第3話

 ニーナと少年が跨るバイクがごみや残骸、廃車で散らばった通りを駆け抜けていく。

 激しく後方へと流れていく風に赤髪を荒々しく揺らされ、少年は周りを見渡しながらニーナの背中から手を回して彼女に掴まっていた。

 日が暮れ始めた空は赤みを帯びて、街の路地や室内、車の影といった部分がその黒さを増していく。

 少年が眺めている風景が工場や雑居ビルが立ち並ぶものから、小洒落た店やマンションに変わり始めていた。道路に放置された車も大型トラックやトレーラーではなく、SUVや小型の車に変わる。転がっている白骨化しかけた死体が身に着けている服もそこはかとなく明るい色。ガラスが打ち壊されて持ち出される途中の商品が店前に散乱する食料品店や服飾店、遠目にはごみか商品は見分けがつかないものを積んだカートが道路に鎮座している。

 やがて段々と道路を封じる様に乱雑な横並びで放置されたパトカーが目につくようになり、それが道路を端から端まで満たしている。バイクはなんとかその隙間を抜ける、すると今度は軍用車がパトカーの代わりに道路上に姿を見せ始める。さらに元々は街に無かったのであろう防壁や頑丈なゲートが現れる、しかし少し上方に目をやってよく見るとそのエリアは高級住宅街だった。多くは二階建てから三階建てで車庫は当然としてほぼすべてはプールがある、それら家自体にも高い塀とその要所要所には監視カメラ。

 ハリウッドスターや政治家、資産家、IT業界の大物といった人物の住処であろうというと誰が見ても思う程、大きく頑丈で一つ一つが要塞の様に立ってその住宅街を構成してた。

 バイクは一度も立ち止まることなく川を流れる水の如くスムーズに散乱した通りを駆け抜けていく。

 動く感染者の姿は全く見なくなったが、路上に倒れた死体は幾つかまだ残っていた。

 時折大きく開けた通りで炭になりかけた人型の焼死体がうず高く積まれ、それが死体の焼却処分をしていた場所なのは明らかだが、路上にもまだ死体が残っているというのは処分しきれなかったか、処分する者が居なくなったあとの死体なのか区別はつかない。

 やがてバイクは左右に長く広がる防壁に繋がったゲートの前で停車した。後部に乗った少年にはよく見えなかったがゲートの向こうからは大きな建物の屋根が少し飛び出して見えた、家の一つを守る防壁なのだろうが左右を見ても端が見えず相当な面積を持った豪邸であることが伺える。

 ニーナは少年の手を黙って軽く叩いて合図し、バイクから降りるとゲートを開いてバイクを中に進めた。

 元々あった門のすぐ外に作られたゲートを抜けるとそこは大きな庭園が広がっていた、ゲートから繋がっていく舗装された道の先には巨大な屋敷がそびえ立っている。

 緑の芝生やその他色鮮やかな植物が確かに見て取れるが、殆どの芝生を押し潰し磨り潰している重々しい通信設備やコンテナが多く鎮座しており、またも姿を見せる軍用車にバリケードで覆い隠されていた。所々には三脚で固定されたM2重機関銃が静かにその存在感を示し、その足元には弾薬の箱に爆薬の箱がいくつも置かれていたが、不思議なことに五十口径の大きな空薬莢は見当たらない。

 ニーナはゆっくりとバイクを走らせて車庫に向かい、再び降りると今度は車庫の縦に開くシャッターの横に備え付けられたボタンを押し込み、シャッターが開き切るより早く少年が乗ったままのバイクを中に停車させた。車庫の中は車四台分のスペースがあり、二台の車が灰色のカバーを被せられて止まっており、あとの二つは道具が少し散らばっているだけで乗り物は置かれていない。

 そして彼女は仁王立ちしてバイクの後部に跨ったまま動かない少年を静かに見据える、少年はその視線を黙って受け止めつつ怯えた眼で見返した。

 ニーナは一瞬思案した仕草を見せてため息をつく、そしてジェスチャーで親指を車庫から屋敷内に通じるドアを指示した。

「さっさと降りろ。そしたらあのドアで家に入って待ってるんだ」

 少年は言われた通りにバイクから恐る恐る降り、ドアに向かって行った。

 ニーナはバイクの座席についた異臭漂う汚れを見てもう一度深いため息をし、背後で鳴ったドアの開く音に振り返る。

 ドアの前で少年が倒れている、しかも明らかに全身で痙攣を起こしていた。

 彼女は急いで少年に駆け寄って抱き上げる、少年は目を見開き異常な激しさで全身を痙攣させて、言葉にならない声を漏らしていた。しかも呼吸は安定せず不規則に吸っては吐き、呼吸そのものが苦し気で息をするごとに胸を大きく張り上げて震わせている。

「おい一体どうした! ?」

 その少年の異常な状態にニーナも焦り始める、このままでは呼吸困難で意識を失って窒息死もあり得た。

 ニーナは少年を抱えたままふと顔を上げる、ドアが開いた先に照明が付けられていない真っ暗闇が広がっていた。彼女は背中と膝裏に腕を通して持ち上げ、急いで屋敷の中の照明を点けてからリビングルームに向かってソファで少年を横にした。彼女は一瞬どうすれば良いかわからず体を硬直させてしまう、しかしすぐに彼の体を調べて外傷はなく見る限り予想される酷いショック状態だけが問題だと確認。すると横たえられた少年にニーナは上半身で覆いかぶさるように抱きしめ、彼の顎を自分の肩に載せたまま背中をさすり、静かに冷静な声でなんとか語り掛ける。

「落ち着け、もうここは暗くないし連中も居ない。だから落ち着いて、ゆっくりと深呼吸しろ」

 滑空を見つめたまま激しく不規則な呼吸を続ける少年、ニーナはその背中を撫でながら繰り返し呼びかけた。すると段々と呼吸が落ち着き始めて激しい息遣いが聞こえなくなる、それでもニーナには少年の激しい鼓動が伝わってきていた。

 ニーナは少年の呼吸が安定してからもしばらくは姿勢を変えないまま、語り掛けつつ背中をさする。

 少年はすでに精神を限界まで擦り減らしており、感染者は当然として彼らが潜んでいるのを想像させるような暗闇から、最早そういった存在を連想させるものすら見かけるとパニック状態になってしまうのだった。

 ニーナは彼の精神状態を推して知ると何とも言えない、悲しみと哀れみを滲ませた表情で彼を抱きしめていた。

 それからある程度安定するとニーナは少年から離れ、改めて向き合うことになった。

「もう大丈夫か?」

 少年は彼女の問いに答えようと口を開くが、つかえたかのように喉を蠢かせるだけで思うように声が出ない。

「うあ、あぁ……」

「大丈夫だ、落ち着けって。無理に声は出さなくもいいから」

 すると少年は口を閉じて黙って頷く、ニーナもそれを見て満足した様子で小さく笑みを見せた。すると彼女は卒然と立ち上がって両手を腰に当ててやや大きな声を出す。

「よし、とりあえず気分を変えるとなるとシャワーが一番だな!」

 少年は突然何事かと見上げ、少し首を傾げて彼女の見せる明るい表情を見つめた。

 ニーナは赤ん坊を抱え上げるかのような気軽さで少年を抱え、そのままバスルームに連れて行った。

 バスルームは四畳程の広さでガラスケースに覆われたシャワーブースと三人は座れそうな大きなジャグジーが室内に設置されていた、大理石の白い床が艶やかに光り、入り口の付近に取り付けられたアルミのバーには真っ白いタオルが掛けられている。

 目を真ん丸に見開いてバスルームを見渡す少年と、それを軽々と抱えているニーナ。

「立てるか?」

 すると少年は下半身に力を込めるような仕草を見せるも、彼女の腕の中で足を震わせるにとどまる、少年は見上げて首を静かに振った。

「ダメか、まあしょうがないな。ちょっと待ってろ」

 ニーナはしゃがみ込んで少年を床に降ろすとシャワーブースに入ってダイヤルを回してお湯を流し出す、シャワーブース内が白く曇っていき湯気がブース外にまで漏れていく。少年は腰が抜けた状態のまま座ってただ黙って、初めて人間を見たサルの様に興味津々といった様子でやや前屈みにその様子を見つめている。そしてニーナは革製のジャケットを脱いで床に放り投げるとタンクトップ姿になる、Gパンを履いた腰にはホルスターに差し込まれたMEUピストルと二本の予備マガジンが突き出していた。

「脱げって言っても少し、難しいか。まったくしょうがない奴だな」

 冗談めかして大げさにため息をつくと少年のパーカーを脱がし、さらにその下のTシャツから肌着をいともたやすく引き剥がしていく。少年はオロオロとまともな反応をする間もなく上半身を裸にさせられた、咄嗟に体を覆い隠してダンゴムシの様に体育座りで丸くなった。

「何してる、恥ずかしいのか?」

 少年は自分の体を抱きかかえる様に腕を回して黙って彼女を見上げる、特に首を振って拒否をするわけでもなく反射的にとった態度であった。

「まあいいさ、少し我慢しろよ」

 するとニーナは五歳児を育て上げた母親の如く巧みな動きで少年の服を引き剥がしていき。口をわずかに開いて白い歯を微かに垣間見せ、目も見開いた少年は全身の服を一枚残らず脱がされることとなった。

 それから彼女は猫でも扱うように全裸になった少年をシャワーブースまで運び、床に座らせると勢いを緩めたシャワーを浴びせ始めた。

 垢や煤、その他の汚れでくすみ脂ぎっていた少年の肌が洗い流されていき、ボディソープを染み込ませたスポンジで擦られることで白い、白人の中でも目につく様なシミの無い柔らかな白肌が露わになる。同じく油で束になりつつ固まっていた赤髪も流されていき、ボサボサだった毛は一斉に降りて少年の目を丁度覆い隠す。

 ニーナは飛び跳ねる水で自分が濡れることも気に掛けず、ただ黙ってお湯を全身にくまなく緩やかに流していた。

「そういえば、まだ名前を聞いてもいなかったんだが。やはり喋るのは辛いか? 私はニーナ・ハーロウだ、ニーナでいい」

 彼女は呼びかけながら少年の赤い頭にお湯を流していき髪を指でとかす。

 少年は黙ってシャワーブースの床に膝を抱えて座っている、だがその表情にはもう緊張や恐怖といった色は無く、ただ放心しているといった様子だった。

 ニーナはただ静かにその横顔を眺めている、濡れた髪から水が垂れ落ちて顔を伝って顎からさらに落ちていく。ぼんやりとした表情だが少年の汚れが落ち始めた顔は端正なものだった。睫毛も長く卵のような形で大きな目は幼さを滲ませていた、見開いていればさぞ明るい幸せそうな良い表情になるのだろうとニーナも胡乱な表情で思った。

 暫く見つめていたニーナだったが、不意に少年が首を回して互いの息が届くほどの距離で彼女に向き直ると一瞬焦ってしまった、しばらく他人にここまで近づいたことが無く、つい距離を詰めて見つめてしまっていたことに気が付いたのだった。

「レイ、レイモンド・ハーズビルム」

 まだ声変わりもしていない高い声、しかしまだ声を出すこと自体がうまくできないのか声に震えが含まれている。ニーナはほんの僅かに、眼前のレイですら気が付かない可能性もあるほどの微笑を浮かべ、返答の代わりに頭の上に勢いよくシャワーを浴びせた。

「じゃあレイ、早速だがお前の体をくまなくしっかりと洗うぞ。全く酷い匂いだ」

 それからニーナはさらにシャンプーやボディソープを駆使してレイの体を隅々まで洗っていった、今まで怯えて刺激に対する反応が乏しかった彼が、羞恥と驚異で慌ただしくうろたえる姿にニーナはハッキリと口端を上げた笑みを浮かべていた。

 レイは綺麗に洗われた体でお湯を満たされたジャグジーバスに体育座りで浸かる。 

 鮮やかな赤色の髪が艶やかに煌めき、毛先から水が滴り落ちる。顔は少し不安げながらも頬をピンク色に薄っすらと染め、シャワーの流れる音が漏れる真っ白に曇ったシャワーブースに向けられていた。

 シャワーブースのすぐ外にはアルミ製の銀のスタンドが立っており、真っ白いタオルとバスローブがその上に置かれていた。

 するとシャワーブース内からシャワーの音と一緒にニーナの声まで聞こえ始める、その声にレイは一瞬体を跳ねさせて顔を逸らすと視線を泳がせた。

「こんなご時世に電気が通って、しかもお湯が出るなんて不思議だろ。ここは自家発電機もあるし太陽光パネルだってあるんだ、元々はちょっと被害妄想の入った政治家の豪邸だったんだが当の本人はもう居ないんでね。勿体ないから私が使わせてもらってるんだ」

 ただ固まってニーナの声に耳を傾けるレイ、そんなことを露とも知らず彼女は話し続ける。

「お前は何処から来たんだ、よく無事だったな」

 彼は湯船に顎先を浸しながら何処か遠くを眺める目で答える。

「ミルバレー、安全圏がサンフランシスコから南にあると聞いてここまで来ました」

 シャワーの流れる音が止まぬ中、間を置かず何気ない世間話のような声色でニーナはさらに言葉をつづけた。

「ミルバレーか、都市もそうだろうが道中の国立公園は相当危険だったろう」

「……はい」

 レイは一瞬間をおいてから短く一言だけ答えた、その時の記憶を思い出したくないのか、それとも既に十分感情を揺さぶられたのか。あからさまに力の無い返答にニーナは考えを浮かべるが、何の役にも立たないと考え直して彼女の長い金髪の埃や汗と一緒にシャワーで流し、忘れることにした。

「だが運が良かったんだな、それか率いていた人間が優秀だったのか」

「多分、運が良かったんだと思います」

 その言葉にフッと小さな笑い声を漏らしたニーナ、それをかろうじて聞き取ったレイの表情は決して明るくない。

「それはまた、ちょいと辛辣だな。何故だ」

 まるで笑い事ではないと言わんばかりに素早く、やや怒気が含まれているようにも聞こえる声で返すレイ。

「街を出発した時に比べて、ここに辿り着いた時の人数はもう半分以下だったので」

 ニーナの先程の素早く軽やかな声は帰ってこない、そしてただ一言。

「そうか」

 ニーナの相槌を最後にまたもバスルームから声は消え、ただシャワーが流れて床にぶつかる音だけが響いていた。

 それから靴がフローリングの床で滑ったような音を鳴らしながら、多面的にカットされたクリスタルガラスのハンドルが捻られてシャワーが止まる。少年が水面から顎先を離した水の跳ねる音も聞こえた。

 真っ白に曇ったシャワーブースのドアが開いて湯気が漏れる、レイは咄嗟にシャワーブースから視線を外し反対側へと顔を向ける。それからドアが開かれて裸足が床を踏みしめるぺたりぺたりという音が耳に届いた。

 暫しゆっくりと瞬きを繰り返していた彼は意を決して振り返る、ニーナが丁度シャワーブースの傍で背中に回していたバスローブを閉じたところだった。彼女は振り返り流し目でレイを見つめるとその視線を外さぬまま、ブースの中から右手で水滴を垂らすセーフティの掛かったMEUピストルを掴み取り、左手は別のタオルで潤い艶やかな金髪を拭く。

 首には黒いゴムのサイレンサーで淵が覆われた銀の認識票がチェーンで下げられ、体を拭く動きで殆ど音も無く揺れていた。 

「着替えを持ってくる少し待ってろ」

 そう言うとニーナはバスルームを出ていき、レイ一人がバスタブに浸かったまま取り残される。体の小さな動きで波立つ湯船、落ちる水滴、それら寂しげな音だけが満ちた。

 やがて湯船に浮かぶ波紋が大きく広がり、その数を増やしていく。少年は先程と同じように表情をこわばらせて見開いた目で視線を動かせず、ただ体を小さく震わせ始めた。

 バスルームを出たニーナは素早く全身の水滴をぬぐい着替えを済ませる。上半身は黒いタンクトップ、下にはカーキパンツにブラウンのブーツを履いている。腰のベルトには三時の方向にMEUピストルの刺さったホルスターと十時の方向にマガジン二本を差し込んだポーチが装備されている。

 重々しい靴底が階段を叩く音を響かせ、それから絨毯が敷き詰められた廊下を歩くニーナ、廊下の壁際に白く小さな引き出し付きの台が置かれて花瓶も飾られている。茶色の木製であるドアを開くとそこは大きなダブルベッドと化粧台、丸テーブルと椅子が置かれた部屋、そこは元々この屋敷を立てた男の妻が使っていた部屋だった。この部屋を含めて屋敷には四つのベッドルームがある。

 彼女は部屋の中を進んでいくと壁に取り付けられた折り畳み式の引き戸を開く、中のクローゼットにはタンスと掛けられた服が下がっている。タンスの引き出しをいくつか開けると適当に服を物色する。ここはニーナが集めた衣類を適当ながらも管理する部屋として使っていた。

 彼女は灰色のTシャツと女性用の下着であるボーイズレッグを掴み出す。一人で過ごしこれからもそうするつもりだった彼女は男性用の衣類の持ち合わせがなかった。

「まあいいか」

 そう一人呟くと選んだ衣類を掴んでバスルームに向かう。

 するとバスルームで湯気立つ浴槽に浸かったレイが小さく体を震わせたまま体育座りしていた、ニーナは慌てて彼に駆け寄り湯船に手を突っ込んでその温度と彼の体温を確認する。しかし先程と変わらず温度は湯気が立つほどに高く熱かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る