We Are "LOSERS"
商業街区、大通りからいくつか入った人通りの少ない路地。
ハサミの絵と店の名前が描かれた看板を、片足を失い車椅子に座った初老の男が見上げていた。
物思いに耽るような表情だが、心のうちは本人にしか知れぬこと。
そんな彼の様子を見に来たか、掃除道具の霧吹きを手にしたまま、同じ年頃のゆるく甚平を纏う男が店から出て来る。
車椅子の男に並んで彼の目線を追い、シックな雰囲気の看板を見上げた。
店からもう一人、カツカツとヒールを踏み鳴らし綺麗に化粧を施した男が追って出て来た。
彼も二人を真似るように並んで立つ。
車椅子の男が徐に口を開いた。
「以前から気になっていたのだが、何故この店名なのだ?」
ぽつり、と宙に浮いた質問。
唇をルージュで彩った男が腕を組み、自身の顎に指で触れて小首を傾げ答える。
「さあ、深く気にしたことなかったけど、気づいたらこうだったのよ?イイじゃない、なんだかアタシたちにはしっくり来るわ」
アタシたち、と一纏めにされたことに甚平の男は少々納得のいかなそうな顔をした。
小指の第二関節から先が失われている左手で、前髪の生え際から髪を後ろに撫でつける。
「俺は負けたつもりねェんだけどなあ……」
穏やかな一日。繰り返される日常。
その傍らで、今日もつつがなく営業を開始する。
三人は店の中へ入っていった。
この店の名は、"ヘアサロン
割と築年数の経過している空きテナントをリノベーションして作られたヘアサロン。
ここ最近環境問題や政治的事情も相まって中古建築をリノベーションやリフォームをして住居にしたり、店舗を開業したりがブームとなりつつある。
だがこのヘアサロンはそれより前からあるお店。
灰田優は、このヘアサロンを縁あって昔から利用している。
トリートメントを髪に馴染ませるための待ち時間。
サービスで出されたコーヒーのカップを両手で包みながら、鏡越しに背後で繰り広げられる争いを見守っていた。
「テメェ売上を道具に使い込みすぎだっつってんだろが、道具代は月に10万まで!まだ月が変わって日も経ってないのに一昨日7万も落ちてんぞ何買いやがった!!」
「あらちょっと待って思い出すわ、何だったかしら」
裏で帳簿をつけていた時に見つけた衝撃の出費に、犯人を問い詰めるため思わず表に出てきた甚平を着る初老の男、カリン。
かけている老眼鏡の鼻当て部分が、顔をしかめる時に出来る目頭と鼻上のシワにめり込んでいる。痛くないのだろうか。
百獣の王が如く吠える男に怯える様子もなく、マイペースに記憶を辿るのはアイラインを美しく跳ね上げ女性顔負けの化粧を自らに施すヘアサロンのオーナー、エム。
最近のヘアスタイルは深く濃いダークネイビーの落ち着いた色で、アシンメトリーのショートヘア。近頃お気に入りのリップカラーはアメリカンチェリーカラー。
オシャレ目的で色んな指に嵌められた指輪がエムの長く綺麗な手指を引き立てる。
思い出すようにトントンと叩かれるカウンター。
やがて彼は表情を明るくして手を合わせた。
「思い出した!ヘビロテしてるカット用のシザーブランドから新作モデルが出たのよ!気づいたら買ってたわ、ほらこれ」
「まだ今月発注した消耗品の経費も払ってないんだぞちゃんと考えてんのか?あ?」
「だって、いい仕上げのためにはいい道具が必要なのよ?分かるでしょ?」
「アンタのこだわりは分かる。だが毎月毎月予算超えて使いやがって、何でテメェが決めたことが守れないんだガキじゃあるめェし!」
言い合いながら二人の世界に没入していくカリンとエム。
その二人に、今まで部屋の隅で静かにしていたもう一人の車椅子の男が窘めようと口を開いた。
「お前たち、朝から騒々しいぞ。コーヒーに埃が入る」
「「ちょっと黙ってろ/て!?」」
絶妙にタイミングが悪かったようだ。
言い合いを止めようとして失敗した車椅子の男、シグマ。
それ以上何を言うでもなく、コーヒーを口に含んで部屋の隅に置かれていた機械に向き直る。
以前、國が余興として主催した様々な戦士を集めた御前試合。
そのイベントを利用して國中を相手取り、皆殺しにすると宣言した凶悪犯。
結果として雷術師、剣聖シグマの行動は國の歴史に深い傷痕を残した。
天使教団の秘匿、天使たちの檻にて討伐作戦は決行。
その後、作戦の結果は世間一般にはシグマを討伐完了として公表され、在りし日の平穏が取り戻されたとされている。
だが、報道とは時に史実をひた隠し、情勢を操り、民を欺く有力な手段となり得る。
凶悪犯シグマ、その協力者カリン。
灰田さえ詳しく二人の心境の変遷、移り変わりを解析する事は不可能。
しかし、
彼らがこの店に居着いた事情は、
誠に不本意ながら、
微塵も彼らの存命の事実など知りたくもなかったのだが、
奇跡的に知ってしまった出来事があった。
灰田はその鮮烈な記憶を昨日のことのように思い起こす。
仕事中、視界にちらつく前髪が無性に気になるこの頃。
夜シャワーを浴びて乾かす時も、ドライヤーに時間がかかるようになってきた。
いい加減切りに行かないとな、とは思うものの、先に済ませておきたいことも多く後回しになりがちだったある日。
「ルビーチョコレートのケーキかぁ、絶対美味しいよね。よし、丁度いいし次の休みにでも……ん?エムさんだ。なんだろ?」
仕事の合間のちょっとした休憩で、お気に入りのケーキショップから新作の予告を見て気分が上がる。
端末をしまおうとした時にもう一つ、タイミングよくメッセージ通知が来て開く。
"アナタいい加減髪邪魔になってるでしょ!週末お店にいらっしゃい"
お店というのは、メッセージをくれたエムという人のヘアサロン。
文章の最後につけられたハートマークと、タイミングのいい内容に灰田の喉がヒュッと鳴る。
これを無視すると大変だ。会えなくて寂しかったなどという理由で
という事でようやくヘアサロン
木材を上手に使ってシックな雰囲気で纏められている内装。大通りから少し入った場所の隠れ家サロン。
エムの個人経営で小さくひっそりと営業するサロンは、来る人の年齢を問わず温かく迎え入れてくれる。
扉を押せば、チリンと可愛らしい鈴の音が灰田の入店を伝えた。
「いらっしゃい、待ってたわよ~。あらやっぱりアナタ、こんなにほったらかしにして!いつも可愛くしてなきゃヤる気出ないでしょ」
「ゴメンってば。エムさんに紹介したいお店見つけたからそれで許して」
「フフッ、優ちゃんの教えてくれるお店はどこも美味しいから安心できるわぁ」
鏡の前の椅子に案内される。
座った灰田の肩にタオルをかけて、落ちた髪の毛から服を守るマントを重ねる。
エムが髪に触りながら鏡に映った灰田を見た。
「新しいヘアオイル入れたのよ、使っちゃおうかしら。きっと蓮くんも好きな香りよ」
「匂いの好みは聞いたことない。あるのかな、好き嫌いとか」
「優ちゃんから香る匂いなら全部大好きに決まってるでしょ~。ケイちゃん、昨日入れたヘアオイル開けておいてちょうだい」
ちゃんとお迎え呼んでおくのよ、とエムが施術の道具の準備を始めた。
前に子供じゃないんだし一人で帰れるよと返したところ、そういう問題ではないと窘められた。
エム曰く、可愛くなったら一番に見てもらうべきだとか何とか言っていた。
男としても一番に見ることでどうのこうの……らしい。
実際、蓮もオフの日であれば呼ぶと必ず迎えに来てくれるのでそういうものなのだろうかと一人納得したことにしている。
蓮に直接聞くのは恥ずかしくて聞けていない。
それじゃ、と早速ダッカールでブロック分けした髪にハサミを入れていく。
日常の話題や軽い愚痴、困りごとや相談などの途切れない会話を広げてくれるのは流石プロ。
エムはヘアサロンだけではなく、モデルや女優のトータルスタイリングも担当しているカリスマ美容師。どちらかというとそっちが本業で、このヘアサロンが息抜きらしい。
切ってもらってる最中、灰田はふと疑問が湧く。
「ねぇエムさん、いつも何も聞かないで同じ髪型にしてくれてるけどなんで?」
「あら、他にやってみたいスタイルとかあるの?」
「特にないけど、他のお客さんには聞くんでしょ?」
「モチロン。でもアナタのショートボブは初めて見た時からピンと来たのよ。モデルがあるわ、持ってきてあげる」
カットを中断してカウンターに入るエム。
モデルを持ってくる?と首を傾げていたが、戻ってきたエムが鏡の前にかなり年季の入った木製人形を置いた。
円筒に楕円が乗せられただけの簡単な形状。
顔と髪がペイントされたそれは、エムが昔古物商に遊びに行ったときに一目惚れしたのだという。
「このお人形さん超キュートじゃない!?まあるいお顔に直線的な髪型!アナタも丸顔だし似合うと思ったのよ~」
「…………これって、なに……?」
「こけし、って言うらしいわよ。すっごく昔のお土産ね」
「初めて見た……」
何とも形容しがたい顔をしているこけし。
ドット絵とはまた違う味というか、ヒノモトの歴史や物品を置いている博物館とかにありそうなものだ。
何か入れ物になったりとか、そういう機能が一切ない。本当にただの置物。重り?
可愛い、という感性はどうしてもこけしの顔を見ていて湧きそうにない。
灰田はこけしの写真を撮って蓮とハルのグループチャットに送ってみた。
"私の髪型、こけしとお揃いなんだって"
"何に使う物なのか想像がつかない"
"夜とか化けて出てきそうな人形だな"
昔の人もこれを可愛いと思っていたのだろうか。
そっとこけしを元の場所に戻しておいた。南無。
そうこうしている間に早くも大まかにいつもの髪型であるショートボブの原型が出来上がる。
前下がりで顎のラインで直線的に揃った毛先。邪魔だった前髪も眉の下で揃えられている。
なるほど、確かにこけしをリスペクトしたモチーフ。
「さ、流しに行きましょ」
「私、エムさんにシャンプーしてほしいなぁ」
「あら、いつの間にこの子はおねだりなんて覚えたのかしら。そんな風に言われたらアタシがやるしかないじゃない」
「だってエムさんが一番気持ちいいんだもん」
これから頭を流すというのに、ニコニコと上機嫌で座ったままの灰田。
エムは彼女を置いてシャンプー台へと向かった。
自分の手にシャワーをかけて温度を確かめる。
熱すぎず冷たすぎず、お湯が丁度いい温度であることを確かめてエムはシャワーヘッドをシャンプー台の外へと向けた。
お湯が床を濡らしてしまう……事はなく、エムの空中に添えるように出されている手から少し浮いたところでお湯は集約し、塊になって宙へと浮いている。
一切零れることなく球体となった、十分な大きさの水の塊をエムが連れだって灰田の背後に立つ。
「それじゃ、やるわよ~」
「わぁい。お願いしまーす」
トプ、と水の塊が灰田の頭、髪の毛を包む。
揉むように形を変える水の塊。灰田は気持ちよさそうに目を閉じていた。
エムは手を触れていないが、これは彼の力によるもの。
エムがサイコだからこそ出来る芸当だ。
「エムさんの魔法でシャンプー、楽しいし大好きー」
「アナタだけだわぁ、そういう風に言ってくれるの。だから特別よ?ハイ、おしまい」
世間的に、サイコとしての力をこうして一般的な職に役立てているのは少しばかり"猟奇的"な光景だということ。
この行為は、彼らの信頼の上で関係が成り立っているのだ、ということだけ記しておく。
エムが髪を覆っていた水を持ち上げて、濡れた髪にタオルを被せ水気を拭き取る。
大まかにタオルドライが完了すれば、使った水をシャンプー台に流しに離れた。
チリン、と店の扉の鈴が来客を知らせる。
「いらっしゃ〜い。あら、ロマンスグレーのステキなオジサマコンビ!アタシ好みだわぁ。今日はカットかしら?さぁ中に入って!」
扉の一番近くにいたエムが新たな客を受け入れる。
エムは記憶力もいいので一度来た客はしっかり覚えているタイプ。なので反応からしてご新規さんのようだ。
その間に灰田はアシスタントのケイが淹れてくれたコーヒーを戴く。
「ケイちゃん、二人分のカット用意お願い。ジェイくん、お客さま車椅子だから椅子ひとつ退かしてちょうだい。こちらにどうぞ~先にこっち仕上げちゃうから、当店自慢のコーヒーでも召し上がって待ってて~」
「シグマって髪型いつもどうしてんだ?」
「決まっていない。坊主でよくないか?面倒だ」
「オメェ、ガキじゃあるめーしそれは止めろよ……」
「ブッ!?ゴホ、えっふ」
鏡に映った初老コンビに思わず灰田はコーヒーで噎せる。
灰田は過ぎ去りし件の騒動、その報告書は全てに目を通している。
それは天使教団が纏めたものも例外ではない。
彼らの報告は部分によって曖昧にされるところはあれど、部外者への言及は冷厳さを感じるほど明瞭な書き方だった。
そこは紛うことなき事実であろうと、國もその報告を受理している。
報告では地上へ流れた天使たちの処理も完了、出てくる人間は居なかったと報告された。
シグマとカリン。
まさかこの二人が再び天使教団の力を借りて脱出したとも思えない。
天使たちの檻へ落ちた二人がNWK汚染の薄い道を通り脱出したというのか?負傷した状態で?一体どれだけの日数をかけて?
心臓が暴れる。手汗が酷い。
緊張で細くなった呼吸には誰も気づかない。
エムがドライヤーを手にして灰田の髪を仕上げるために後ろに立った。
「あら優ちゃん、顔色悪いんじゃない?」
「だっ、大丈夫……」
「そう?乾かしたら最後整えて終わりね」
これが蓮やハルだったら問題だったかもしれないが、灰田は彼らと直接顔を合わせた訳じゃない。
怪しまれなければ一般人だ、この場だけやり過ごせればいい。
大丈夫、それは灰田優の得意分野だ。
ドライヤーの温風が軽くなった髪の毛の間を通り乾かしていく。
エムの鼻歌に心を落ち着かせて、もうすぐ着くらしい蓮に外で待つようメッセージを返す。
だが、乾かしている最中に照明やドライヤーなど店内の電気系統が静かに力尽きる。
「やだぁ、今月は多いわねぇ。ごめんなさい、この辺り電力供給は非重点措置エリアだからたまに止まっちゃうのよ」
「へェ、大変だなァ。シグマ、コンセントになってやれよ」
「無理を言うなカリン。電圧の違いで家電を壊しかねん。直接の供給は無理だ」
「あらシグマちゃんはサイコなの?アタシもお揃い!」
薄暗い中でも動じることなく談笑を続ける三人。
電気が復旧するまでの明かりとしてアシスタントのジェイとケイがいくつかロウソクを灯してくれたので、中々雰囲気のあるサロンになっていた。
デミ・サイコだと答えたシグマを、サイコ仲間としてエムは気に入ったらしい。
少し考えたシグマがエムに提案する。
「電力を溜めておく機械があるだろう。そういうものに変圧器を介してなら力は貸せるが」
「バッテリーの事?お店は結構電力使うから、おっきいのじゃないと。ああいうの高いのよねぇコスト」
「値が張るのか、ふむ……。カリン」
「あ?何、シグマ、……協力すんの?」
カリンの声のトーンが急に下がる。
不機嫌の滲んだ声色の変化に、関係ない灰田が冷や汗をかく。
言外に深く関わりたくないと態度で示すカリン。それでもシグマがもう一度カリンの名前を呼ぶ。
やがてカリンが溜息と舌打ちをして折れた。
「お前さー、これからやらなきゃいけない事も多いってのに……ったく」
「時間はある。ならこの程度の道草も悪くなかろうて」
「デカいバッテリーねェ。I.P.E.が下層に支援用で卸してるのとかイイんじゃね?そういや貸しあるヤツ居ンだよな俺」
ぶわ、と灰田が猫のように毛を逆立てる。
せっかくカリンの雰囲気が和らいだというのに、別方向から飛んできた危険に気が休まらない。
あれは作戦の第一段階でハルがシグマを追い立て誘導している時。
傍らで蓮がカリンに絡まれた、その応酬の最中の話。
暁日のカリン、彼の処遇について疑心を抱いた蓮に、個人的な感情で答えを与えなかった灰田。
灰田と蓮のやり取りを察したカリンはその場で灰田の肩を持った。
その際彼は言ったのだ。"一つ貸しだ"と。
よくあんなやり取りを覚えていたものだ。灰田は静かに涙した。
ジッ、と通電する音と共に部屋が明るくなる。
電気がようやく戻ってきた。
エムがやっと施術を再開出来る、とハサミを握る。
そして本日幾度目かの扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃい、あら蓮くんじゃない!お迎えね、もうすぐ終わるから待っててちょうだい」
最 悪 だ。
時間がかかっていることを不審に思ったのか、外で待つように言った蓮が中に来てしまった。
そうすれば必然……
「わかっ、……!?お前たち、生きて……」
「ほう、偶然とは重なるものだな。変わりないか、若造」
「よー、元気そうじゃねーか
それはそうだ。お互いが気づかないでこの場をやり過ごすのは無理。
こんなところで会うと思っていなかった蓮が珍しく驚愕を露わにする。シグマもカリンもかつての敵との再会に黒い笑みを浮かべた。
背後の空気にエムも振り向く。
「なあに知り合い?お店の中では仲良くしてちょうだいね」
「オトモダチ、だもんなァ?安心しろよ。今日は見逃してやる」
「っ……エム、優は無事か?」
「無事もなにもここに居るわよ?借りてきた猫みたいになってるけど」
早く終わらせて……と灰田は願うばかりである。
蓮のセリフを聞いて、カリンが小さく灰田の名を復唱する。
やがて思い出したように目尻に皺を寄せて口角を吊り上げた。
座ったまま石像のように固まる灰田の視界に入るように、カリンが屈んで彼女を見上げる。
とうとう来てしまった、と思わず涙目で灰田は顔を背ける。
「カリン、何をしている。無関係の客にガンを付けるな」
「いーや、コイツ無関係じゃねェな。お嬢ちゃん、オナマエは?」
「は……灰田、優です……」
「優ちゃんさァ、思い出したんだけど俺とハジメマシテじゃないだろ。俺様に返すモンあったりしねェ?」
小さく震える灰田は下唇を噛んだままコクコクと頷く。
まるで子供に接するように、それよりもっと目線が下からだというのに、にこやかなのに怖い。
蓮が灰田の名を呼んだという事象だけで、全てを繋げて灰田に詰めてきた。
頭が回る、というより鼻が利く人なのか。ハルさんみたい……。
怒った蓮が間に入ってカリンを遠ざけてくれたので、蓮を盾に縮こまる。
だがやり取りは成立だ。
なんて言い訳して資材パクろうか、今から灰田は頭痛が痛い。
「っつーことで、バッテリーは譲ってもらえっから置くとこ考えとけよ」
「まぁ嬉しい。みんなにお礼しなくちゃ、今日のお代はタダにしてあげるわね!」
「……否、我々は払う。代わりに一つ頼みがあるのだが」
「やぁん、イ・ケ・ズ!アタシに出来ることなら何でも聞いてあげるわよ?」
思案したシグマがエムの提案を断る。代わりに別の形を要求した。
シグマがエムに言ったのは名義の貸与。
曰く、自身を伴って移動し続けるカリンの負担が大きく、腰を落ち着けられる隠れ家を求めていた。
だが自分たちの名義では足がつく。完全にカリンと繋がりのない名義が必要だ。
金銭面での迷惑はかけない事を誓ってシグマは協力を願う。
対してエムはそんな危ない事よりももっといい方法がある、と親指の綺麗な爪を隣の部屋に向けた。
「ここに住んでいいわよ。隣に使ってない部屋があるの。ダイニングキッチンとか一通りついてるし」
「え、嘘でしょエムさん」
「一応ロッカールームって事にしてたけど、ケイちゃんもジェイくんもアタシに見られそうだからって使わないのよね~。シグマちゃんが時々バッテリーに充電してくれるなら電気代浮くし、家賃も折半でいいわ」
「……本気か、エム。その二人は……」
「掃除する場所も減るし、アタシ助かっちゃうんだけど」
魅力的な提案にシグマとカリンは顔を見合わせる。
エムは止めようとする灰田と蓮に大丈夫だからとウインクを送った。
「では、間借りさせてもらうとしよう」
「決まり〜!お部屋テキトーに片付けちゃっていいからね〜」
「じゃあサクッと片付けとくからシグマは先にその邪魔な髪切ってもらえよ。蓮だっけ、暇だろ。手ェ貸せ」
「……何で俺が」
もしかして灰田たちは今、歴史的瞬間とやらに立ち会ってしまったのではなかろうか。
これ以上この身に大きな秘密を抱えることとなろうとは。キャパオーバーである。
灰田は終わったのだが、蓮が連れていかれてしまった。
というかこのサロン、外観の割に狭いと前から思っていたが、住居用の家屋をリノベーションしていたのか。
仕方ないので灰田は壁際の椅子に座って待つことにした。いくら蓮が居るとはいえ、今はカリンの居る方に行く気は起きない。
……シグマと同じ空間に居るのも嫌は嫌だが、エムたちが居てくれるのでこちらの方が気持ちは楽。
「済まんな、小娘。我々はまだ交渉の手段を粗野な方法でしか選べん。いずれ恩義を返そう」
「凶悪犯から恩義返されるって、なんか怖いなぁ……。シグマさんが人助けなんて、ちょっと信じられない」
「さてな。前線を退いた老人の暇つぶしか、改心による罪滅ぼしか、要求を通す為の企みか。好きに捉えるがいい。クク、凶悪犯か。よくそんなものと堂々言葉が交わせるものだ」
「…………確かに。麻痺してる」
だって周囲に味方も敵も、怖い人は沢山居るし。
でもそんな人たちを逐一怖がってたら仕事出来ないし。
シグマに言われて自分がしっかり環境に毒されていることを灰田は認識した。
「その感覚、大事にしろ」
「感覚?」
「自身の境遇が異常だと感じるその感覚だ。人間とは慣れる生き物。気付いた時には後戻り出来ぬ場所まで来てしまっていた。なんてことにはならぬようにな」
「それは、シグマさんの経験談……?」
「年の功より亀の甲って言うもんねぇ。おじいちゃんのうんちくは聞いておくものよ?あれ、逆だったかしら」
「……それほど歳を重ねたとは思っていなかったが。まぁ、若者からすれば似たようなものか」
おじいちゃん、という響きにいささかショックを受けるが、目の前の鏡に映る自身を見てシグマは口を噤む。もし仮にシグマが後世を作る選択をしていれば、彼女くらいの子なり孫が居ても不思議はない。
シグマに向かって灰田はピンと姿勢を正す。
「大事にします。ありがとう、シグマさん」
「ジジイの戯言だ。ああ、もみ上げはもう少し短く頼む」
「はぁい。注文があったらなんでも言ってね。全部は聞かないかもしれないけど」
「洗うのが手間だから坊主でも構わんのだがな」
「んっふ、却下よ。アタシの全身全霊を賭けてイケオジにしてみせるわ。主にアタシの目の保養のた・め・に」
話している間にも、軽やかにハサミを動かすエムがヘアカットを進める。
邪魔そうだった髪も随分短くなり、清潔感のある髪型に変わっていく。
仕上げに入る直前、片づけをしているはずの隣の部屋からドカドカと煩い足音が聞こえてきた。
「オイ!エムつったかテメェ、この紙は何だ」
「あーそれ、この前提出した決算書の控え?」
「パッと見ただけでも収支が釣り合ってねェだろうが!内訳書を見せろ」
思わず一度握りしめて潰したのか、しわくちゃの紙をエムに突きつけるカリン。何やら重大な問題らしいが、エムは理解しきれていなくいつもの調子で首を傾げた。
口座はひとつに纏めてるから〜とタブレットPCで画面を表示するエム。
甚平の袂に引っ掛けていた老眼鏡をかけて数字を追うカリン。
いくつかカリンが気になった支出、収入の内容を聞くが、曖昧な内容や受け答えに堪忍袋の緒が切れる。
「お前この
「そっちは昔怒られちゃったからちゃんと申告して払ってるわよ。報告書はテキトーだけど。ほらっ」
すかさずカリンが袖口から出した
追って部屋から顔を出した蓮や、見たことのない道具に好奇心の芽が出た灰田が手元を覗く。
慣れた手つきでパチパチと珠を弾くカリンが答えを出して、もう一度申告書や支払いを見て、犬歯を歯茎ごとギッと剥きだした。
「こンのスカポンタン!そもそも報告書がドンブリ勘定もいいとこだが、それ以上にこんな余分に税金払うバカが何処にいるんだタコ!ドケチな國に払った税金は返って来ねェんだぞ!!」
「え~多めに払っておけば間違えても怒られないんだもの~」
「わ、悪口が飽和してる……」
せっかく買った酒をドブに流すような真似をするな!と彼らしい表現でキレ散らかす。
職業柄、金銭の流れに敏感な洗い屋カリン。
自分の仕事の他の副業として、彼がこの店の勘定奉行に君臨した瞬間だった。
余談。とてもではないがこの二人が店に転がり込んだ事は誰かに口が裂けても言えない。
秘密にしようと決めた灰田と蓮。
しかし後日、灰田より高頻度で髪を切りに来るハルカと初老コンビがカチ合い、店で大騒ぎになった。
灰田はカリンとハルから怒られた。とばっちりが酷い。
長いような、短いような回想を終えた灰田を、エムとカリンのやり取りが終わらないので今回はアシスタントのケイがシャンプー台に連れて髪を流してくれる。
言い合いは終わったが経費の軌道修正で二人は頭を突き合わせていた。
「つか先月発注ミスってねェか。支払い予定額がやけに高ェぞ」
「合ってるわよ?お客さま多かったから色々使ったもの。ねぇウォッシングマシーン買い替えたいんだけど。最近調子悪いのよ」
「今月は無理だろうが。止まったらシグマに電気流してもらえ。買うなら洗濯機と乾燥機は機械を分けろ、そっちのが効率がいい」
「俺は専門外だと言っている。どうせ埃でも溜まっているだけだ、エムが掃除すれば済む」
時間かかるからイヤ~と泣き崩れるエムに冷ややかな眼差しを送る一同。
シグマのおかげで電気の使用制限が気にならなくなった快適なドライヤーで髪を乾かしてもらいながら、ちらりと初老コンビを見やる。
まるで昔から居たかのように生活している二人の馴染み方。
全く仕事をしない違和感に、灰田は不思議な気持ちで額を押さえた。
「エムさんたち、そういうのは裏でやったら?シグマさんもお客さん来る前に充電済ませたらいいのに」
「あら、優ちゃんだけだからいいと思っちゃって」
「お前に知られて困ることも、喋られることもねェだろ。何かあんのか?」
「今更だな小娘。我々と出会い直した時点で同じ穴の貉よ。金石の交わりになろうて」
「……どうしてぇ?」
遠慮も配慮もない扱いに灰田は今後の未来を憂いた。
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