離す隙がない。
席についた男も灰田の視線を追って、お立ち台へと目を向けた。
パフォーマーには大体3曲分の尺が用意されている。
今HARUKAが踊っているのは3曲目の終盤。全てが最も盛り上がる部分。
この頃になれば例外なくどの客も彼のパフォーマンスに釘付けで、スタッフの黒子でさえも壁際からお立ち台を眺め手を止めている。
ポールを回りながら天井近くまで上っていく。
しかも、徐々に首と繋がる鎖に絡まりながら。
それ以上絡まったらいくらなんでも自由が利かなくて危ない、と客がハラハラしながら見守る中。
掛かっている曲がとうとうフェードアウトして終幕に向かう。
曲の終いを惜しむように、身体に絡まった鎖の間から腕を伸ばす様子はある種のストーリーを感じさせた。
音楽が止まる瞬間、とうとう鎖に絡まった身体がポールを滑り落ちる。
何人もの客がヒュッと息を呑む音が聞こえた。
……が、フロアに衝突する直前にピタッとHARUKAが静止する。
ここまでが彼のパフォーマンスだった、と分かればハウス中が安堵し一気に称賛の拍手や口笛に包まれた。
「今の……緊張した?」
「うん。彼のパフォーマンスはもう何度も見てるけど、いつの間にか夢中になっちゃう。それに魅せ方がすごく上手いから、いつも初めて見る感じがするの」
「分かる。俺もつい見入ってた」
「お兄さんは今日初めて?」
HARUKAのパフォーマンスが終わって目の前のお兄さんとようやく話が出来る。
彼も見入っていたようだし、暇にさせていたということはないだろう。
「ここに来るのは初めてだ。知ってはいたが、中々来られなくてな。蓮。……俺の名前」
「蓮さん。素敵な名前だね。私は灰田優。乾杯しようよ」
「乾杯」
「かんぱーい」
パフォーマンスに見入っていたおかげでお互いのグラスはぐっしょりと汗をかいていた。
ポタポタと落ちる水滴さえ楽しみながら2人はグラスを合わせる。
これが、蓮と灰田の出会いだった。
昼間のオフィスで、蓮は目の前に投影して並べた資料を見て眉間を揉んでいた。
着ているスーツのジャケットの襟には厚生局の掲げる花をかたどったピンがついている。
資料にはカラフルな錠剤、白い粉、結晶のようなもの、押収した注射器。
人が話しているシーン、どこかの店構えを撮った画像もあった。
そして先日相対した灰田優の調査資料。
「おーい、蓮。ンなに眉間にシワ寄せてると取れなくなんぞ」
「……ハル」
思考を煮詰めすぎて空気を悪くさせている蓮に声がかかる。
顔を上げれば使い捨てカップのコーヒーが机に置かれる。蓮は資料の表示を消してコーヒーを手に取った。
蓮の横でデスクに寄りかかりながら彼も自分のコーヒーを傾ける。
腕まくりしたワイシャツとスラックス。ジャケットは席にでも置いてきたのか着ていない見慣れた格好。
このハルと夜にパブリックハウスで踊るHARUKAは同一人物だ。
課は違えど、二人の本当の姿はこちら側。
蓮は違法薬物の取り締まりを。ハルは凶悪犯罪対応を。
細部まで法の行き届かない國の治安、均衡を保つために、四六時中目を光らせるのが機関の活動だ。
「この件だけに時間をかけても居られないんだがな」
「しゃーねーだろ、今回の案件は久しぶりにデカいんだ。俺様が何ヶ月前から頑張ってあの店入ってトップパフォーマーにまでのし上がったと思ってやがる?」
「……分かってる。ミスは出来ない」
始めは別々に調査を進めていたものの、偶然にも重なるものが多く、今では悪事を暴こうと協力関係を築いている。
蓮は再び、灰田優などの人物ファイルの表示を起こす。
罪を問えばそれぞれ程度も種類も違うが、軒並みこうした犯罪者があのハウスを出入りしているのは確認している。
纏めて検挙できれば十分な手柄になる。だからこそ入念に準備をした上で実行のフェイズに移さねばならない。
「ようやく接触まで来た。違法ドラッグの界隈で最重要ラインが彼女なのは間違いない。彼女さえ押さえればあのエリアの取引の8割は潰せる」
灰田優。投資家とドラッグの卸売倉庫を繋いだり、エンドユーザーと販売窓口を安全に繋ぐなど上から下まで顔が利くドラッグの大口ブローカー。
まるでソロプレイのような立ち回りをしているが、そんな筈はない。
絶対に彼女のバックには大きな組織がいる。
彼女を調査して辿り着いた、カリンがオーナーを務める8-HEAVEN。
怪しいと睨んでいるが、まだこの関係性は詰め切れていない。だからハルと協力している。
順調そうな相方に口角を上げるハル。
順調とはいえ灰田優に接触できたのは本当にようやくのことだ。この先はまだまだ長い戦いになることは心得ている。
蓮は静かにカップを置いたハルに問う。
「そっちの進捗は?」
「何もない」
「……何も?ハルがここまでして何も見つからないとは……」
「なさすぎるんだよ、白すぎる。普通ああいう夜の店には大なり小なりあるはずだろ、グレーの慣習ってやつが。それすら、あの店にはない」
じっくりと時間をかけて、不審に思われないように他のスタッフの動向や内部のコストの流れを調査してきた。
結論、あり得ないほどの潔白。
それが逆に何かあるとハルの経験と勘が訴えていた。
「その灰田とかいうお嬢ちゃんと店の関係は俺も知っておきたいし、もっと念入りに見ていかねーとなァ」
「今夜も踊るんだろう、今のうちに休んでおかなくて平気か?」
「ハッ、余裕だぜ。お前を抱いてからでもイケるくらい」
手が肩に置かれ、耳元でハルが囁いた。
そういう話を自分相手にされるのが珍しく、よく話すハルでも蓮は少しの間固まった。
揶揄われているのか。少し考えて、首を傾げてみせる。
「俺が抱かれる方なのか?」
「お?そう来るか。言うねェお客サン」
「ハル、あの店に入って感化されすぎてるだろう。……今度にしろ」
今度はハルが固まる番。
誰しもがハルに対して表面的な性格や喋り口から軽薄なイメージを持っているので、そういうやり取りをしても本気にはされずに流してもらえる。
今度にしろ、なんて蓮にしてはあまりにも珍しい返答の仕方で意表を突かれて固まったハル。蓮は肩に置かれた手を滑り落として席を立つ。
振り向いた蓮の上向きの口角に、一杯食わされたと気づいたハルはバツが悪そうに頭を掻いた。
----------------------------------------------続く……かも
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