ヴァンダリズムのルンバ



白いシーツの上に広がる毛先まで手入れの届いた美しいダークブラウンの長髪。

高く通った鼻筋、マスカラに縁どられたまつ毛。

顔を寄せても毛穴が見えないきめ細やかな肌は一級品。

好みの白い肌に舌を這わせて堪能する。


鼓膜を震わせる声色は透き通った嬌声。

艶めいた吐息と薄く染まった頬、一糸纏わぬ女性の綺麗な身体。

求めるように伸ばされた手を取って、ハルカは自分の首の後ろに回した。


しっとりした肌から香る女の匂いに気分が落ち着く。

細い腰、スラリと伸びる脚、足首で折り返し膝の裏に片手を挟み持ち上げて、太腿と臀部の肉質を愉しむ。

いつまでも触っていたくなる身体を支えて揺さぶれば、蕩けるように目を細めた彼女。

髪を撫でて柔らかな唇に自分の唇を重ねた。







イヅナ精密電子本社、総務部のとある部署。

今日はフロアがいつもよりざわついている。


灰田は自分の席で頭が痛そうに手を組んで額を押し付けていた。

そんな彼女にまだ何も知らない同僚が話しかける。



「これなんの騒ぎ?まだ朝早いのに、そんな疲れた顔して灰田ちゃんどうしたの」

「まあこれ見てよ……」



灰田は同僚に自分のタブレットを渡す。

同僚が見たページにはとある女優のスクープ記事がゴシップ誌に掲載されていた。



「週刊ファーブラ?ありゃま、今回は大手にすっぱ抜かれたねこの女優さん。まだこの前の不倫騒動だって落ち着いてないのに」



著名人のスキャンダルなんて世間が昔から大好きなネタではあるが、いくらなんでも総務の各部署が騒ぐ理由になるとは思えない。

見せても尚理解出来ていない顔をする同僚に、灰田は記事の画像をタップする。


問題の女優と、隣に居る男が寄り添ってホテルに連れ込まれる後ろ姿。



「男の方。……うちの一課」

「噓ぉ!?」

「週刊誌ネタは足がはやすぎて揉み消すのは到底ムリ。幸い顔が写った写真はないけど……」



同僚には明言しなかったが、この後ろ姿はどう見てもハルカ。

これについては既に上から念の為の謹慎処分と事実確認は済んでいる。


ハルの証言曰く、暴力を振るわれていた女性を助けた流れとの事で、件の女優だという事にはホテルに入るまで気づかなかったらしい。

女優に対するスキャンダルだけでこのまま収束すればいいが、隣の男の正体は!?などと飛び火、炎上されると厄介だ。

この女優の前回の騒動ではまだ相手側の言及はないが、これからならないとも限らない。


企業サイドとしては、このまま隣の男はただの通行人Aで済ませてもらいたい。

仮にハルカだと判明したとしても、彼に所帯がある訳でもないしそれ以上の某がある訳でもないので通行人Aに変わりはないが、他に変な問題が出てきても困るのだ。顔は割れないに越したことはない。


お疲れ、と労ってくれた同僚に溜息で返し灰田は再び記事を読む。

画像のデータ提供者の名前が載せられている。



「Ley……?最近どこかで見た名前だったかな」



灰田がネットワークに潜るとき、ふとしたところで見かける名前と同じだった気がする。

それは企業のアカウント、スパコンとしての諜報活動か、個人的なシンデレラとしての活動かは定かではないが。


いずれにせよ一度潜る必要がある。

週刊誌がどういう方向で記事を書こうとしてるのかも気になるし、Leyの存在も何となく引っ掛かりを覚えた。



「では、本日も広大無辺な電子の世界へパトロールを開始致します」



もう一つの専用席に移動した灰田が指の運動をして彼女の得意とする世界へ臨む。


初動は考える事もなく手癖だけで設定を変更し権限を解除する。

モニターには必要なウィンドウを並べた。

既に灰田の意識は電子世界にダイブしている。




彼女にとって電子世界はテーマパークであり、巨大図書館であり、一つの仮想世界だ。


彼女には文字で構築されたこの世界が、色鮮やかな仮想世界に見える。

この世界で誰よりも自由で速いのが彼女。

灰田は週刊ファーブラを出版する企業のサーバーに容易く滑り込む。勿論、自分の足跡は逐一消して。


処理能力の高さに任せて、一気にハルについてやI.P.E.に関してなどこちらに繋がりそうな近い情報を掴まれていないかをサーチする。



「あの女優さん結構見えないところで売名努力してるんだ。ストイックで尊敬しちゃう」



嘘も本当も等しく入り混じる中で情報を閲覧していれば、求めていない情報が目に入ることの方が多い。

この世界で必要なのは、見たものをその瞬間適切な判断で捌く決断力。

情報に感情移入しすぎない適応力。


尊敬しちゃう、なんて口にした灰田はこの時微塵もそのようには思っていなかった。

見かけた情報はただの情報Xなのだから。



「今のところ各出版社が何か掴んでる様子はないか、女優さんの粗探しに忙しそうだな」



同業者は横の繋がりも強い。ライバル社であっても利害が一致すれば彼らは結託するし、結託しながらも互いを監視するのだ。

それは國中存在するどこの企業も同じ。


いつの間にか他の主要な出版社にも検索をかけていた灰田だが、手元に集まった情報に危険なものはなさそうだった。


灰田は問題になった女優とハルの後ろ姿の画像データを呼び寄せる。

紐付いた提供元に繋がる情報が彼女には線となり透けて見えた。にんまりと笑う。



「ただのパパラッチかな。それならそれで……ん?書き込み見てから行くか」



この世界でもリアルと同じで、他のユーザーとの繋がりがあるほど強い。

少し前に情報収集の為、書き込んだ掲示板BBSに他のユーザーが情報提供してくれた通知が届く。

必要な情報をコピーして、サーバーに潜り込んだ跡を丁寧に消し掲示板に向かう。


この界隈には健全なものから悪質なものまでいくつもの掲示板サイトがあるが、灰田が主に使うものは会員制の掲示板。


ログインするとネット仲間が何人か集っていた。



「ハロー、Cinderellaシンデレラ。仕事中?」

「それは個人的な調べ事。Leyって知ってる?」

「やあ、シンディー。同じハンネ何人か知ってるけど、君が気になる程のヤツなら最近侵入クラッキング繰り返してるLeyの事じゃないかな」

「手口が派手なんだよ、一回見たら忘れないタイプだね」



相手がクラッカーであるならそれが仕事だし娯楽みたいなものだ。

仲間達にお礼を言って掲示板の投稿や会話のログを消去しその場を離れる。

最後にこの画像データの提供者であるLeyを調べてあがり。


画像に紐付いた情報に灰田は感嘆を漏らす。



「へー、カメラ情報だ。隠し撮りするような小型カメラの型番じゃないって事は、完全に狙って撮ってるな?」



クラウドストレージに保管された膨大なデータを覗く。

クラウドのストレージは色々なユーザーのあらゆるデータがまるで流れ星のように行き交う。

本物の流れ星、見たことないけど。


この膨大なデータを正面から相手にする気はない。

灰田はさっきコピーした情報を使って、Leyというユーザーの足跡を探す。

浮き出た情報をさらに絞り込み、捕まえたログを遡って進んだ。



「これ全部画像データ?趣味レベルじゃないなこの量は。……なんだこれ」



Leyのタグがついた部屋。画像データが纏まっているファイルの中に鍵のかかった中身の見えないものを見つける。

鍵を壊す事は容易いが、それだと侵入したのがバレてしまう。


システム管理から権限を付与し、かけられたロックを無視してファイルにアクセスする。

ロードゲージの消化を待ちつつ、他にもLeyの情報がないのか近場を見て回る。



「人の写真だけじゃなさそう、趣味もあるのかなぁ。あれ、この画像の人って確か……」



偶然選んで覗いた画像は極東重工と業務提携を結んだ会社の役員の横顔が写っている。

業務提携を発表した直後、人員配置の変更があったらしいと目にはしたが、直接的には関わりもなかったので深く調べてはいなかった。

配置変更は何か内部で不祥事でもあったのだろう。その証拠をLeyに撮られたか。


そろそろローディングも終わるだろうかと目を向けるが、ゲージ中頃から進んでいない。

それならもう少し他に調査を、と足を進めかけてハッと再びゲージを振り返る。


ロードが進まない理由に一つ可能性が思い当たり急いでアクションをキャンセル。

ネットワークから離脱する為にもと来た道を辿る。

Leyのデータベースを抜ける瞬間、身体がガクンと重くなる。



「逆に読み込まれてた、マズイ……!」



退路を断たれる寸前、灰田はLeyのクラウドストレージにあるデータをクラッシュして散らかす。

生まれたバグにより煩雑になって処理能力が落ちた相手は、すぐにクラッシュされたデータをデリートし、黒い粒子の波となって逃げる灰田を追いかける。



「信じられない、他の場所にも損害出るでしょそのやり方!?」



灰田がセキュリティとして壁を波と自分の間に打ち下ろす。

パターン違いの壁を重ねてその隙にネットワーク中にアラートを鳴らした。


ショートカットして戻りつつ、間に行った全ての足跡を抹消する。

一枚セキュリティが食い破られたのを見ながら灰田自身もネットワークから安全な離脱を試みる。


即席で作ったセキュリティだ、二枚目を破られるのは恐らく先程より早い。

離脱まであと20%

アラートを聞きつけて電子警察サイバーパトロールが駆けつける。

暴走する黒い波の悪質なウイルスに飲まれ、外殻を残して色が抜け落ちるデータたち。

ウイルスが広がる前に電子警察サイバーパトロールが該当区画のエリアサーバーを遮断、事に気づいた有志のハッカーたちが近くの主要プログラムのプロテクトを強化する。


灰田が離脱する数コンマ秒直前。

気づかない内に細く漏れて足元まで迫っていた波の一部が灰田を捕まえようと、眼前を塗りつぶすように広がった。


だが、何とか呑まれる寸前で灰田はリアルに帰ってくる。

座っている席に深く息を吐きながら沈み込んだ。なんて心臓に悪いダイブだっただろうか。

変なものを連れて帰ってきていないかを確認し、解放していた権限を戻す。

ネット業界のニュースがいち早く届くようにカスタマイズしてあるアカウント情報は、早くも先ほどのウイルスとの攻防戦についての速報が入っていた。



「Ley、か。気を付けておこう」



安易に下調べもせず危ない橋を渡った事を反省し、自戒する。

念のため会社と自分の使うネットワークのセキュリティを強化しておいた。


個人端末に届いていた、蓮からのメッセージを返して今日の他の仕事にとりかかった。







蓮は徒歩で待ち合わせ場所に向かっている。

ハルが謹慎処分になった経緯は本人からも、今日これから会う優からも軽く聞いた。


殴った壊したで謹慎になることは定期的にある相棒だが、今度は女性絡みで謹慎とは何とも彼らしいというか。

まあ人助けしたというのだから多くは言うまい。


これから会うのはハルのせいで要らない仕事に忙殺されているのを労うのと、事情を詳しく彼女の考えを交えて聞くためだ。

身近に情報収集に長けたプロフェッショナルが居るのは恵まれていると感じる。


約束している時間ちょうどくらいに、彼女指定のカフェに着くよう歩いている蓮。

彼の進む道を遮るように二人の機械人形が立ち塞ぐ。



「ご機嫌よう、I.P.E.の死神グリムリーパーさん?」

「一色蓮サまとお見受けシますが、お間違イございませンね?」



一人は、猫面をした上品なロリィタドールのような出で立ちで、物騒なハンマーを携えた機械人形。

もう一人は、一歩引いたところで従者のように控える道化師ピエロの面の機械人形。



「こちらハ、麗しのメイお嬢サマ。私はソの従者ヴィーノ、と申シます」

「……人違いじゃないか?」



蓮は目の前の二人に見覚えはない。だがこの二人はこちらを知っている口ぶりだ。

仕事でも私用でも、今までに彼らのような機械人形に関わる機会もなかった。

そんな蓮の考えを知ってか知らずか、メイとヴィーノは更に言葉を続ける。



「恐レ入りマスガ、貴方様ヲ足止めセヨと仰セつかッテおりマス」

「だから、私たちと少し遊んでくれないかしら」

「今日はオフなんだが……」



“足止め”という奇妙な単語に、蓮は眉を顰める。いつまで、何のために?いくつかの可能性を脳裏に巡らせるが、情報量が少なすぎた。

彼女からの救難信号が無いことに胸を撫で下ろしつつ、蓮は自身の携帯端末で現在時刻を確認する。

待ち合わせ場所は二本向こうに入った通り。

もうすぐ約束していた時間だ。既に彼女は自分の到着を待っているだろう。

端末をしまい、頭を掻いた。



「俺は帰らせてもらう」

「あら……」



来た道を戻ろうと身を翻した蓮に、既に地を蹴り飛び出していたメイが空中で一回転。勢いをそのままに手にしていたハンマーを振り下ろす。

蓮の足元、アスファルトがその重量を受けて陥没した。アスファルトの破片が飛び散りその破壊力を知らしめる。



「冷たいじゃない。血は通ってる?」

「……機械人形オートマタから人間性を問われる日が来るとは思わなかったな」



言うが早いか、アスファルトを叩いたハンマーを一瞥しただけで蓮は二人に背を向けて入り組んだ路地へと走り出す。

蓮のその潔い逃げっぷりに、二人は呆気にとられたかのように顔を見合わせるのだった。

ヴィーノが自らの主人に問いかける。



「メイ様、いくら何デモ丸腰ノ相手に武器ノ使用はやりスギでハ?」

「当てるつもりはないわよ。でも気をつけなさいヴィーノ、油断してると足元掬われるわ」



追われる蓮は武器を持っておらずシンプルな私服姿。ロングコートを靡かせながら薄暗い路地を駆ける。

機械人形の二人は蓮の追跡を開始。


蓮を侮るヴィーノを嗜めて、メイは得物を握り直す。



「メイ様。こノ路地の先に奇襲に打っテつけな十字路がごザいまス」

「いいわ。ヴィーノ、貴方はこのまま追いなさい。私は先回りして、彼にダンスを申し込んでくるわ」

「ご武運ヲ。メイお嬢サマ」



ゴシックドレスのスカートをふわりとはためかせて跳躍したメイは、路地を形成する建物の屋根へと飛び乗り駆け出していった。



「一曲踊ってくださらない?」



路地の小さな交差点に差し掛かる直前。上空から鈍く風を裂く音が聞こえ、蓮は咄嗟に走る歩幅を短く詰めた。

瞬間、交差点の中央に振り下ろされたメイのハンマー。



「有料だぞ」

「ケチんぼね」



周囲に瓦礫を撒き散らしながら、引き抜いたハンマーを横薙ぎに一閃。バックステップで躱した蓮の耳に、後方から迫るヴィーノの足音が聞こえてくる。

メイ様とのダンスを断るナんてトんダ無礼者デすね!と憤るヴィーノとの距離はまだ遠い。

目の前のメイに向き直った蓮は、敢えてハンマーの射程に踏み込んだ。



「まぁ、情熱的なステップ」



喜色満面といった声色でハンマーを振りかぶったメイに、蓮は小さく口端を吊り上げた。



「最初で最後のサービスだ」

「うふふっ」



残像さえ幻視するほどのフルスイング。その一撃を蓮は後ろに倒れ込むようにして回避する。

眼前を通り過ぎるハンマーが前髪の何本かを吹き散らし、路地の壁に半ばまで埋まりようやく止まる。



「ご機嫌よう、お二人さん」

「ヴィーノっ!上!」



蓮は壁にめり込んだメイの持つハンマーの柄、メイの肩をステップにして家屋の平らな屋根に飛び移る。



「よくもメイ様ヲ踏み台ニ……ッ!」



蓮の上った隣の家屋に姿を表したヴィーノ。迫る蓮を掴もうと、グローブをはめた手を伸ばす。

ヴィーノの伸ばした手、その袖を掴み手前に引きながら蓮はヴィーノの身体を背負う。

そのまま叩きつけようとしたが、投げる先に柵があったので逡巡した末に蓮は足を払い上げて彼の身体を高めに放った。


屋根から投げられたヴィーノはメイの目の前に落下する。



「ちょっと、ヴィーノ大丈夫!?」

「問題ありマせん、アの男……確かニ油断なりませんネ」



彼は今どこに、と探せば少し先でこちらを振り返る蓮を見つけ二人は再び追いかける。

人形遊びは加減が分からない、と蓮は独りごちていた。








灰田は待ち合わせのカフェの窓際席で頬杖をついていた。


約束の時間を過ぎても蓮が来ない。

タブレットをつつきながら溜息を零す。

彼が個人的な理由で遅れる場合は必ず連絡をくれる。それが来ない、ということは彼が何かに巻き込まれたか。


彼は強い、それに自身で判断も出来る。

それは心配していないが、何か変なものが迫ってくるような気がして胃がムカムカする。


今日の身の振り方を考えていると、視界の端でガラガラと不作法に椅子が引かれ向かいに誰かが腰掛ける。



「どうもどっもぉーハジメマシテ!自分、新聞記者させてもらってます、如月零次っす!」



テンションが高いコメディアンみたいなのが席に座るが、灰田は頬杖をついたままタブレットと戯れる。



「え、ちょっと、無視っすか?もしもーし」

「…………席、間違ってますよ」

「いやいや!ここで合ってますよ。自分はあなたに会いたかったんですから。Cinderellaシンデレラさん?」



灰田の手が止まる。流れる沈黙。

ジッと零次を睨む灰田。零次が耐えかねて再び口を開こうとした所に被せるように、灰田が声を発する。



「リアルで人をハンネ呼びするのはタブーじゃない?デリカシーとネチケット、家に取りに帰ったらどうですか」

「いやね?あなたのお城がどこもかしこも堅牢なもんで会えそうにないから、リアルで挨拶しに来たんすよ」



零次が無理やり灰田の視界に入るように自分の携帯端末を見せる。

それはシンデレラというユーザーのSNSプロフィール画面。


例えば、画像の投稿は多いが一切身体が写らないように撮っている。

風景写真の場所も季節も統一性がなく、生活範囲の隠蔽にも余念がない。

反射するガラスなどは加工がしてある。

投稿する時間もリアルタイムは一切ナシ、位置情報まで暗号化している。

探偵泣かせだと零次がにこやかに指摘してくれる。



「で、探偵だか記者だかクラッカーだかのLeyさんがわざわざ何の用?」

「敵意がゴイスぅー!この界隈でレジェンドなI.P.E.のスーパーコンピューター様に会えたご褒美とかないっすか?」

「あんまり個人情報ぺらぺら大声で叫ばないでほしいんだけど」

「私に罵られるのがご褒美だ。ってことっすか!?ッヒャー流石は電子の女王。ドSっすね!?ムチとか出ちゃいます?ぺんぺんっすか!ぺんぺんっすね!?」



帰りたい。今すぐに。

ゴリゴリ削られる精神が悲鳴を上げている灰田は視界を手で覆ってシャットアウトする。



「時間稼ぎしても、彼氏サンは来ませんよ。こうやってコンタクトするのに結構苦労して準備しましたからね」

「……ははぁ、これはお見逸れしたよ、私はいつから嵌められてたんだろうか」

「そりゃもう!ご想像の通りに」



下手からマウントを取りに来る零次に、灰田は顔に乗せた敵意を隠そうともしない。

どうやら素性もバレている。

蓮が来ないのは彼の弄した策だ。零次の正体を察した時点で把握した。

ハルの謹慎の原因まで零次が齧っているらしい。


灰田は近くの店員を呼び止める。



「看板のマグマコーヒーって凄く熱い?じゃあそれ一つ。シュガーはポットごとください」

「あ、自分もローストコーヒーブラックで!」



平然とついでに注文した零次にジト目を向ける。

灰田の中で彼に対する好感度の急下降は留まるところを知らない。

そんな彼女の評価もお構いなしな様子だが。


ドリンクだけの注文だからか、店内の混み合い方に見合わずあまり待たずに注文したコーヒーが二人に届いた。灰田はおしゃれなマグに入った熱々のコーヒーの香りを嗅ぐ。



「こないだ自分の用意したトラップ開けてくれたじゃないですか、どうでした?ぜひプロの目から見た感想とか改善点とかアレとかコレとかソレとか教えていただけたら!自分も何度かI.P.E.のセキュリティ見に行ってるんすけど、いやーホント、恥ずかしながら全っ然取っ掛かりが掴めなくて。マジっパないっすよ!良かったらヒント……って、メチャメチャ角砂糖入れるじゃないっすか。溶けてないっすよ!?」

「いいの」



現在身に受けているストレスを表すように角砂糖をスプーンでゴリゴリと崩しながらコーヒーに混ぜる。

いくら熱々のコーヒーとはいえ急激な砂糖の受け入れが出来ずに飽和していた。



「如月さん」

「苗字呼び!?なんかそれ慣れてないんでまだLeyさんの方がいいカナー」

「如月さん、私は貴方が嫌いです」

「無視!からの嫌い宣言!ねぇキャッチボールしません?言葉のキャッチボール!傷つきますよマジで!?ほんま塩対応は勘弁して下さいよ」



零次に目を合わせず窓の外を見ながら他人行儀な声のトーンのままスプーンを動かす灰田。


遠くで聞こえたマフラー音に彼女は椅子を引く。



「それではSANチェックです。1d100。……ファンブルです。如月さんとはもうお話しできないので、失礼しますね」

「表現えっぐ!?御伽噺級やないですか!って、もう帰っちゃうんすか?逃げても流石に自分追いつけると思……」

「キャー!!みんな逃げて!この人ナイフ持ってる!!」

「え、ま、ってアッッッッツイ!?!?!?コーヒー熱いし何かベタベタす……砂糖!??このため!?!?」



看板商品マグマコーヒー。いつまでも冷めないアツアツのコーヒーを貴方へお届け。


商品の謳い文句をその通り零次に届けた灰田は悲鳴を上げて外に逃げる。

灰田の様子と悲鳴に他の客も悲鳴を伝染させて我先にと外へ逃げるために店の出入り口がごった返した。


かけられたコーヒーの熱さ、溶けきっていない砂糖の嫌がらせ、突然の悪者扱いなどで彼女をうっかり逃がしてしまう。

なんとか外へ出られた零次が、彼女が逃げた方向を見る。

だがもう遠く離れた交差点で二人乗りのバイクが道を曲がり、ちょうど視界から消え去るところだった。


一色蓮はメイとヴィーノに足止めを頼んでいる。ならあれはきっと、ハルカの方だ。

零次は頭にかけたゴーグルの上から自分の額を叩く。



「あっちゃー、そうきます?彼の方は謹慎処分で出てこないハズだったんだけどなぁ。ようやく彼女と一対一サシで出来るようにしたつもりだったんすけど。個々の実力もですけど、一番厄介なのはあの連携プレイっすねぇ。あーもう服ベッタベタやないすか」



灰田に戦闘の心得はないだろうと油断していた。

彼女だけなら何かあっても自分一人で問題ないと。しかしまさかこう来るとは。

彼女が連絡したとすればタブレットを弄っていたのは自分がコンタクトした初めの数分間のみ。

彼女の機転には恐れ入った。


こちらこそ、お見逸れしました。

次会ったらホンマ許さんからな!?



「まっ、ハジメマシテの挨拶が出来ただけでもヨシとしましょ。ってかそろそろメイちゃんかヴィーノくんから連絡あってもおかしくな……」

「すみません、通報を受けて来ました。駐屯所でお話聞かせてもらいますね」

「あ、あっれぇ……?」



がしりと掴まれた肩に振り返ると、均整局のお巡りさん。

零次の言い訳も虚しく事情聴取に連れて行かれたのだった。




居住区の近くで一度ハルは運転するバイクを停める。

直線的で独特なフォルムが目を惹くそのバイクは、とある有名デザイナーが開発に携わったという限定モデル。

どんなツテがあったのか、國内に流通する数少ないその一台をハルは愛車としていた。

攻撃的とまで言えるそのデザインと鮮やかなオレンジ色のカウルも相まって、まるで猛禽のような雰囲気さえ感じさせた。


ヘルメットを脱いでハルが溜息をつきながら灰田の降車に手を貸す。



「あのなァ、俺謹慎中なんだけど?」

「ありがとね、そっちは問題になったら揉み消しとくから」



いつものテンションで眉を上げたハルに対して、どこか沈んだ様子で受け答えする灰田。

借りていたヘルメットもハルに返す。


幾層にも重なるセキュリティの壁。それは要塞。

イヅナのプラント、企業運営方法に付けられた代名詞は、そのままイヅナのネットワーク情報漏洩の守備についても同じ事を言われる。


それは先人達が築いてきた歴史やシステムを、灰田は見て学び、強固なものへと改修し、守ってきた。

自分の身の安全だってそれらのノウハウを活かしてきちんと気をつけていたつもりだ。

それなのに、零次あの男は自分を見つけた。



「ばらしたら、すり潰してやる……」



胸がきゅっと詰まる。視界がぼやける。


零したのは子供じみた口止め。

それでももし実際に仕掛けられたなら、確実に追い詰めて再起不能までクラッシュできる自信はある。


自信があった。その分野で初めて敵が現れた。

じわじわと心の中で大きくなる悔しい気持ちに、灰田はその場で蹲って自分の膝に目元を押し付ける。



「…………泣き……?」

「……ひっぐ……う……」

「いや、はァ!?バカ、週刊誌に撮られた人間の前で泣くなよ噂になんだろ!?」



感情の処理をきちんと出来る彼女の滅多に見せない涙にハルの頭もバグる。

着ていたジャケットを彼女の頭から慌てて被せる。

頼むから早く帰ってこいと蓮にメッセージを大連打した。





別のオフの日。


灰田、蓮、ハルカ。

零次、メイ、ヴィーノ。

商業街区の片隅でグループ同士ばったりと鉢会った。

お互いを認識した瞬間、一番早く動いたのは……



「っメイちゃぁん!うわぁん、私その人嫌い!!」

「こらっ零次!灰田ちゃんイジメちゃダメでしょ!」

「……お前が優を?」

「ちょっメイさん!?、違っ、それ言ったらコーヒーかけられた上に不審者扱いされた私の方が被害者ですやん!?ヴィ、ヴィーノくんまで距離取るのやめてぇ!!?」

「私ハ、メイ様の味方ですのデ」



そんな殺生なぁ!と崩れ落ちた零次。

一連の流れを見ていたハルが一言。



「お前ら、実は仲良く出来んじゃね……?」



その一言は、誰にも拾われる事なく空気へ溶けていった。




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