第10話

 空高く太陽が上り始め、地上がその光に照らされていく。

 街を走っていた車はサンフランシスコのサン・ブルーノ・マウンテン通り、そのパークウェイに入ってから路肩に止められていた。

 車体の大部分が真っ赤な血で染まり、筋張った赤黒い肉片がこべりついている。フロントスポイラーから血が滴り、アスファルトに小さな血溜まりが広がる。

 車内ではニーナがレイの右腕の切断面に止血剤が含まれたガーゼを押し当て、包帯できつく縛り付けていた。加えてレイに無痛針で鎮静剤を打ち込んで暴れ狂うほどの痛みを抑え、なんとか口に栄養剤と水を流し込む。

 車の外面にべっとりと血が付着していても全く気にならないニーナだったが、レイの体から流れる血で汚れた車内と包帯を見ると息が詰まり、嗚咽と涙を抑えられなくなっていた。

 天井からは金具で点滴袋が吊るされ、袋から伸びるチューブに取り付けられた針が彼の左腕に差し込まれている。右腕は三角筋で首から下げられて、今は彼の胸の上に乗せられていた。

 後部席で横になるレイは全力疾走を続けているかのように激しい呼吸で胸を上下させ、顔は病的に青白く変化している。既に涙は枯れており、流れた痕だけが頬に白く残っている。

「絶対に助けるから……だから死なないで……」

 ニーナはほんの微かに落ち着き始めたレイをそのまま柔らかく抱擁し、彼の冷たくなりつつある頬を撫でる。すると彼の天井を見続けていた虚ろな目に光が僅かに差し込み、首を動かして彼女の顔を見つめた。

「だ、大丈夫です。ニーナさんが傍に居てくれるなら……」

 力なく持ち上げられた彼の左手がニーナの頬に触れる、彼女は手が頬に触れたままゴム手袋越しに握り返す。

 それから体温を失わないようにとレイの体を毛布で包んで眠らせ、ニーナは車から降りて周りの様子を見る。

 郡立公園は大きな山にいくつかのレジャー施設を含み、それら施設を繋ぐように山の中を大きな道路が通っている。道中の草むらや脇道には廃車が沢山放置され、ここで野宿していたのであろうテントやキャンプ跡が多く残されていた。

 当然白骨化が進んでいる死体も多く転がっている、車に撥ねられて激しく損壊した死体や銃や刃物で損傷した死体、大きく生えた樹で首を吊った死体も――。

 山から街を見下ろすような位置から双眼鏡を覗く、だが荒れ果てた街と時折動き回る人影以外これといって目につくものはない。当然レイを助けるのに必要な施設も何もかも見つからない。

 一刻も早くここから移動してレイにしっかりとした治療を施す必要がある、ニーナは焦りを隠せない表情で考え、スリングで吊り下げていたM4A1のグリップを握る手に力を込めた。

 再び出発したニーナはハンドルを握りしめてアクセルを踏み、真っ直ぐとフロントガラスの向こうを見つめて運転を続ける。車はサンフランシスコから出て南に向かっていた、太平洋沿いに走る風景からは人工の建物が少なくなり始め、街と街の感覚も広がっていく。ニーナの傍らの助手席には地図が広げられていた、地図上のサンフランシスコから南の方向に当たるサンマテオ郡エル・ヴァイオレッタという街に赤い丸が描かれていた。

 日が真上に向かって浮かぶ間も車は走り続け、やがて太陽が地平線に触れて空が暗くなり始めた頃、起伏のある道の中で高い部分に停車させてニーナは双眼鏡を覗いていた。

 双眼鏡の向こう、外縁がぼやけたレンズに映るのはトタンや廃車で乱雑に作られたバリケード、それかゲートらしき物が取り付けられた廃材の壁。

 真っ直ぐと伸びる道路を封じるかのように鉄のゲートが降りている、双眼鏡の倍率を上げてさらによく見ると高台があり、そこには監視役らしき人間が立っているのも見える。

 ニーナは地図を確認する、現在位置はまだ安全圏のエル・ヴァイオレッタからは程遠い、となるとこの先に見えるのはまた別の街だと結論付けた。

 レイの容体は悪化し続けている、選択の余地などニーナには無かった。

 古い血にも見える錆で汚れたトタンと鉄板で作られた引き戸のようなゲート、ニーナの屋敷に設置されたものより雑な作りに見えた。そのゲートの前に車は止まってニーナが降りた、高台に立った若い男はボルトアクション式M700らしきライフルを彼女に向ける。

 ニーナはスリングでライフルを下げているがピストルグリップを握るのみ、銃口を下に向けたまま左手は敵意が無いことを示すために持ち上げた。

「誰だ!」

「私はニーナ・ハーロウ! 車には子供も一人乗っている!」

 ライフルの銃口をニーナに突き付けたまま男は大声を出す、その声に身震い一つしなかったニーナは厳然とした態度で答えた。

「撃たないでくれ! ただ助けが要るんだ!」

 ニーナははっきりとした声色で高台に向けて言う、高台は建物で言う2階程度の高さがあったが彼女の声は男にしっかりと届く。その堂々とした様子に、男は僅かに銃口を下げて照準越しにではなく直に彼女を見つめた。

 すると無線機を取り出してニーナに聞こえない声量で会話し、それを終えると彼女をもう一度見下ろした。

「そこで待っていろ」

 それから数分後に金具が外され、金属の擦れる音がゲートの向こうから聞こえた。ゲートが左右に開き、隙間に仁王立ちする男とその護衛らしき武装した者たちが見え始める。

 中央に立つ護衛を率いている男はぼさぼさに跳ねた黒髪で柔らかな印象を与える相貌だった、暗いブラウンの眼は緩い弧を描く瞼に収まっている。顔は地味な男だったが体格は悪くなく、少し痩せ型ながらもがっしりとした肩幅が上着の上からでもわかった。

「生存者の方ですか? 珍しい、ここまで大変だったでしょう」

 男は穏やかな口調で語りながらニーナの近くまで歩み寄る。

「サンフランシスコから来た。それより重症の子供がいるんだ、今すぐにでもなんとか手当てしてもらえないか? 多少の食糧か武器弾薬であれば謝礼として渡せる」

「いえいえ、まずその子供を見せてもらいましょう。重症というのは――」

「当然感染したんじゃない、腕を無くしたんだが応急処置しかしてやれていないんだ。失血が酷い」

「わかりました、ここには医者も居ますのですぐに診せましょう」

 そう男が言うと護衛の二人が銃を背中に回して車に近づいていく、すると音も無く彼らの前にニーナが立ちふさがる、その背には後部席のドアがあった。

「任せても大丈夫か?」

「勿論です」

 レイを運び出そうとする男らの背後から聞こえる返答の主にニーナは冷たく鋭い目を向ける。

「良いだろう、だが覚えておけよ。この銃は偽物でもないし弾は満タンに装填してある、彼に妙なことをしたらこれが飾りじゃないことをその身に教えてやるし、私に会ったことを全力で後悔させてやる」

「そんなことはしません、彼にはしっかりとした治療を施します。そちらも先程の発言を忘れないようにお願いしますね」

「ああ、わかっている」

 男二人がドアを開けてレイの様子を一瞥した、すると白衣を着た医者らしき人物とその助手がゲートの奥から颯爽と現れ、レイを簡易的なストレッチャーに乗せた。

「その子の名前はレイモンド・ハーズビルムだ、なんとしてでも助けてやってくれ……」

 ニーナは今までとは打って変わって弱々しい声で既に触診を始めていた医者に囁いた、医者は静かに頷いてゲートの奥にレイを運んでいく。そして柔らかな面持ちでニーナを見つめる男もまた、彼女の小さなその言葉を聞き逃さなかった。


 ――


 ゲートを抜けた先では小さな町が形成されていた、周囲は廃車や鉄板にがれきと使えるものをすべて使ったバリケードで囲まれている、そのお陰か中に感染者は居ない様子だった。

 町はとても小さく、カウボーイか保安官でも居そうだなとニーナは薄い笑みを浮かべながら思った。小さな学校に小さな市役所、そして個人経営だったのであろう小さな診療所が存在した。

 町の中にはいくつもの民家が建っているがその中のいくつかは燃えた跡が残り、そしてまた別のいくつかは残骸の山に成り果てていた。街の中は人々が歩いており、老人が小さな市場で買い物したり、やや老けた様子の男が小さな畑を耕している様子も目に入った。一人残らずボロボロな服だったが、かつての文明を微かに思わせるような生活を営んでいた。

 所々にはバリケードの傍以外にも銃を持った男が町の中に立てられた高台から銃を握りながら見下ろしてる。すでに空は暗くなり太陽は殆ど沈んでしまっている、町では炊き出しが始まり住人たちが家々から姿を見せ、料理の匂いが漂っていた――。

「私の名前はウィリアム・ゲンズブールです、一応はここのまとめ役をやらせてもらっています」

 ゲートの一番近くに車を止め、診療所に案内するウィリアムと彼についていくニーナ。レイは先に診療所の治療室に運ばれて施術が始まり、ニーナはそれが終わるまで治療室の前から動かず彼の話を聞いていた。

「ここはハープヴィレッジ。荒れた果てたこの世界唯一の、人が安心して生きて暮らせる街ですよ」

 二階にある手術室前に伸びる廊下に置かれた長椅子にニーナは腰を下ろしていた、廊下には大きなガラスの――今では汚れてヒビが入っているガラスの壁とドアがある、そのドアを開くとテラスがある。テラスからは全体的に高い建物が殆どない町を一望できた。

 ウィリアムはテラスから町を眺めながら話す、ニーナはスリングを外したライフルを椅子に立てかけて掴んだまま、彼の背中を見ている。

「正直驚きだ、もっと南の安全圏以外にもこんな場所があるなんて」

「あなたもあの街を目指しているんですか?」

「……あぁ」

 するとウィリアムは少し悲し気な、寂しげな目をして顔を微かに伏せる。

 その表情を見つめる眉間に力がこもったニーナ。

「実は私はそこから来たんです、南の安全圏――エル・ヴァイオレッタから」

「それで?」

「あの場所はあなたが考えているようなところではありません、もちろん怪我を負った子供を連れていくのに適しているとは到底思えない」

「どういう意味だ、何が言いたい」

「あそこは強権を振りかざす街の支配者が圧制を強いて、避難するしかなかった人たちを苦しめているんです」

 ニーナも聞き覚えがある話、街は高い壁で覆われて安全である、だが厳しいルールが設けられて自由が著しく制限された上での安全であると。

「それが本当なら困った話だ、我々はそこに向かっているのだから」

「勿論本当です」

「街からは生存者を探すものが出てくるというのは本当か?」

「ええ、街に住ませる者を集めているのでしょう。ただそれを実行させられているのが一体どういう人たちなのか……」

「あんたらはそうしないのか」

「可能な限り見つけた人たちは避難させていますが、我々にそこまでの余力はありません」

「そうか」

「ともかく、あなたたちが無事だったことに我々も驚きです。一体どうしていたんですか? 車でずっと移動を?」

「いや、数年サンフランシスコに住んでいたんだが、感染者に襲われて住み続けることができなくなってしまった、それで車で脱出したばかりだ」

 その言葉にウィリアムとその左右に立つ護衛の男達が眉を上げ、その目線を座り込むニーナの横顔に注ぐ。

「そうですか……サンフランシスコは危険だと聞きましたが?」

「事実そうだ、まだまだ街の中には感染者が数えきれない程潜んでる」

「なるほど――」

 そして数時間後、一切動かなかった手術室のドアが開き、同じように全く動こうとしなかったニーナが立ち上がった。手術室の奥からは医者が表れてニーナの前に立つ。

「本当に危ないところでした。あなたが手を尽くし、そして彼自身も必死に戦っていましたが失血量が危険な域にまで達していました。けれどもう山は越えたでしょう。右腕の切断面は最低限のデブリードメントを施して既に縫合しました、今は輸血を受けて眠っています。安静にしていれば命の危険はもうありません」

 その言葉を聞いたニーナは喜びの表情を浮かべることも無く、崩れ落ちるように椅子に腰を下ろし、伏せた顔を両手で覆った。

「よかった……本当によかった……」

「彼の病室もここで用意しました。後で知らせますのでしばらくしたら見に来てあげてください」

 震える手の隙間からは涙が溢れ出して床に落ちていく、背を丸めて涙を流すニーナの姿は少女にも見える程にか弱さを滲ませるものがあった。 

 それから医者は満足げな表情でウィリアムに頷き、彼もまたそれを返すと医者は去っていく。

「ここなら彼もしっかり休めます」

「本当に、心の底から安心した。じゃあ今度はこっちの話を始めるか」

「いえ、来ていただいた当日ではお疲れでしょうし、今日はもう部屋まで案内しますのでお休みください」

 その時ニーナは振り返り、初めてウィリアムに穏やかな表情を見せた。

 ウィリアムも驚きを一瞬湧きあがらせ、彼の顔も心情を表そうとしたがすぐにいつもの人当たりの良い薄い笑みの顔に戻る。

「そうか……その話はとても有り難いが、私は彼の傍に居たい」

 ニーナはそう言うとM4A1を掴んで立ち上がった。

「わかりました、では明日の早朝にまたお迎えに上がります。朝食もございますし、その時にでもお話をさせて頂ければ」

「あぁ」

「では――」

「ウィリアムさん、ありがとう」

 ニーナのその言葉を聞いた彼は一瞬だけ振り返って会釈し、静かに歩み去っていった。 


 ――


 月が空の真上で煌々と輝く夜、その光は周りの星々さえ陰らせるかのような明るさ。

 夜の静けさに満ち満ちたホープヴィレッジ、その町の中にある一見何の変哲もない民家の窓や隙間から明かりが漏れていた。

 その民家の壁は木で作られていたが酷く損傷が進んでおり、腐った部分もあれば朽ち落ちて穴が開いている部分もある。だからこそこの家を割り当てられた住人はまだ居なかった。

 民家は二階建てで二階は小さな二つの寝室、一階はリビングとキッチン、そしてバスルームが状態はともかくとして存在した。

 リビングにはテーブルが置かれており、その上にはランタンの他にビールやワイン、さらにナイフや地図が乗せられている。そしてテーブルは四人の男達に囲まれていた、ニット帽を被った者やコートを着込んだ者と皆寒さを凌ごうとした格好である、だからこそこの場にわざわざ居るのは何か目的があってのことだと見る者の多くは悟るだろう。

 彼らはビール瓶や冷め切ったネズミの串焼きなどを手に持ち、テーブルに上体を傾けてランタンに顔を寄せ合うような形で静かに、そして焦った声色で話し合っていた。

「それで? あの女は本当に当たりか?」

 酒瓶を持って少し顔に赤みを帯びた髭面の男が食い入るようにテーブルに上体を預けて問う。

「当たりか外れかはまだわからんぞ、言うなら偶然にも宝くじが舞い込んできたような物だ」

「だが俺は聞いたぞ、あいつはサンフランシスコから来たと。しかも昔から住んでるってな」

 ねずみの串焼きの最後の一個を引き抜いて咀嚼する男が串の先を突きつけながらそう答えた。男は病院でウィリアムの傍に居た護衛の一人だった。

「じゃああそこの主だってことかね、それ以外の奪った奴という可能性は?」

「どうだろうな。ここ最近はあの街で戦闘があったみたいな話も兆しも無いが、うちらの遠征隊を三度も皆殺しにするような奴が一人の奴にやられるとも思えん」

 すると黙っていた別の小さく若い男が口をはさむ。

「俺はあいつだと思う。車の中を見ようとしたんだけど、窓はよく見えないしなんとか目を凝らしてみるとドアの内側にワイヤーが取り付けられていた、無理に開いたりするとブービートラップが起動するように仕掛けられてるんだ。とんでもなく用心深い女なのは間違いなし、あの街の主だっていうならなおさら納得だ」

「そうだな。しかしこの話が本当であるなら、これまであの女は一人で街の侵入者を皆殺しにしてきたことになる、全く恐ろしい話だ」

「だが今回はなんとしてでも奴が街に隠しているであろう、残しているのであろう物資を我々が奪う。今もあれだけ高性能な車と万全な装備を揃えているんだ、奴の残した隠れ家にはもっとあるんだろうな」

「だがどうする、聞いて答えるような女にも見えんぞ」

「それでも手はある」

 そう言いながら遅れてリビングに現れたのはこのホープヴィレッジの支配者、ウィリアム・ゲンズブールだった。

 鋭く刻まれた切込みのように吊り上がった口端、穏やか過ぎるがゆえに気味の悪さを滲ませる彼の笑みが、ランタンの揺らぐ光に照らされていた。


 ――


 とある民家で怪しい密談が行われている時、同じ月が見下ろす街の診療所の外でニーナは一人煙草を吸っていた。

 薄く青く見える月明かりに照らされたニーナの手元で唇に挟まれた煙草の火が赤くぼんやりと光る。指で挟まれた煙草が唇から離れると大きなため息とともに紫煙が口から漏れて広がった。夜空を仰ぎ見るニーナは虚ろな目をしている、何処か思考がまとまらず、意識無き肉体だけが繰り返されてきた習慣を実行しているかの様。

 灰になって崩れ落ちる煙草の端がフィルターに向かって行き短くなる、そしてニーナは火が指に触れて皮膚を微かに焼き始めていることにぼんやりとした頭で他人事のように反復してから地面に落とした。

 照明が全て消された診療所は既に静まり返って廃墟然としている。数人の患者は寝静まっており、診療所を任された者も控室で仮眠をとっているのか静かに作業をしているのか今のところ動きは感じられなかった。

 硬質な黒いハンドライトだけを光源として廊下を照らしながら進むニーナ。

 辿り着いた病室のドアを開き、先程まで廊下を見つめ降ろしていた視線を持ち上げる。

 するとそこには夜風に揺らぐカーテン、窓の外に広がる星々を従えるように連れた月と空、そしてそれらを見つめるレイの姿があった。

 上体をベッドの端に預けて下半身だけを毛布で覆っている、ゆめうつつな様子で静かに外を見つめていた彼はドアの開かれる音でゆっくりとニーナの方向を見る。

 彼の起きた姿を見て目を見開き、喜びと驚きで混乱の果てに固まった彼女の体。

 それが滑稽に見えたのかそれとも単に会えたことがうれしかったのか、レイは彼女を見ると微笑んだ。

「こんな夜中ですけど、おはようございます」

「もう大丈夫か? 体は、腕は痛むか? 医者を呼んでこようか?」

 ニーナは呼びかけながら駆け寄ると彼の体を見回し、異常がないかと必死な形相で調べる、彼の体に触れる手は必死であるがゆえに容赦なかった。

「ニーナさんくすぐったいって、大丈夫ですから。痛みも今は殆どないですよ」

「本当? 本当に大丈夫? 無理してないか?」

「大丈夫ですって、それにニーナさんなら僕が無理しているところで簡単に見抜くでしょ?」

 実際彼はもう怪我の痛みを感じていない様子だった、だが薬の影響か精神的なものかで体には力が入っていない様子だった。笑みをこぼしながらくすぐったそうにするレイだったが、実際はその感触すらあやふやなものであろうと彼女は感じていた。

「よかった……でも、本当にすまなかった」

 ニーナはあのマチェットを振り下ろした瞬間の肉を切り裂き、骨を断った感触、ほとばしる血液の水音。そしてレイの悲痛な叫び声が頭の中にこべりつき、決して忘れることも目を背けることもできなくなってしまっていた。彼の叫び声が耳の中で響き続けて脳を引き裂く、彼の涙を溢れさせて痛みに歪めたあの顔が今も脳裏に浮かぶ。

 鮮明に蘇る血まみれのレイと血を吹き出す右腕、そして自分が握りしめた血をしたたらせるマチェット。謝罪の言葉を繰り返すニーナはその光景を幻想の中で見つめていた。目尻から伸びる涙が筆で線を引く様に頬へと延び、ベッドに落ちて小さな染みを作っている。

 するとレイがゆっくりと弱々しく左手を持ち上げ、ニーナの頬に触れると涙を親指で拭った。

「ニーナさんこそ、大丈夫でしたか?」

 彼の温もりを取り戻した肌、その感触で幻想を振り払うことができたニーナはレイと見つめ合う。そして一瞬の静かな間をおいてから、先程より激しく大量に涙を溢れさせて彼の懐に顔をうずめて声を上げながら泣き始めた。 

「不安でしょうがなかった、君が死んでしまいそうで。何度も体を調べて体温や血圧を測るとそのたび冷たくなっているようで、それが恐ろしくて恐ろしくて……」 

 子供を慰める母親のようにニーナの頭を撫でて何度も頷きながら彼女の言葉を聞く。

「僕はとても感謝していますよ。それに、本当によくがんばりましたね」

 ニーナは彼の手から伝わる確かな体温、毛布越しに伝わる体の温もりを感じられることが幸せで、嬉しくて喜びに荒れ狂う情動を抑えられない。息をするのも苦しそうな嗚咽と絞り出すような言葉、母の優しさを求める少女のような姿であった。

「君が死んでしまったら私は、私は一体どうすればいいんだ……何も思いつかないし、そんなことは決して考えたくない。でもあの時はそればかりが頭に浮かんでしまい、心が引き千切られるようで辛くてしょうがなかった」

「ニーナさんが僕を守ってくれているんです、死んだりしませんよ。それにどんなことがあろうと、例え僕が死んでも、ニーナさんが死んでしまっても。僕たちはずっと一緒です」

 月下の静寂と涙の混じる嗚咽の病室、二人だけの世界がそこにあった。

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