第4章1
綾の着ていた服は焼け焦げてこびりつき、洗い落とすのはなかなか手間のかかる作業だ。湯船の悠理は慣れた手つきで、それをゆっくり優しくこすり、洗い流していく。綾の肌に火傷はない。ただ肩には擦り傷が残っており、血がにじんでいる。
綾は、たどたどしく話し続けていた。出会いのこと、ミナカのこと、戦いのこと、向こうで万塔祀を見たこと。
悠理はうなずきながら、洗い続ける。
「ちょっとだけ我慢してね」
シャワーで肩の擦り傷から汚れを洗い流す。綾は少し苦痛の表情を浮かべたが、話は止まらない。
すべてを話し終わった頃、綾の体もすっかり白く美しい姿に戻っていた。あのできごとを体験してきたという名残は、もう肩の傷だけだ。
綾はまっすぐに悠理を見つめて、
「帰して。私をあそこにまた連れていって。私にはやることがある」
悠理は困り顔で、
「綾が今戻って、どうするんです。兵士相手になにもできなかったんでしょ」
綾には返す言葉もなかった。
「綾はゲームを作れるぐらいに朔月物語のことを分かりました?」
悠理の問いかけに、綾はうなだれ、じっと床のタイルを見つめる。濡れた銀髪がばさりと落ちて、綾の表情を隠した。
「分かんない…… 分かんないよ…… ミナカを助ける方法も、アヤと自分のことも、万塔祀が出てきたことも…… ミナカがなんで自分を…… 好きでいてくれるのかも……」
泣かない。私は泣かない。綾は懸命に呟いている。
悠理は、後ろから綾を抱きしめた。
「でしたらね、
「うん。ミナカのことを、もっと知りたい…… って、こ、この手はなんじゃ~!」
「うむむ、綾って、意外と着やせするタイプですよね」
「止めい!」
頬を染めた綾は、悠理の手をはねのけて立ち上がった。悠理に目をやり、ぎょっとする。
「綾ったら、そんなに見つめて恥ずかしいなあ」
綾は目をこすり、何度も瞬いてみた。綾の視線はあるべき悠理の体を通り抜け、湯船の底にまで届いている。悠理の体はぼんやりと透けていた。
「え? これって?」
「以前だったら、もうちょっとはっきり見てもらえたのに。残念」
綾は、はっとした。この体を見せないために、ぶかぶかの学ランを着込んでいたのか。
「悠理、あなたはいったい……」
悠理も立ち上がって、今度は前から綾に抱きついた。
「ほら、まだ暖かいから大丈夫。綾ってば、スタイルいいんですね。むむむむ、このサイズは――?」
「や、や、やめ!」
綾は真っ赤になって、風呂場を飛び出していった。
「――その元気なら、大丈夫大丈夫」
手に残った感触を名残り惜しそうにしながら、悠理は呟いた。
と、向こうで叫び声が聞こえる。
「なんで、私の家財道具がここにあるんじゃあ~!」
「ぜんぶ引き取って、電気やガスなんかは解約しといてあげました。あの家に一人は寂しいですしねえ。ああ、あたしって本当に親切」
一緒に住めば生活費も安くつく。しかも、おいしいご飯を毎度堪能できるのだ。これ以上ない最高のアイディアではないか。なんて自分は賢いのだろう。
その夜、怒り狂う綾をなだめるのに、悠理は〈勝手に契約を結ばない〉〈勝手に契約を破棄しない〉〈許可なしに人のものを処分しない〉〈一部屋を綾に明け渡す〉〈綾の部屋は許可がないかぎり絶対不可侵領域である〉〈綾の誇りにかけて、ここの家賃は出世払いで悠理に支払う〉〈食器を洗うのは悠理の当番〉と、七個もの誓言を新たに結ばされたのだった。
夢の中、倉の中。
薄暗いそこに、ただひとり閉じ込められて過ごす。
仕方ないのだ。村の祝福を自分は奪ってしまうのだから。
心残りは赤髪に翠眼の少女。自分を姉と呼んでくれる、流民の娘。
倉の扉を破り、彼女は現れた。自分の手を引いて、森へと連れ出してくれた。
自分? この自分とは誰だ。村など知らない。倉など知らない。
自分であり、自分でない。
これは影。赤髪の少女が夢見た影なのだ。
ケイオスループ社が備えている視聴覚ルーム。
本来のデザインコンセプトは優雅にアートな映画鑑賞だったこの部屋も、残念ながら使い手たちがアートではなかった。ソファは薄汚れ、サイドテーブルには空き缶の列。寝床代わりに使われていたせいで、床にはゴミどころか毛布や寝袋まで落ちている。
ゴミ山脈の奥には、爛々とした目で『ペイガン・ゴッド』をプレイ中の綾がいた。
崩れてきた本が綾の上に落ちてきており、カモフラージュでもしているかのようだ。本人は身じろぎひとつしない。
「ミナカ…… どうすれば助けられるの……?」
『ペイガン・ゴッド』は悲劇的なストーリーだった。ティターニアに去って
彼らはどうしてもティターニアの妖精加護・祝福を再現できず、代わりに禁忌へと手を出した。それが
暗いエンディングの最後に、首都メイデンポリスを落ち延びていく
だめだ、ゲーム本編だけじゃまるで情報が不足している。綾は視聴覚ルームを飛び出して、直木先輩のところに直行した。
「先輩! 前作がよく分かる資料はないんでしょうか」
「……ないのよ、ここには」
直木先輩は相変わらず暗い目をしている。どういうゲームを作るかよく決まっていないので、なんとなく適当にデザインをしているらしい。画面には見知らぬ双子の妖精っぽいキャラが映っていた。
「だって、ここで前作を作ったんですよね?」
「延々とお話を聞きながら、ね……」
直木先輩が遠い目をした。トラウマをえぐってしまったようだ。
先輩はぶつぶつと、
「毎日言うことが変わって、肝心なことは決まらなくて、決めない本人からは決まってないと怒られて……」
「せ、先輩、どうもありがとうございました!」
撤退しようとする綾に、直木先輩は我に帰って、
「あ、そうだ、本屋さんで資料集を買ったりするほうがよっぽど役に立つわよ。会社のどこかにも同じものが埋まってるだろうけど、探すのに時間がかかるから」
外部の会社が作った資料集や攻略本のほうが内部資料よりもよっぽど詳しいとは、綾には理解しづらいのだが、この業界ではわりと一般的なことらしい。
綾は仕方なく、ここ、塔之原市繁華街の大型書店にまでやってきたのだった。
さすがに今ブレイク中だけあって、書店の棚には朔月物語関連の書籍がどっさり並んでいる。まずは早速、公式設定資料集を開いてキャラクターのページをチェック、ミナカの項を開いてみた。
凶刃のミナカ【きょうじんのみなか】
赤い髪と翠色の瞳を持つ少女。
突撃力が自慢の紅蓮組においても、最強最速の突撃隊長。
その逆鱗に触れられると殺戮の嵐を巻き起こす。
ミナカは幼い頃に紛争で両親をなくし、難民の放浪生活を送った。一人はぐれて肉食獣の群れに襲われたとき、銀髪で翠眼の妖精に武器を与えられて命を救われる。妖精はミナカを我が妹と呼び、ミナカも姉と慕うようになる。その後も銀髪の妖精は彼女を幾度も危地から助け出し、ようやくティターニアへの国境にたどり着いたときのこと。
その村には禁忌の少女がいた。
両親とは異なる髪と目の色。彼女がいくところ、妖精は逃げ惑う。
富裕な家にありながら人には遠ざけられ、アヤという名前が語られることすら禁忌となり、孤独に生きてきた。彼女はただ、こう呼ばれてきた。呪われた妖精の
だが、ミナカには違った。アヤの姿は銀髪の妖精と瓜二つ。アヤこそは姉だと信じて、月の
ミナカの力を見た
「こっちの現実と似たようなものか……」
取替えっ子などと悪口を言われなかったのはまだましかもしれないが、大筋は大差ない。しかし、ただ思い出の妖精と似ているだけでミナカから慕われてきたと分かっては、落ち込もうというものだ。
続けて、アヤの項を開く。
火焔のアヤ【ほむらのあや】
銀髪に翠色の瞳を持つ
適当すぎる説明に、綾は本屋でずっこけそうになった。
それにしても、偶然にしてはあまりにできすぎている。
このストーリーは万塔祀が作ったものだ。マツリという裏切り者のキャラクターも自ら設定したという。万塔が綾の秘密をあらかじめ知っていて、こういった設定を用意したとも思えないが、他につじつまの合う説明も難しかった。
直接聞いて教えてくれれば話は早いけど、あの世界で万塔は
ゲームの設定が先、という考え方が間違っているのではないだろうか。あの世界が先にあり、それを知った万塔がゲームの設定に表したとしたら。
「私もそれを調べたいのだが」
隣から突然声をかけられて、綾は思わず一歩引いた。なんといってもその相手が、夏だというのに黒いコートを着こんでフードまで被っている得体の知れない女だったからだ。あの制作発表会にやってきた女ではないか。
女は脇に、朔月物語関連書籍を数十冊も抱えている。全部買うつもりなのだろう。それを買い占められると、わざわざ調べに来た綾としては大変困ったことになる。
女はフードを被っている上に大きな眼鏡と長い前髪で表情はよく見えない。
「
「はい?」
女は力説を続ける。
「このゲームはリアルすぎて危険だと言っているのだ!」
「はあ…… よく分からないですけど、私はこの本を買うつもりなんですが」
「そうか、それは困ったな…… よし、こうしようではないか! 二人で買って、二人で読めばよい!」
いや、それはと断りかけて、綾は凍りついた。
本屋の床に、小さな人が立っている。身長は十五センチほど、体よりも大きい本棚を背負い、本を床に置いて読んでいた。
こんなところで妖精が立ち読みだ。いや、自分自身より大きい本を読む行為は果たして立ち読みという表現で正しいのだろうか、などなど呆然としつつ見つめていたら、妖精と目があった。
妖精も驚いたらしい。お互いしばし硬直の後、
「師妹さま! 瑞希さま! だめです、申し訳ないのですが脱出します!」
妖精はネズミみたいに素早く客たちの足元をかいくぐって、あっという間に店外へと逃げ出してしまった。
「待て、カグヤ! 君、この本を買っておいてくれ、頼む!」
女は大量の本を綾に押し付け、妖精を追ってか店外へと駆け出していく。後には途方にくれるばかりの綾だけが残されていた。
本屋の店先に立ち続けて、買った本をひたすら読むのは結構きつい作業だ。
数十冊におよぶ朔月物語の書籍も、さすがに数時間あればそれなりに読み進められる。
精典学【アルファルノロジー】
心を通じることなどできなかった連合国は、
まったく、ろくでもないことを考えたものだ。あの『生きた本』とやらのおぞましさときたら。
そこまで読んだところで、向こうから黒コートの女がとぼとぼ戻ってきた。あれからずっと探して、でも見つからなかったのだろう。探すのに邪魔だったのか、コートのフードは開いている。
女は綾の隣に膝を抱えて座り込んでしまった。コートに隠されてよく分からなかったが、意外と、いや、かなりスタイルはいい。大きな眼鏡と長い前髪の奥にある顔は、二十代半ばぐらいか。憂いに満ちて美しい。
しかし、そんな観察をしている場合ではなかった。
「私は帰りますから、本をお渡しします。お金は――」
「カグヤ…… どこに行ってしまったんだ…… 十六年も一緒だったのに……」
女はまるで夢遊病者のよう。綾の話は聞いていない。
カグヤというのはあの妖精のことだろうか。だとしたら、きっと妖精が逃げ出したのは自分の責任で、この奇妙な女性のぐったりした有様も自分のせいか。
この女性も妖精が見えるようだし、ともかく同類の悠理に手助けしてもらおう。
貧乏すぎて携帯電話など持てない綾は、いまどき珍しい公衆電話から悠理を呼び出した。
悠理が来るまで待つ間、どっさり本を抱えている銀髪少女と、へたりこんでいる黒コート美女という奇妙なペアは人目を引きまくりだった。
「カグヤ…… お前までが私を見捨てていくのか……」
ぶつぶつと独り言が続く。
黒コートをよく見た綾は驚いた。それが本当は黒い生地などではないことに気付いたのだ。コートはもうびっしりと、文字で埋め尽くされている。ただの文字ではない、妖精たちの使う始原文字だ。よく似たものを綾は最近見た記憶があった。
「その服!」
綾の叫びに、女がどんよりした視線を向ける。
「その服、マビノギオン!」
女はのろのろと、
「……それがどうかしたのか。マビノギオンのグレートコートは守語者の標準装備だぞ、珍しくもない」
「いんや、珍しいですね。守語者が世界にどれだけいると思ってるのかしら」
悠理の声に、女は飛び上がった。悠理に指を突きつけ、あたふたとフードを被り、口をぱくぱくさせて、
「ゆ、悠理! そうか! カグヤを連れ去ったのはお前だな! 許さん許さん許さん!」
「違うから。今初めて聞きましたから」
女は聞く耳持たぬと構え、
「カグヤ!
立ち尽くした。そのまま、両目から大粒の涙をこぼし始める。
「う、う、うわァァァァァん!」
大声で泣く女を前に、悠理は案外と優しい顔で、
「よしよし。瑞希はちっとも変わってないのね。さあ、こっちこっち。おいしいご飯を食べさせてあげますからね」
小さな悠理が、大きな女の手を引いて連れていく。綾もそれに付いていくのだった。ご飯を食べさせるのは悠理じゃなくて自分なんだろうと、ひとりごちつつ。
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