パラレル・IF・他世界線
秘蜜―黒の誓い(パロディ)
傷つきすぎた。少し、休憩してから帰ろう。
黄昏時。燃えるような橙色に染められた世界で、一色蓮は木に凭れながらその身を抱いた。
背には大きく白い羽根が畳まれ、羽毛の流れが乱れ細かな傷がついている。
いわゆる、天使と呼ばれる存在。
汚れの浄化に少し手間取った。このまま天界に戻るのは汚れを聖域に持ち込みそうで気が引ける。
せめて傷は癒していきたい。一日もあれば治るだろうが、近頃悪魔や汚れの浄化の仕事が増えている。なるべく早く治したい。
そう思って、近くの小さな教会に入り込む。
教会には少なからず人々の信仰が積まれており、それが天使や神仏の糧となる場所。
入り込んだその場所で、たった一人。
ステンドグラスから降り注ぐ夕日を浴びる、黒いウェディングドレスを纏った女。
それまで微動だにしなかった彼女が、こちらを振り向く。
夜空と同じ
色付きの硝子に曲げられた光は、それでも尚私を刺そうと降り注ぐ。
家に縛られ、人に縛られ、決まりに、期待に、あらゆる全てに縛られた、灰田優。
顔もぼんやりとしか思い出せない、そんな男との婚儀を明日に控え、儀式だとか訳の分からない決まりに従って、こんなちっぽけな教会で、可愛くもない真っ黒なドレスを着せられて一人、ずっと太陽の光を浴びている。
そんなに私を焼きたいならいっそ殺せるほどの熱量を浴びせてほしい。
昼にそう思ったきり、それ以上何を考えるでもなく用意された椅子に座っていればいつの間にか日の色はオレンジへと変わっていた。
明日まで誰も来ない筈の教会の扉が開く。
動くなと言われた縛りを律儀に守っていたが、今日来るとすれば身内ではないからと好奇心に従い扉を振り向く。
背の高い、大きな白い羽根を背負った男。どこか疲れを浮かべた表情で、儚いような、すぐそこにいるのに消えてしまいそうな雰囲気を纏っている彼。
そっと微笑を形作った彼を見て、生まれて初めて心が動いた。
「……まだ、そんな古いまじない続けている人間がいたんだな」
「……貴方は、」
「喋るな。喉を傷める。……朝から水も口にしていないだろう」
言われた通り、口を噤む。昔からことあるごとに意味も分からないしきたりに従ってきたのだ。断食だってゲテモノ食だって経験している。
一日程度の絶食などで動けなくなるほど脆弱な身体ではない。
―そんなにも大きな羽根を持つ天使さまが、こんな小さな教会にどうして?
「……休憩。人がいたことに気づかなかったのは謝る」
―怪我してるじゃないですか。…痛い?
「ここに居て少しすれば治る」
言葉を想えばそれが聞こえているかのように返してくれる。
天使の地位などはわからないが、羽根が大きくなればなるほど力の強い天使だと聞いたことがある。
そんな彼が傷を癒すにはこの教会は小さすぎるだろう。
ほぼ一日動かなかった足に気をつけて、教会の長椅子に腰掛ける彼の元に向かう。
儀式の最中とはいえさっき動いてしまったのだ。どうせもういくら動こうとこの儀式は無効だろう。
手を胸の前で組み、直接祈りを捧ぐ。
背もたれに肘を置いたまま、彼は優のやろうとしていることを察して甘んじて受け入れた。
個から個へ、直接捧げられた祈祷が傷を癒していく。
気が巡る。蓮は彼女の心を覗く。
彼女の気持ちが何よりも温かで、戦いで荒んだ心をなだらかに整える。
ふらりと傾いた優の身体を抱きとめる。つい心地よくて彼女からの祈りを受け取りすぎた。
体力の低下している彼女には少し消耗がきつかっただろう。
蓮は宙から小ぶりなリンゴを取り出し彼女に差し出した。
「……食べるか?」
彼女はその問いに戸惑いを浮かべる。
そのリンゴは、天界の食べ物だ。人間が口にしていいモノではない。
たった一言の問いに含まれた様々な意味を彼の眼差しから読み取る。
恋に落ちた天使は、彼女を愛する為だけにその白い心を捨て目の前の果実に齧り付く。
恋に落ちた人間は、彼を愛する為だけにその黒い契りを脱ぎ目の前の果実を貪った。
互いが互いを愛する為に、二人はあらゆる全てを裏切った。
星の見える丘で、蓮は人間界用に隠していた羽根を出現させる。整えるように触りながら肩を回し内心溜息をついた。
日を追うごとに、羽根が重くなっている。
普通は天界に帰り、川の水で洗うのだ。人間界にずっと留まれば留まるほど、比例して重くなっていくのは当たり前。
やがて、本当に飛べなくなる。
「蓮さん、……つらい?」
「……優がいるから、幸せ」
この言葉に偽りはない。彼女が笑ってくれるから、この羽根の重みも忘れていられる。
本当にひとつになれたらいいのに。そう思って彼女の身体を腕の中に閉じ込める。
きつく抱きしめればぎゅっと抱き返してくれる彼女が愛おしかった。
自分の事を痛々しいほど大切にしてくれる彼にどこか懐かしさを感じる。
何故こんなにも愛おしいのか、考えることすら辞めた。
もう休もう、と勝手に使うログハウスの中へと誘う。
互いの熱を奪い合うように身体を重ねる。
彼の腕の中で微睡めばすぐに眠りの世界へと落ちることができた。
眠る彼女の頬を撫でてそっと寝床から抜け出す。
ようやく出てきた月明りに照らされる丘に再び立ち、蓮は近くの木を見上げた。
羽根のあるシルエット、同じ天使。顔見知りだ。
腕を組んで蓮を見下ろす彼が口を開く。
「貴方ともあろう方が、堕天することもあるんですね」
「……ジノ」
「僕の名前を呼ばないでください。…ハルさんが怒りますよ」
ハルは蓮の直属の部下だ。確かに彼の性格なら真っ先にキレる事は容易に想像がつく。
だが仲間を捨てても今の選択に後悔していない自分がここに居る。
今ならまだ、贖罪した上で天界に戻れることをジノは伝えにきたのだろう。
だから彼に蓮は言う。
「……俺は、戻らない」
「ええ、でしょうね。…僕は、見たままを報告するだけですから」
侮蔑の眼差しで蓮を一瞬見たジノは、羽根を広げ軽々と飛び立ち天界へと帰る。
来るべき時が来た。それだけ。
蓮は重たい羽根をしまい、再び優を抱いて眠る。
毎日、毎晩、後悔する間もないほどに彼女を愛し、愛されて抱きしめて眠る。
愛せば愛すほど重くなる羽根。それが至高の幸せだった。
ある日、蓮は夢を見る。
優を失う夢。目の前で冷たくなる身体。光を失う、蓮が好きな瞳。
あまりの衝撃的な内容に、水から顔を出して酸素を求めるヒトのように起き上がり深い呼吸を繰り返す。
急に起き上がった蓮を心配するように身体を起こした優を、きつく、きつく抱きしめる。
何も言わずに背を撫でてくれる彼女。彼女の罪は、自分の罪だ。
靴も履かずに彼女を横抱きにしたまま、外へと連れ出した。
「蓮さん、どこに行くの?」
「……一緒ならどこへでも」
答えになっていない応答。それが当たり前のように優も前を向く。
ふわふわとした草の上に素足のまま下ろした。
彼女の髪を一度撫でた蓮が、今まで来た道を振り返る。
「……出世したな、ハル」
「……蓮。自分が何してるかわかってんのか」
蓮でさえ数度しか袖を通したことのない白装束。銀糸の刺繍が織りなす聖なる紋様。
それは天使が裁きの日に纏う衣。
且つて自分が手塩にかけた相棒が直々に来てくれるとは、あちらも粋な計らいをするものだ。
蓮は宙から剣を引き抜く。ハルも同じように自分の剣を構えた。
瞬間、視界から消えたハルを追って横に剣を振り抜く。
蓮の剣を防いで掻い潜りその柄で脇腹を殴る。
折れた身体に追撃するように回し蹴りを見舞えば腕で防がれるが、遅い。
すぐさま突き出した剣に蓮の頬の皮膚が裂ける。
「わからねェか!?お前の羽根はもう堕ちた、その薄汚れた羽根じゃなァ!俺の速さには追いつけねェんだよ!!」
「……今日はよく喋る。舌噛むぞ」
わざと焚き付けるように挑発する蓮。何一つとして有効な傷を与えていないのに、どことなく満足そうな顔をしているそれが腹立たしい。
この真面目な男が、どうして人間に。後ろで祈るように手を組む女を睨む。
ハルは万が一、蓮がやむを得ない罠にかかっているならばと一縷の望みをかけて来たのだ。
だが、そんな様子は微塵もない。ジノの報告そのままだった。
蓮は、あの女を心から愛していた。
それも禁忌を侵し、堕天するほどに。
堕ちた天使は世界に害することはあっても、利することはない。
故にすべからく、堕天使は討たねばならない。
頭の悪い男ではないのだ、全てを知ったうえでの行動。
…あの女さえ、居なければ。
朝見た夢がフラッシュバックする。
何度も受けた打撃や斬撃でもう剣が振れる状態ではないが、それでも背負った罪を下ろす訳にはいかない。
ハルが宙から新たに雷の槍を引き抜く。
裁きの雷。投げられたその矛先は蓮ではなく、優。
「蓮、さん」
「……よかった、間に合った」
「テメェッ…!」
その雷は間に割り込んだ蓮の胸を貫く。
大きな羽を広げ、全てを包むように彼女を抱きしめた。
助けられたことに酷く安堵した顔で、大切そうに彼女の額に口づけを落とす。
―また会える
蓮は彼女の記憶を持ち去り、消失する。
ハッとした優が、その場に落ちていた一枚の羽を拾う。
どうしてだろうか。胸が痛むような、それでいて落ち着くような。
甘く、切ない、そんな気がした。
羽を胸に抱き、その場で蹲った彼女を三人の影が見下ろす。
「あの子の記憶、持ってかれちゃったね。人間の方は裁かないの?」
「どうすんだ、ハル。あの子が居たら、蓮の魂はまた…」
虎丸とシオンが、苛立ったハルに声を掛ける。
二人に言われていることも分かっている。
吐き捨てるように呟いて、ハルは天界へと羽ばたいた。
「うっせぇな。蓮が助けたんだよ、……バカなヤツ」
小さな教会で、一人佇む黒いドレスを着た女。
ステンドグラスに染められた光に照らされた彼女は、扉の開く音に振り向いた。
「……まだ、そんな古いまじない続けている人間がいたんだな」
「……貴方は、」
彼の背に、白い羽根はあっただろうか?
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