第26話
走っていく車が小さくなるまで見届けた後、僕は背伸びをした。巡礼の旅に同行する従者は一人でなくてはならないが、それは特定の個人が最初から最後まで同行しなくてはならない、ということを意味しない。今回のように交代しても構わないのだ。なお、僕は従者役を降りたわけではない。実のところ、そもそも、この魔国領でコムギが祈りの儀式が終えるまでの間、一旦の休暇をとる予定だったのだ。
南極でのことだ。僕が車の運転をしていたところ電話がかかってきた。車を停めて電話に出たところ、相手は帝国の王だった。王は僕の叔父であり、育ての父でもある。
「おお、王様かー、どうしたー」
『桃くんや、巡礼の旅が順調かと気になってな。何か困ったことは、ないかな?』
「特にねーな。あるとすれば、コムギの相手が大変なことぐらいかな。あははは」
コムギは隣の助手席で、鼻ちょうちんを出しながら眠っている。
『だったら丁度いい。桃くんも羽を伸ばす時間が必要じゃろう。これから訪れる魔国領で休暇をとるといい』
「休暇?」
『こちらから、本来従者を務めるはずだった将軍を魔国領に向かわせた。彼と連絡を取り合って待ち合わせて、祈りの儀式が終わるまで彼と従者役を交代し、桃くんは観光でも楽しんでおれ。将軍のぎっくり腰の容態が良好らしく、魔国領にいる間くらいは従者を務められるそうじゃよ』
「いいのかー? 僕だけが休暇をもらって、コムギが休暇をもらえないと知ったら、怒ったりしないかな」
『かまわん。かまわん。どーせ、コムギちゃんは旅の間もゴロゴロしとるだけじゃろうからのぉ』
「あははは。たしかにあいつ、いつもごろごろしてるから、毎日が休暇みたいなもんだな」
『一方、桃くんは毎日ワゴン車の運転をして、疲れも溜まっておることじゃろう?』
「そんなに疲れが溜まってるわけじゃねーんだけど」
『疲労というものは、表面上は現われなくても確実に溜まるものじゃ。知っておるか? 疲労の対処法はな、疲労を感じた時ではなく、疲労を感じる前に講じる必要あるということを』
「予防みたいなものかな。病気になってから対処するんじゃなく、病気になる前から予防をしておくような感じ?」
『そうそう。なので、桃くんに気分転換をしてリフレッシュしてもらいたい。それが、今後の旅の安全運転にも繋がるんじゃよ』
「だったら僕、お言葉に甘えてリフレッシュさせてもらうぞー」
『するとよい。運転手に無理な勤務をさせて、高速道路で事故を起こしたバス会社のように、我々帝国も運転手である桃くんに無理をさせて、事故を起こされてはかなわんのじゃ』
「わかったぞ、王様。じゃあ、将軍と連絡を取ってみるぞ」
『それまでは引き続き、コムギちゃんの面倒を頼むぞ』
等々の話をしていた。
将軍が運転する車を見送った僕は、改めて何をしようかと迷った。休暇をとるといっても、普段から意図して休暇をとったことのない者には、どのようにして過ごせばいいのかが分からないのだ。帝国にいた頃の僕は、歴代の『道具使い』のジョブ持ちがそうしていたように日々、魔道具の開発と研究に明け暮れていた。しかし、ここではそれを行うだけの設備がないので、できない。
僕は途方に暮れた。まさに、アレだ。これまで仕事一筋に生きていた企業戦士が、定年退職を迎えた後、突然、膨大な自由時間が与えられたことに対して、一体どのようにして過ごせばいいのか戸惑ってしまうという、アノ現象である。なんということだ。僕は頭を抱えた。まだ、若くして、定年後の企業戦士と同じ悩みを抱くとは。
そんな時、背後から声が聞こえた。
「おほほほほほ。悩んでおられるようじゃのう。何に対して悩んでおるのか、かいもく検討もつかぬがのう。従者よ」
「え?」
振り向くとそこには、全身をローブで包んだ何者かが立っていた。声は若い女のものだ。そして肩には鳥がとまっていた。帝国領にいるホトトギスと呼ばれる鳥に似ていた。これが僕と後の旅の仲間となるホケとの腐れ縁が始まった瞬間でもあった。
「あの……あなたは一体?」
「わらわのことを覚えておらぬのか? 人間の王からの話が通っておらぬのか? しかたがないのぉ。どれどれ、オッパイをみせよーか。そーれ、思い出せ!」
女はガバッと前のローブを左右に開けた。そこには豊満な胸があった。下着がこれでもかという大きさの胸を、ボヨーンとガードしていた。
「痴女かっ! あんたは痴女かっ!」
「おほほ。ピンク色の冗談じゃ」
「本当に見せちゃ、冗談になってねー」
「ではでは、顔を見せようか。そーれ、今度こそ思い出すがよいっ!」
ローブに身を包んでいた何者かはフードをとって顔を見せてきた。ものすごい美女である。しかし僕の記憶にはない。
「うーん。えーと、もしかして人違いでは……?」
「なっ! なんと、フィアンセの顔を忘れるとは、何事じゃ。結婚の約束までしたというのに! およよよっよ」
「それなら完全に人違いっ! 僕にフィアンセなんていないから。結婚の約束なんてしたことないもんっ」
「おほほほほ。そう言うだろーと思って、契約書を持参してきたのじゃ。わらわは悪魔。そなたは既に悪魔であるわらわと契約書による契約を取り交わしておる。その意味が分かるか? 悪魔と交わした契約は絶対なのじゃぞ」
「なに言ってるの、あんた?」
「ほれ。ここじゃ。これはソナタの母印じゃ」
悪魔と名乗る女は僕に紙切れを見せてきた。確かに母印が押されていたが……。
「えーと。かなり小さい母印だね。契約書の文字がみんなひらながで……しかも、クレヨンで書かれている。黄色だから読み難いぃぃー」
「10年前の今頃、わらわもソナタも子供だった。丁度その頃、手元には遊びのために持っていた黄色のクレヨンしかなかったのじゃ」
「そんな昔のこと覚えてねーからっ。どおりで、あんたの顔に覚えがないはずだっ」
「10年前、わらわが帝国領に行った時にじゃ。わらわが迷子になっていた時、ソナタが道案内をしてくれたではないか。わらわはとても嬉しかったのじゃ。感激したのじゃ。そのお礼として、わらわが嫁になってやると言ったら、ソナタはにっこりと了承したぞ? その時、わらわが即席で作った契約書に、ソナタは母印を押したではないか」
「なんで子供が、朱肉を持ち歩いてるんだよー」
「悪魔のたしなみじゃ」
「そ、そうなの?」
「いつどこで契約を結ぶかわからんからのぉ。大事なことだから、改めて言うが、悪魔と契約を結ぶということは、絶対的なものを意味するのじゃ」
「知らんわいっ! お互い子供だったら、なおさらだ! というか、なんで僕がここでワゴン車から降りることを知ってたんだよ」
「それはじゃな……」
丁度その時、電話がかかってきた。帝国の王からである。
「もしもし……あ、王様か……え? 休暇にはベッピンさんが必要だろって? ええええー? ん? なになに? 魔国領の者に、休暇中の僕のホスト役を任せただって? いらねー。王様、まじで、そんなのいらねーから。そもそも、そいつ、僕の婚約者だって言ってるぞ! ……え? もう会ったのかって? おう、僕がワゴン車を降りるのを待ち構えていた……って王様が場所を教えてたのかよ! ……うん? は? え? なになに? エッチは結婚してからにしろって? しねええええって。そもそも、いきなり婚約者だなんて言ってるキチガイだぞ! ん? へ? ……だからエッチはしねーって!」
僕は一方的に電話を切った。
「おほほほほ。ソナタは恥ずかしがり屋さんじゃのお。かまわん。かまわんぞ! では、この契約書は反古にしよう。破棄しようではないか」
そう言って、悪魔の女は契約書をビリビリと破った。
「あれれ? やけにあっさりと破り捨てたね。僕はその方が助かるけどさ。実際、子供の頃といえど悪魔と契約を交わしていたみたいだし」
「その代わり、巫女が塔での祈りの儀式を終えるまでの間、わらわがソナタに魔国領を案内することを認めてはもらえぬか? 結婚の約束を破棄した代わりにじゃ。それくらいならよかろう?」
「……それくらいなら別にいいけど」
「だったら契約書に母印を押すのじゃ」
「えええー。そんなことでもいちいち契約書に母印を押すの?」
「当たり前だのクラッカーじゃ」
「なんだよ、それ……」
悪魔の女が用紙を僕に手渡してきた。仕方がないので一読した後、母印を押した。悪魔の女はその用紙を見つめて愉快そうに笑った。
「おほほほほ。聞いていた通りじゃ。人間は交渉をする際、1度目は実現不可能な要求をし、2度目に実現可能な要求をすれば、2度目の要求は聞き入れてもらいやすいのだと。これぞ、交渉術」
「最初から魔国領を案内するって言えばいいじゃねーか。でも……僕はおそらく、そんなの必要ないと拒否していただろうね。そう考えると、あんたは策士だなー。そもそも、どうして、そんな交渉術を使ってまで、僕のホスト役をしたかったんだ?」
「おほほほほ。実は、わらわも10年前の契約書については後悔しておったのじゃ。仮にソナタが超絶ド変態な青年に成長していたならば、どうやって契約を解除しようか、とな。契約書は双方の合意がなくては破棄できん。しかし、その一方で気になってもおった……ソナタという存在を。なので考えた。契約を一時的に破棄して交流し、その上で伴侶に相応しいかを見定め、気に入り合ったならば再度、契約を結び直せば良いと」
「つまり、婚活をしたいわけね? 早い話」
「およよよ。まあ、間違ってはおらんよ」
「悪いけど、僕は未成年だし、まだ誰とも結婚する気はねえから」
「その時はその時。もう一つの交渉術を使うまでじゃ」
「なにそれ?」
「人間の男は結婚はしたがらなくても、エッチはしたがると聞く。これは種の保存のための本能的な欲求じゃ。なのでコンドームにこっそりと爪楊枝などで穴をあけておき、子供ができた、責任をとって、と結婚に持ち込むという女の交渉術があるのじゃ」
「こええよ。自爆技じゃん! というか、僕はあんたとエッチなんてしねーから。そもそも、その交渉術の中身を僕に言った時点で、もう使えないじゃん」
「おほほほほ。これまでの僅かな会話から、ソナタにはこの交渉術を使うまでもないと判断したのじゃ。つまり、手の平の上で転がせるチョロい男だと判断したわけじゃよ。だからといって勘違いせんでおくれよ。チョロイからといって魅力がないというわけではない」
「馬鹿にされているのか、褒められているのか分からないなぁ……。でも、男ってなんだかんだで、女の手のひらの上で転がされることには、悪い気はしないんだよね」
「おほほほ。転がしてやるぞ。クセにさせてやる。さあさあ。立ち話もなんじゃ。わらわが魔国領を案内しよう。魔国領は今、観光業に力を入れておる。きっとリフレッシュしていただけると思うておるぞ」
「僕もわずかな会話でだけど、言い難いことも、はっきりと言えるあんたを気に入った! さすがは悪魔! 案内を頼むぞっ!」
「ピーピーピー」
女の肩の上で、鳥が鳴いた。女がパチンと指を鳴らすと、なんと召喚獣『ネズミタクシー』がどこからともなく、やってきた。この召喚獣は図鑑で見たことがある。上位に位置する悪魔は『召喚術』というものを使える。『召喚獣を召喚する』ということは、別次元に住んでいる特定の生物を現世に呼び出す、ということを意味しない。『召喚術』とは無から新たな生命を創り出し、使用を終えた後、再び無に還す、という『術』のことであり、超超超超超超超ぉぉぉ~高等な技術でもあるのだ。そんな術を使えるということだけで、彼女は悪魔としてかなり高い階級に所属していることがわかる。僕たちはネズミタクシーに乗り込んだ。
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