第1話

 灰色に澱んだ空、恐ろしくどろりとした灰色の雲が中途半端に混ざり合ったその空からは太陽の脆弱な日差ししか届いてこない、そんなか細い光に照らされているのは最早一割ほどしか残っていないゴールデンゲートブリッジの残骸。サンフランシスコに残っているのは端だけであり、断面の焦げたケーブルが何本もぶら下がっている。

 今ではもう通れないゴールデンゲートブリッジのサンフランシスコからの入り口には青い通行止めが並べられ、放棄された軍のハンビーやトラックが止められている。そして車はどれも血で汚れ、弾痕が穿たれていた。

 それに自動迎撃用として銃器を装備したロボットが死体の如く静かに鎮座している、それらは弾を切らした上で、激しい殴打を加えられたような損傷を受けていた。

 昼でありながらも薄暗いサンフランシスコ市内は閑散として誰も出歩いていない、どこの道路もゴミや残骸に赤黒く固まった血がある。

 また至る所の壁や車体には”裁定者”という単語が数えきれないほどに、英語や中国語、スペイン語と多くの言語によってその名が書かれていた。

 2030年代に裁定者と呼ばれる存在が世界に撒いたウイルスはワクチンも抗体も効かず、ひたすらその感染規模を広げていった、だが最も恐ろしいのはその感染力ではなく、発症した後の感染者であった――。

 ビルが立ち並ぶフィナンシャルディストリクト、かつて人類の発展を象徴するかのように人々で溢れ栄えていたその街、今では人も動物もいない、煙も炎も無い、ただただ静かに立ち並んでいる。他の場所と同じように道にはゴミと廃車、そして時折見つかるのは腐敗して骨格だけになった遺体。

 アスファルトに長く続く黒いシミがある、それはアスファルトの小さな隙間に血が流れ込んで固まっていったもの。シミを辿っていくと一頭の牛の死骸があった。

 死んで二日ほど経った死骸、皮は全く残っておらず、内臓も根こそぎ失われて空っぽになった骨に多少の肉がこべりついている。

 肋骨を覆うように残る腐り始めている赤黒い肉にはギザギザとした噛み痕がある、それはハイエナか狼によるもの。そしてさらに奥の太くしっかり死骸の中心に伸びている背骨、そこにも肉がある程度残っていた。同じように背骨の肉にも歯型が残っている、だがそれは切り裂いたというよりは引き千切ったような跡、そしてその形はほぼ半円を描いている。

 その形状は猿かゴリラ、または人間に見られる特徴だった。

 幾つかの建物やビルには生物災害を示す、三つの円が中心の円を囲んでいる記号が描かれたビニールシートで覆われ、入り口を封じられている、しかしその殆どは固まった血が付着してこじ開けられた跡がある。

 ビル群に囲まれた道路はどこもかしこもが路駐された車で狭くなり、加えて所々ではバリケードで道を封じている。だがそれもまた破壊されて突破されたものが多かった。

 高い壁の如く両側で立ち並ぶビルに囲まれた道路で一台のバイクが走っている、それは黒いスズキのGSX-S1000、全体的にコンパクトなデザインながらも一部は鋭利な印象を与えている。

 バイクに跨っているのは若い白人の女性。黒いジーンズを履いて上半身にはダークブラウンの革製ジャケットを羽織っている。大腿にはM4用マガジン二本と1911用マガジンが三本刺さった黒いレッグリグが巻かれている。腰のホルスターに四十五口径MEUピストルが納められ、スリングで繋いだ重々しいコルト社製M4A1を背負っている。

 ミディアムショートな髪の色は日光を受けて煌めく金、側頭部から垂れる髪は左側だけがやや長く、前髪と一緒に激しい空気の流れでなびいている。

 目はスポーツタイプのサングラスで隠され、薄くピンク色の細い唇は横一線に閉じれられている。整った顔立ちで鼻梁は歪みなく高く、真っ直ぐに伸びている。

 上半身でしっかりと付けられた筋肉はジャケットに負けることなく、内側から押し上げてその存在を示している。

 女性の乗ったバイクは通りを抜けていくがやがて徐々にスピードを落としていき停車した、するとバイクに跨ったまま肩から掛けていたM4を降ろして構える、彼女が銃口を向ける先には六人の男女が固まって立っていた。

 AIMPOINT製CompM5を載せて、アンダーレイルにフォアグリップが取り付けられたM4A1をしっかりと構えて、ドットサイトを覗き込みつつ先頭に立つ男の顔に照準を向けてニーナ・ヘデュルスは声を上げた――。

「そこを動くな! 何者だ、ここで何をしている!」

 すると声を聴いてすぐに先頭に立つ男は手を上げ、男の背後に立つ者たちも男に続いて両手を上げる。彼らは各々がプラスチックかバンダナでできたマスクを被った十代の子供から二十歳の女性、また七十前後であろう老人までもいた・だが誰もがボロボロの服を着て大きなリュックを背負っていた。子供でも老人でも無い者たちはバールやバット、古い小さな三十八口径のリボルバーを持っている。

「私たちは生存者だ! 安全圏を目指しているのだが、この街で物資と休む場所を探している。どうか銃を降ろして欲しい!」

 先頭に立つ男が声を張り上げる。後ろに並ぶ者たちは各々の武器を握り締めて、不安な表情を目元で示しながら周囲に視線を巡らせたりニーナを凝視する。先頭に立つ男は一瞬振り返って落ち着かせようと黙って頷く、そして彼女に向かって歩み出した。


「止まれ!」

 しかしニーナが厳しい口調で歩みを止めさせた、そして視線を外さぬままに素早くバイクから降りる。右手でレシーバーのグリップを、左手でアンダーレイルのフォアグリップをきつくしっかりと握って銃を構えながら、手を上げる生存者の集団に向かっていった。

 そしてあと十数メートルといった距離まで近づくと、彼女は照準を先頭の男以外にもあからさまに向けていき、そして改めて男の顔に向けた。

「お前がリーダーか?」

「似たようなものです!」

 覚悟を決めたような表情で男は答え、CompM5サイト越しにニーナと目を合わせる。

「なら全員に武器を捨てさせろ、そうすれば話ぐらいなら聞いてやる」

 リーダーの男が振り返る。

「武器を捨てなさい、話す必要があります」

 そう指示された者たちは一瞬動きを止めて顔を見合わせたが、やがて地面に武器を置き始めた。武装してなかった子供は大人の脚にしがみ付き、怯え切った表情でニーナの顔と周りの大人の顔を見上げる。

「話をして頂けますか?」

 ニーナはM4を微かに下げてサイト越しにではなく直接男と目を合わせた、もう銃口は向けていないが銃はローレディで握られてすぐにでも発砲できるような状態。

「ああ、お前らは安全圏に向かっているんだな? 家族か?」

「いえ、私は国連の元職員で、彼らは旅をしている中で助け出した人たちです」

「国連ねぇ……」

 彼女は数年ぶりにその単語を聴き、小さく馬鹿にしたように鼻で笑う。その小さな仕草にリーダーの男は気が付かなかった。

「それで、避難場所と物資が欲しいと?」

「はい、この通り体の弱い者や女子供が多く、食べ物も足りていないのです。それにもうそろそろ夜になってしまう、安全な寝床を見つけたいのです」

 リーダーの男が言葉を発する間、後ろに固まった者たちは肩を寄せ合い、フードの中からどんよりとした目を向けていた。帽子を被った老人が激しく咳き込み、隣立っていた女性が背中をさすっている。

「この先に消防署がある、今は誰もいないし物資も殆ど残っていないが夜を過ごすなら大丈夫だ」

「ありがとうございます、それと――」

「あんた、もしかして私に物まで寄越せって言うんじゃないんだろうね?」

「すみません、ほんの少しでいいんです。分けていただけないでしょうか?」

「一体何のつもりか知らないが、そんな人数を自分の意志で引き連れるんなら食い物の都合ぐらい考えておけ、甘く見るな」

 怒鳴り声というわけでもないが、怒りを含ませた声が彼らを怯えさせた。

 リーダーの男は何も言い返せず、ただ少し視線を逸らしてから謝罪する。

「す、すみません」

 ニーナは心底軽蔑した表情を向ける、それは苦虫を噛み潰したような不愉快極まった様の顔の眉間に皺が寄せられている目つき。

「でもどうです、一緒に行きませんか? 安全圏に行けば武器や銃を持って出歩く必要も無くなりますよ」

「物資がダメなら私自身ってか?」

「そんなつもりじゃ……」

「あそこは安全圏なんて言われてるがまだ建造中だぞ、しかも仕切っているヴィジランテの連中が圧制を敷いてるとも言われてる」

「けどそこがもう人が暮らせる最後の都市ですよ、選択の余地が私たちにはありません。どうです?」

「断る、理由は多いがまず銃を持つことに抵抗なんか無いし、お前らと一緒に行動するなんて真っ平ごめんだ」

「確かに、人にそこまで求めるのは我儘というものでしたね、すみません。それでは私たちは消防署に向かいます、ありがとうございました」

 これ以上話し合っても相手を怒らすだけだと悟ったリーダーの男はそこで諦め、後方の人たちに指示を出すと武器を拾って、慎重にもう目を合わさないまま彼女の横を通り過ぎていく。その間ニーナは決して鋭い目つきの顔を、彼らに向けるのを辞めなかった。

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