第4話

 薄暗いリビングに置かれた長テーブルの上には、短い筒に半分の輪がくっついたシルエットの白いコップ、乱雑に開かれて中にスプーンが立てかけられたひよこ豆の空き缶詰めが置かれている。そしてその上を白い煙が漂い流れる、それは頑強な鉄製防壁を閉じながらニーナが咥えるタバコの先端から生じていた。

 防壁をすべて閉じ終えたニーナは振り返り、防壁を背にタバコを一旦口から離して紫煙を横へと吹き捨てる。視線の先では湯気立つミルクの入ったカップを大事そうに抱えているレイが、ソファの上で足を曲げて座り込んでいた。

 大腿の上半分までを覆う程サイズが大きい灰色のシャツを着ている。

 まだ熱いミルクに息を吹きかけて冷まそうとするレイ、そしてそれ見つめるニーナの静かな目線。タバコを吸って自分を落ち着かせそうとしている彼女だったが、眉間にしわを寄せながら腕を組んで悩んでいた。

 レイは暗闇に怯え、孤独に怯え、感染者に怯え果ててしまう。それはもう彼の身を危険にさらし、それだけではなく、恐らくは彼自身が彼自身を殺してしまう程に恐怖が脳に刻み込まれている、ニーナはそれに気が付いたのだった。

 暗闇に突如直面してしまえばパニック障害の如く全身を痙攣させ、呼吸困難に陥っては窒息死に近づいていく。また彼一人の状況に陥れば、震えが全身を襲ってまた呼吸困難を引き起こす。それら全て感染者が原因であることは明白だったが、なおさらそれは解決の手立てが今の状況では見出すことが不可能であることを結論づけさせる。

 だがそれでも寧ろこれだけの症状で済んで良かったとも言えた。感染爆発の直後、人格の変質から記憶の欠如、失語症、そして自殺。そういった形で恐怖を受け止めた者も多く、かつてそんな人間が溢れ出したここサンフランシスコで治安維持活動を行っていたニーナも、数えきれないほど実際に目にしたのだ。

 ニーナは左手に握っていた空き缶詰めに吸い殻を放り込み、ごみ箱に投げ捨てると慎重な動きでレイの隣に腰を下ろした。

「ろくな飯を出せなくて悪い、私は料理がそんな得意じゃなくてな

 缶詰やレーションといった簡単で質素な食事で十分だと感じる彼女は手間のかかる料理をする習慣が無く、そういった物しか出せないことを謝罪する。

「いえ……」

「なあ、お前これからどうするつもりなんだ?」

 するとレイはミルクを啜るのを止め、俯きカップの中で揺蕩う真っ白いミルクを見つめたまま答える。

「……何も考えていません、すみません」

「あ、いや――そう、だよな……」

 言い出してからニーナは声調を弱くさせていく。彼にはもうどこにも行くところが無く、今後の展望が一切何も決まっているわけがないということに気が付いたのだ。彼女はそんな当然のことを真っ先に考え付かなった自分に呆れた。

「まあとりあえず今夜はゆっくり休んでくれ……」

 レイが空にしたカップをテーブルに置くとニーナが卒然と立ち上がる、その右手は腰のホルスターから突き出したグリップを撫でていた。

「ついて来い」

 彼は黙ってソファから腰を上げて二階に向かうニーナの後を追う、時折振り返る彼女の顔を不安げに見上げながら。

 やがて二人ははニーナがいつも寝るのに使う部屋に入った。そこは被害妄想に取りつかれて暮らしていた政治家とその妻が使うつもりで用意した、ダブルベッドの置かれた寝室であった。

 部屋の中心には毛布に雑誌と衣類が散乱したダブルベッド、壁沿いに三つのガンロッカーと大きな作業台が設置されて閉じられた扉が一つある。半分開いているガンロッカーの一つからは中のレミントン社製M870やナイツアーマメント社製SR25が覗き見え、作業台にはオイルやクリーニングロッドと一緒にアッパーレシーバーからボルトキャリアが引き抜かれたM4が乗せられていた。

 ニーナは部屋に入るとベッドの上を片付け始める。

「こんな状態でもいいなら、もし一人で眠るのが怖ければ私と一緒でも構わない。お前が大丈夫なら別の部屋もあるんだが」

 雑誌を寝台横のサイドテーブルに放り投げ、下着も含んだ衣類を鷲掴みしてベッド上から取り除いて振り返る。急いで片付けていたニーナは、いつの間に直ぐ傍に立って彼女のズボンを小さく掴んでいた彼と目が合った。

「一緒でお願いします」

「そ、そうか――」

 今は寝室の窓は全て防壁で閉じられている、物が散らかっていたベッドの上も今は片付けられて二つの大きな枕と一つのシーツだけが置かれている。

 ニーナは腰に差していたMEUピストルを枕の下に差し込んでから、既に光量を小さく調整された照明のボタンを押そうとした。するとレイが彼女の直ぐ傍に寄ってくる。

「あの……」

 彼が暗闇の中でなくとも暗闇を見ただけでパニックを起こしてしまうことを思い出す、しかし弱めているとはいえ外に漏れるかもしれない照明をずっと点けているわけにもいかない。ニーナは小さなランタンを用意しようかと考え始める。

「こんな夜中にライトを点けたままにしていられないのはわかってます。だからその代わりに直ぐ傍で寝ていてもいいですか?」

 彼にとっては暗闇自体も恐怖の対象だが、それよりも恐ろしいのは視界を奪われたことによって無力な自分がたった一人にさせられたような感覚そのものだった。感染者は暗闇に潜み、例え人間が一人でなくとも襲う。だが子供一人が暗闇に残されている時、感染者と出会った結果どういうことになるか考えるまでも無いが、考えたくもないことだ。

 感染者はその直接的な危険性だけでなく、人の心や生活にも暗い影を落とし、人間の生活から安らぎというものを確実にそぎ落としていた。

 照明が消されて真っ暗になった寝室、二人はベッドの上に横になって同じ毛布を掛ける。

 腕に髪が触れる程傍で彼と一緒に横になったニーナは、そのまま静かに目を瞑った。

 だが暫く経って彼女は不安の色を目に浮かべて寝れずにいた、背中をレイに向けたまま横たわる彼女はベッドの端で縮こまり、先ほどの自分の軽率な選択を小さく後悔していた。

 すると不意に、背中に何かが触れる感触に体をビクつかせる。慎重に彼女は背後に目を向けると、そこには胎児の様に小さく丸まったまま寝息を立てる、穏やかに眠ったレイが赤髪の頭を彼女の背中に擦り当てていた。

 数年ぶりの人と触れ合い、同じベッドで寝るということは彼女に安らぎを与えず、ただ戸惑いと怯えを抱かせた。そして無意識に振れていたMEUのグリップから離れた右手は自分の下腹部、そこにある古い傷に触れていた。

 

 ――


 視界が真黒く塗りつぶされている。それでも何故か、赤く充血した二つの眼球だけが暗闇の中に浮かんでいるは見える。さらにゆっくりと双眸の下から三日月のように薄汚れた横並びの歯が見え、その隙間から赤黒い血が流れだす、血液には気泡が沢山含まれてブクブクと、そして血液が混ざるグチュグチュという音が聞こえる。

 暗闇に浮かぶ目と口、それらからひたすら血が重力に引かれて見えない地面に落ちていく、血溜まりは段々と広がっている。ぼんやりと視線を下ろしていく、それは足元まで広がっていた。

 見下ろした瞬間暗闇に浮かぶ口が大きく開かれ、ほぼ円形で露わになる口腔、その中は舌が見えない程に血が溢れ、白い歯が際立って見える。口腔の奥から轟く咆哮、恐怖を一切含まない、ただ甚大な激情がこちらに向かって声という媒体をもって叩きつけられている。

 暗闇には自分の手も足も体も何も見えない、なのに自分の存在は認識できる、僕はここにいる。無いものは動かせない、意識がその場に釘づけにされる。

 咆哮を上げ続け、血を吐きながら浮かんだ目と口が近づいて来る。

 あるはずの無い全身に恐怖が行き渡って反応として震えが走る感覚、思考が崩れ落ちてただ恐怖という感覚だけに占拠され塗りつぶされる。

 ある筈の無い耳が鼓膜を揺さぶる叫びに痺れ、抜け落ちている筈の両目は力いっぱいに見開かれた。

 恐怖が全身を汚染し、精神を切り刻む。

 その瞬間大きな火薬の弾ける音が鳴り響く。 


 ―― 


 日差しが微かに差し込みやや明るくなった穏やかな寝室で、涙を流して目と口を限界まで開いたレイの口から信じられない声量と甲高さで悲鳴が噴出していた。

 その叫びを直ぐ傍で聞いたニーナは一瞬で枕の下から拳銃を引き抜きながら起き上がった、MEUピストルの銃口は絶叫を上げるレイの眉間に突き付けられている。グリップの付け根に位置するセーフティーが降ろされ、薬室に収まった初弾の四十五口径HP弾から伸びる射線が顔に突き刺さる。

 ニーナがその事実に気が付くまでコンマ数秒を要した、すると彼女は拳銃を急いで下ろし、素早く彼に覆いかぶさって上体を持ち上げつつ抱きしめた。

 彼の横顔に自分の頬を擦り合わせつつ声を掛ける、震えて汗にまみれたレイの体を抱く彼女の腕は力強かった。

「落ち着けお前は今安全だ、ここに私とお前以外何も居ない」

 暗示を掛ける様に彼の耳に言葉を送り続ける、激しいレイの鼓動は彼女の体をも揺らしていると錯覚するほどに激しかった。彼女はひたすら汗でべっとりと艶を帯びてうねる髪の頭を撫でつつ背中をさする。

 ニーナの目尻からも涙の乾いた跡が小さく残っていた、それは彼女が起きる前にできたものであった。

 やがて呼吸のペースが整い息遣いが落ち着く、それからも数分ニーナとレイは動かなかったが、レイが「もう大丈夫です」と声を出してやっと二人は離れた。

 ニーナは心配そうに彼の顔を覗き込み、髪を整えたりしながら様子を見ている。だがその仕草に彼が微かな赤面で反応するようになると、満足げな薄い笑みを浮かべてベッドから立ち上がる。それからMEUピストルを腰のホルスターに収め、寝室の窓に取り付けられた防壁を開く。窓から差し込む日差しに目を細め、ニーナはベッドから上体を上げたままのレイに視線を向けた。

「これから朝食前のトレーニングをするのに下へ降りるんだが――」

 彼女がそう言うとレイは急いで立ち上がって彼女の傍に立った。

「僕も行きます! それとあの……ありがとうございます、助けてくれて」

「あ、ああ。そうだな、まあ気にしないでくれ」

 ニーナはそう言われてやっと自分が何をしたのか再確認した。今まで他人と距離を置いて必要最低限以上の関りも持たず、自分のためにならないのであれば人助けであろうと極力さけていた彼女が、無力な少年を手厚く保護しているということを。

 地下のコンクリ―トの壁に囲まれた小さなトレーニングルームに入り、ニーナはスタンディング・カールや懸垂、逆さにぶら下がっての腹筋といったトレーニングを始めた。レイはその間トレーニングルームから出ないで、いくつか置かれたダンベルやトレーニング道具を物珍し気に見ていた。

 それからニーナがトレーニングを終えてから、レイはなんとか見つけ出されたサイズの合うGパンと薄い青のシャツを着て、ニーナと一緒に缶詰の朝食を済ました。

「銃は使えるか?」

「使えないです……」

 食後のタバコを味わっていたニーナがテーブルを挟んで不意に聞いた、レイは怯えた声でかぶりを振って答える。その目は恐怖の色を隠していなかったが、目を合わせたニーナも目尻を下げて悲し気な眼を見せた。

「いやいいんだ、まだお前は子供だししょうがない。まあ近いうちに使い方ぐらい教えてやれる」

「お願いします!」

 レイは今までに見せなかった積極的な態度で前のめりに声を出す。ニーナはその反応に小さな困惑を抱かずにいられなかったが、純粋に彼が元気を出したと解釈して薄い笑みを浮かべた。

「いつも私は警備の設備チェックを日課としているんだ、だから今日もそのために外へ出る必要がある」

 彼女がそういうと先程まで明るかったレイの表情に陰りが生じた、その変化を見ていたニーナの顔にも。

「当然それなりに危険だ、だからお前はどうしたいかと思ってな。一人で残っても……」

 彼女にはレイが一人でいることと、感染者の居る外に出ることのどちらが彼にとって最も恐ろしいか判別ができなかった。

「一緒に行きます」

 レイはハッキリとそう答えた。当然一人でいることが恐ろしいのもあったが、ニーナが感染者を確実に倒せる力を持っているのを目の当たりにしていたし、何よりそんな彼女の傍にいる安心感がどうしても彼には必要だった。

 二人は荷造りを済ませてゲートの内側に立っていた、ニーナは先日とは別のM4SOPMODⅡを背負い、レイは新しいバンダナをマスクとして口に巻いていた。

「この屋敷の周りはサンフランシスコの封鎖前から厳重に警備されていてね、感染の疑いがある人間はすぐに病院や収容所に送られたし、封鎖直後に出口に集まった暴徒や住人を街中の感染者が襲いに行ったおかげで少なかった、今もそれを維持している。私はここに住むことにしてからすぐに周囲の徘徊する連中を始末して、一応は安全を確保できたんだ」

 ニーナは得意げに防壁を前にして語る、外に出る前に多少は安心できる話をしておきたかったのだ。


「もちろんそれを今でも続けるのは楽じゃない、だから街中、沢山の住宅に設置した警備装置のチェックが必要なんだ。何か動きがあればシグナルを送ってくるセンサーシステムとかね、それが例え動物だとしても注意が必要なんだが、どうしてかわかるか?」

 レイは首を横に振る、心底不思議そうな顔で見上げた。

「連中は人が居なければゆっくりと徘徊したり、ただ静止しているんだが。動物を見つければ襲う、彼らは俗に言うゾンビじゃないから動物を襲って食べるんだ。理由はわからないが人間は嚙みついて感染させるだけなんだけどな、彼らのウイルスは人間を同じ感染者にする一方、動物に感染させると蛇の毒みたいに心臓を止めて殺す、そして食べる。だから彼らは動物を見つければ活動を再開して動き出す、動物が居れば追いかける彼らもいる可能性もあるので注意が必要というわけだ」

「動物は彼らと戦っているんですか?」

「当然だ、動物園から逃げ出した大型の獣や野良犬も生き残ろうと必死になって感染者と戦ってる。だが彼らも多くが犠牲になってる、なんせ嚙みつかれなくとも嚙みついて体液が体に入ってしまえば間違いなく死ぬんだからな。それで彼らもなるべくは感染者を避けている傾向があるし、逆に私たちにはあまり敵意を見せないようにもなっている」

 感染者が生きた死者というわけではなく、人間を基にした別の新しい生物として世界中に広がっていき、今では動物とその生存圏を争い始めていた。しかし感染者を食い物にする生物はおらず、ただ人間を減らして動物を食べる消費に徹しており、結局世界を滅ぼすであろうと人々は恐怖していたた。

「じゃあ行くぞ、後ろに乗りな」

 彼女の指示を聞いてレイは黙ってバイクの後部に跨る、ニーナはゲートを押し開いてからバイクを動かし、。ゲートを閉めて乗り込むとバイクを走らせる。

 それから二人の乗るバイクは軍用車やバリケードが散乱する元高級住宅街の道を駆け抜けていく、その風景をニーナの体にしがみつきながら眺めているレイの表情は不安が隠せないでいる。

 ニーナはその顔を見ることができなくとも、彼の細い腕ががっちりときつく自分の体に巻き付いていることからその不安は感じ取っていた。

「大丈夫だ、今日はそんな遠くまではいかない。お前も居るからな、ただ慣れてもらう必要はある」

 そしてニーナはとある住宅が立ち並ぶ通りでバイクを止めた。その通りは真っ直ぐと伸び街の中心部に向かう程坂が急になっている、それにバリケードや車で移動が困難なのはここも同じであった。

 通りの中央にバイクを止めて降りると肩からM4を外して両手で保持、それからレイに降りろと指示を出す。レイはおずおずとバイクから降りて彼女の直ぐ傍に立つ。

「ここは私の屋敷に繋がっている大きな通りの一つなんだ、それで通りの入り口には動体感知センサーと遠隔カメラ、それに通りに沿ってブービートラップやら地雷、火炎噴射装置がある。だから私の傍を離れずに、何をしているかよく見てな」

 そうしてニーナはM4のグリップを右手で握り、左手でチャージングハンドルを軽く引いてチェンバー内の金色に煌めく初弾を確認、それからフォアグリップとハンドガードの根本付近に握り直してローレディで保持したまま歩き出す。

「地雷ってことは僕たちがここを歩いても大丈夫なんでしょうか?」

「それはもっともな疑問だな。だがもしさっき言ったみたいに動物がここいらで動いていてそれで地雷が起動したら大きな騒ぎになってしまう、それだと逆にあの連中を呼び込むことになる。だから動体感知センサーで何かが来たことを知り、それから遠隔カメラで何が来たかを確認するんだ。それでもし最悪の脅威がここを駆け抜けていたら地雷を起動可能状態にして、そいつらを片っ端から木っ端みじんにして屋敷を守る。だが今のところそんなこともない、殆ど来るのはエサを探す動物か数体の感染者ぐらいだから吹き飛ばすまでも無く対処できてる」

「すごい、ですね……でもこんなに警戒して屋敷が安全なのに、何故他の人は居ないんですか?」

「それは……まあ、他に人がいないからこそ、ここまで用意できたってことだ」

 ニーナがどこかバツが悪そうに答えるのを見て。レイはこれ以上聞くのはよくないと、彼女はそれを望んでいないと肌の上をヒリヒリと緊張が走る感覚で悟った。

 それからニーナは仕掛けておいた幾つかの地雷の様子を確認、そして通りの端にまで歩いていくと動体感知センサーとカメラのバッテリーを交換して細かな汚れの除去などをした。その間レイは彼女の傍を離れなかったが、時折彼らの前に姿を見せる馬や犬に興味を示していた。

 街中では雑草が手入れをされぬままに生い茂り始め、道路や建物の壁にひびを入れている。廃車にも植物が絡みつき、街灯や看板も錆びた赤色から緑にその姿を少しずつ変えていた。

 そんな風景を見回して動物や面白そうなものを探していたレイだったが、不意にある疑問を抱いた。

「あの、なんで彼らって昼間にはあまり見かけないんでしょうか」 

 バイクを止めた大通りから少し離れた位置に倒れていた、動物の死体を調べていたニーナが声を出して答えた。

「私も詳しくは知らんが。連中は元々ライトとか人工の光、太陽光にも激しく興奮して暴れ出す習性があるんだが、どうも太陽の下にいて興奮状態が続き過ぎるのを本能的に避けようとして屋内に引き込んでいるみたいなんだ。だから得物を見つけたりしない限り暗闇で静かに潜んでいる」

 彼らは人間を見つけると激怒したかのような咆哮を上げ、限界まで興奮した状態で全速力で死ぬまで追いかけてくる。その勢いは普通の人間には真似できない、普通の人体からは考えられない程に常軌を逸した動きを見せて襲う。

 彼らの凶暴性は激情と興奮から生じるが、それがウイルスの大きな特徴だった。この作用によって人間が発症すれば激しく発狂し、限界まで狂気の怒りと激動で暴れ尽くして他者を襲い。また動物の体内に入ったウイルスは、その興奮作用によって心臓の活動を強引に止めて殺す効果に変わる。そして激しい反応と興奮は、光の刺激によっても引き起こされる。それは彼らにとっても重い負荷となるので、本能によって獲物が居ない時などは刺激の無い場所に潜むのだった。

「でも気を付けろよ。実際に人間を視界に捉えなくても匂いや音、他の感染者の叫び声とかで活動を再開するからな、暗闇で連中の目にでも光を当てれば一気に興奮して暴れ出す」

 そう言って彼女は立ち上がりM4を肩に掛け直す、動物の死体は感染者ではなくただの何の変哲も無い病気で死んでいた。

「やることは済んだ、今日は少し早めに戻るぞ」

「は、はい」

 それから二人はバイクに乗って屋敷に戻る。バイクを車庫に止めてから屋敷に入ったニーナが、玄関のすぐ横に置かれているガンロッカーにM4を立てかけて肩を回しながらリビングに向かう、するとレイが不意に背後から声を掛けた。

「あの、僕はここに居てもいいんでしょうか……」

 肩を回す動きを一旦止め、肩越しにレイを見るニーナだったが、何事でもない大した事でもないといった様子で答える。

「そうだなぁ、お前は南の安全圏に行きたいか?」

 レイは握った両手の指を絡ませながら少しだけ目を伏せ、か細い声を出した。

「ここに居たい、です……」

「お前が望むなら構わないさ」

 そして二人はスパムの缶詰と豆の缶詰による少し遅めな昼食を摂る。

 ニーナは実際のところ料理が苦手であり、レイに何かおいしいものを食べさせてやろうと思っても、自分の中でうまいと感じる缶詰やレーションを出してやる以外にできることがなく、彼女自身もそれを不甲斐なく感じざる負えなかった。

 そんな彼女は自分の前に並ぶ今まで一人で食べていれば十分に旨かった缶詰やレーションを、機械的に咀嚼して唾液と混ざり過ぎた不快な味を舌の上で感じながら見下ろしていた。

 しかしふと顔を上げれば正方形のテーブルの正面に座るレイが、勢いよくそれら調理されたとは到底言えない食事を口の中に掻き込んでいた。誰も急かさず時間が無いわけでもないこの状況で、そんな食べ方をすれば相当おいしく感じているのだろうと想像するのは難しくない。レイが頬を膨らませて必死に咀嚼し、食事を前にして生気を感じさせる姿にニーナは救われた気分にあった。

「普通の食事なんてここに来て久しぶりに食べました、もう二度と食べられないかと」

 普通の食事と称されてニーナは少し面映ゆく感じ、後頭部を掻きながら視線を逸らす。

「そ、そうか。やはりここまでその手の食料は見つからなかったか」

「国立公園じゃ人工物自体が殆どありませんでしたし。公園の管理者が使う小さな小屋や倉庫も荒らされていて、大抵そういうところには感染者も居たので……だからいつもは焼いた犬とかネズミばかりでした、それか老人の方が教えてくれた雑草です」

 到底彼ほどの子供に十分とは言えない食事であった。彼らは都心部を離れて自然の多いエリアであれば安全であり、移動も容易であると考えて旅の道として定めたのだが。それは同時に製造された食料が滅多に存在せず、生えている植物にも毒性があるものが少なくなく、動物を狩るのもまた音を立ててしまったりと簡単ではないので十分な食事がままならなかったのだ。しかも感染者たちは移動スピードも速く、また大きな音や大量の人の動きを察知して国立公園にも雪崩込んでくることになり、結局のところ安全でもなくなったのだ。

 レイが食事を終えると、タバコを吸いながら遠目に彼を眺めていたニーナが火を消しながらリビングからガレージに向かおうとする。

「少しバイクの様子を見てくるんだが、一人にしても大丈夫か」

 満足げに完食して舐めとられたスプーンを缶詰に入れたレイは不意を突かれて顔を上げ、咄嗟に答えた。

「は、はい大丈夫だと思います」

「そうか、ならよかった。もし何かあったら直ぐに呼んでくれよ」

 ニーナはそう言ってすぐガレージに向かい、つい大丈夫だと答えてしまったレイはただ一人リビングに取り残されることになった。

 それでも昨日よりは酷い発作にならず、少し体に震えはあるが動けない程でもなく、呼吸も比較的安定していた。そこで彼は立ち上がってテーブルの缶詰や食器をキッチンに片付けることにした、ニーナが後で気が向いたときに片付けるつもりだったそうだが、動いているほうが気も紛れると彼は思った。

 彼は片付けを終えると屋敷内を歩き回ることにした、まだこれからのことはわからないけれどこの家でしばらくは住まわせてもらうのだから、多少はどんなものか知っておくべきだと考えたのだ。またいつまでも彼女から離れる毎に、パニック状態になっているわけにもいかない、彼はそう自分に強く言い聞かせて歩き出す。

 リビングには正方形の大きなテーブルと二つの椅子、そして二人掛けのソファが大きなテレビと向き合った形で置かれていた。リビングからは裏庭に沿った大きな部屋があり、黒い重厚感漂わすグランドピアノが設置されている。それは部屋の隅に箱や機材、本を積み上げているニーナの屋敷の中では、少し際立って綺麗に保たれているように見えた。

 そしてピアノのある部屋からリビングを挟んだ反対側には、壁沿いにL字型で作られたキッチンがあり、冷蔵庫まで置かれているその風景はまるで昔と変わらないように見える。しかしシンクに並べられているのは缶詰とスプーンばかり、皿やナイフにフォーク、フライパンに鍋と一般的な食器から調理器具まで用意はされているが、使われている様子はない。

 レイの背丈を越える程の高さを持ったテレビ、テレビ台には映画のソフトが隙間を無くすように詰め込まれている。レイはそのソフトがニーナの趣味で集めたのか、それとも別の持ち主のものなのか少し疑問に感じつつ眺めた。

 リビングから廊下に出る。壁沿いに幾つか小さな机が置かれた廊下にはガンラックが設置された玄関と裏庭、車庫に続くドア、そして二階へのU字に作られた階段がある。階段の真下に当たる場所には壁に埋め込まれた物置らしきドアが見える、流石にニーナに断りもなく触るのは気が引けた、また外に出るのも不安だったので二階に向かう。

 階段に沿って立つ高い手すりを掴みながら二階に上がる。階段を上がってすぐの廊下からはニーナとレイが使う寝室と他の部屋が二つ、どれも扉は締め切られておらず少しだけ開いたままで中が覗き見える。

 花瓶の置かれた机と二人の寝室を通り過ぎて、入ったことが無い部屋の中をドアに触れず隙間から覗き見る。一つは普通の寝室らしくシングルのベッドが一つだけ部屋の中央に置かれている、ベッドの上にはニーナが寝室から片付けた雑誌や小物が移されて散乱していた。

 部屋には化粧台とタンス以外に折り畳み式のボックスがいくつも積まれ、この部屋は物置のような用途で使われているのかもしれないとレイは思った。半透明のプラスチックらしき材質で作られたボックス、レイが凝視するとどれも女性モノの衣類が詰め込まれ、中には下着だけがみっちりと詰められてハッキリと外から見えるボックスもあった。

 レイは慌てて目を逸らしてその寝室から離れ、一瞬周囲を見回してから次の部屋の中に目を凝らした。

 そこは壁紙がピンク色の物で統一され、少し小さなシングルベッドが置かれた部屋だった。他にはベッドの直ぐ傍に子供用の白い机、またとても低く装飾の多いタンスと、その上にはオルゴールが乗せられている。今までの部屋とは違い散らかってもおらず、ニーナの持ち物らしき物は一切見つからない。それでもレイは少しだけドアを押して部屋に近づいて見てみると、ベッドの上や机の上には白い埃が積もっていた。

 ニーナが不可侵とし、それでも無視しきれないかのようにドアは僅かに開かれたたまま、彼女もレイのようにその部屋を度々覗き見ていたのだろうか。

 レイは静かにドアを閉めつつ体を引いていく、そこには見るべきでない何かがあるのだろうかと黙考した。

 静かに一階に降りてリビングに戻ると正方形のテーブル席に座る、まだニーナは戻ってきていない様子だったが元の場所に居るべきな気がしたのだ。しかし先程まで頭の中で流れていた思考――何処を見ようか、これは何だろうか、そういった自然に浮かぶ考えが今は全く無くなってしまっている。すると耳を通じて脳に小さな物音や屋敷の外からかすかに聞こえる木か草、それか動物の鳴らす音が突き刺さるようだった。過敏に研ぎ澄まされてしまった感覚は雑音を無駄に拾い、視界に映るなんでもない物に対し、見間違いを生んで意識が大きく揺さぶる。それはやがて単なる外部の刺激から、彼の内部から沸き立つ不安や恐怖、恐ろしい妄想の類にすり替わっていった。

 膝をそろえて椅子に座り俯くレイ、その手は腿の上できつく握りしめられ、見開かれた目はただ小さな眼振を続ける。

 レイはドロリとした思考の沼地に沈み始めていたが、背後でブーツが重々しく床を叩く音を聞き、意識は強引に地上へと引き上げられて彼は振り返った。

「大丈夫だったか?」

 レイにとっては一時間以上の時間が経っていると感じていたが、心配が拭い切れなかったニーナは三十分に満たない時間で戻ってきていたのだった。

「はい、何ともありませんでしたよ」

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