鬼と呑む



蓮は上層街区の端っこで、静かに自分の手の平越しに満月を眺める。


一課に所属して、数ヶ月。イヅナの死神部隊の一員となり、二課に居た頃と請け負う仕事内容もがらりと変わった。

自分の技量がこれまでに比べ、遥かに伸びているのが分かる。

体格も恵まれている方だし、今のところ五体満足の状態で生を繋いでいる。

自身の将来などはっきり考えたことはなかったが、自分で選びとったこの道は割と気に入っている。


一課に属するにあたって、先にマインドプロテクトは履修している。

自分を汚すヒトの血が、自分の心や精神までをも汚さないように。

もともと白沢先生に細かなことを教わっているときにも似たような概念は学んでいる。だから一課に所属しても特に心が壊れることはなかった。


決して汚れてはいない。だが何となく手に血のようなものがこびりついている気がした。

水で洗って落ちるようなものではない、どちらかというと瘴気のような何か。

じっと手を見つめる蓮に、古風で特徴的な口調の声がかかる。



「貴公、暇を持て余しているなら付き合ってはもらえぬか」

「…………酒…?…分かった」



余程気が抜けていたのか、人が居ることに気づかなかった。少し驚いて返事が遅れる。

蓮を手招いたのは、右手右足がサイバネ化された自分と歳の近そうな若い男。

緩く着物を纏い、手頃な段差に腰掛けている。足元には徳利とお猪口が置かれていた。

近くに料亭か何か店があった気がする。持ち出してきたのだろうか。


酒器を挟んで並んで座る。

空のお猪口を手にすればゆっくりと透明な日本酒が注がれた。

月明かりに照らされた液体があまりにも綺麗に透き通っていて思わず見惚れる。

さっきまで見ていた自分の手とは正反対な気がして、何となく口をつけるのが憚られた。



「遠慮するな。毒など盛ってはおらぬ。それとも普段日本酒は嗜まぬか?」

「……飲めるけど。わざわざこんな場所で、何故?」

「何、興が乗っただけのこと。何者かに出逢える様な気がしてな。月見酒でも、と持ち出してきた訳だ」



この人もまた、上層の人間なのだろうことは伺える。でなければ浴衣に羽織なんて軽装で外に飲みには行かないだろう。

この辺りではここが一番月が綺麗に見える。

外縁部で天井のプレートもなく、日当たりを考慮して作られた外壁は外側へと倒れるように湾曲している。

月を目的としているならば確かに勝手に辿り着く拓けたポイント。蓮も幼い頃にこの場所を見つけ、今でもタイミングが合えば度々訪れる場所だった。



「その握りだこ、貴公も剣を握るか。しかし今日は厭に迷い事があるようだ」

「……日に日に濃くなる、血よりも暗い、何か。…蝕まれたら、いけない気がする」



酒を持たないほうの手を見つめる。

心が犯されない代わりに染み付く禍々しい色に、静かに焦燥感を覚える。

いつか身体だけが心を置いて他の生命を欲してしまいそうな、確実に近づいてくる遠くのざわめき。

自分の持つお猪口を呷った男が手元で徳利を数度回し残量を確かめて月を見上げる。



「匂いだな」

「…匂い?」

「ああ。染み付いた血の匂いはな、酒精でしか薄まらぬ。薄めてやらねば、その匂いは自身に死を招く。だから私は酒を飲むのだ」



月を見上げる男の横顔。どことなく、鬼を背負っているように見えた。

ようやく月を映す手元の酒に口をつける。

常温の酒が胃に落ちる感覚。身体に馴染むアルコール。

鼻に抜ける風味と口に残る味わいが、今まで飲んだ日本酒より美味しいと思わせる。

美味い、と呟けば男が上機嫌で蓮のお猪口にお代わりを注ぐ。


注ぎ、注がれ、それ以上の会話があるわけでもなく彼の持つ徳利が空くまで月の下で二人静かに酒を嗜んだ。



「酒はどうだ?着いて来い、店は紹介制だ。貴公と酌み交わす酒は私も気に入った」

「…ああ、行く」



男が腰を上げ、ゆっくりと歩き出す。

蓮は再び手のひらを月に透かせる。さっきより随分と瘴気が薄れたことに、最近騒がしかった心も落ち着いた気がした。










仕事を終えて、後は帰還するのみ。端末に届いていた友人のメッセージを返す。

骨伝導イヤホンから今回オペレーターを頼んだ優の声を伝える。



『お疲れ様でした。予定より三時間も早く終わりました。……蓮さん、なんだか嬉しそうだね。この後何かあるの?』

「…古い友人と飲む約束をしてる」



確かにたまにふらりと飲みに行っているらしいことはハルからも聞いているが、本人から聞いたのは初めてだ。

定期的に一人でも酒を飲んでいるらしいし、儀式みたいなものだと聞いたことがある。

聞けばその人とは10年くらいの付き合いになるらしい。ハルや優以外にもそういう仲の人物がいるのはいいことだ。


優に送り出され、仕事着から着替えて上層のとある料亭に顔を出す。

いつもの場所に座る、藍染の和服の男。

ここで飲むのもおおよそ一ヶ月ぶり。隣に座り、用意されていたお猪口に注ぎあう。



「随分早かったな、蓮」

「……巻いてきた。久しぶり、タロス」



静かに、二人が共有するその時間と酒が、彼らを洗う。

月の出る夜にのみ、月しか知らない二人の関係。


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