但馬皇女─月の煌めきが、あまりに眩しかったから

第02話 雪を溶く熱 【大法螺葦原国史】

 堕胎に関する胸糞が含まれます事、ご注意下さいませ。


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 物心ついた時には、人妻でございました。

 いえ…誰も私が、もう既に誰かの妻となっている事など教えてなどはくれませんでしたが、御母様が亡くなった時に、五十重いおえの叔母様の元ではなく、高市たけち御異母兄おにい様の邸宅に引き取られたのは、そういう事でしたので、“言わずもがな”な事だったのございます。


 飛鳥浄御原きよみはら京で過ごしていた頃の事は、もう記憶も朧でございますので、真はどうであったかと尋ねられましても、しかとは解りかねますが、高市様の邸宅は、それはそれは広く果てしなく、高市様のお住まいになる身舎もやへ参るにも、輿に乗らねば到底行きつけぬようでございました。


(あれは、どなたの邸宅であったのか…)

 と、思い返しても解りかね、

(もしかしたら私は、結局のところ、高市の御異母兄様の管理なさる邸宅の敷地の内から一歩も出る事がなかったのかも…)

 とも思える程なのでございますが、童女の私は、長屋ながや様を初めとする、沢山のお兄様方に遊んでいただけるのが、行儀作法や筆の稽古等を繰り返す日々の中での、楽しみの一つでございました。


 ただ、お兄様方とお遊びをする時に、長屋様がいらっしゃらない時はありませんでしたが、当の長屋様と仲良くするのは憚られました。それというのも、他のお兄様方が、私の手を引かれたりするのは、ただただ、微笑ましいようにご覧になり、他の大人の女性の方々と談笑なさってらした御名部みなべ様が、長屋様がそうなさりますと、それは恐ろしいような瞳で、私をお睨みになっていらっしゃったからでございます。


 御名部様の瞳の冷たさを知ってか知らずか、変わらず私の手を握られようとする長屋様が、私に手を伸ばすより先に、私を引き寄せて守って下さったのは、穂積ほづみのお異母兄様でした。


「但馬は女の子なんだから、僕達と同じようには走れないよ。それに、長屋の細腕じゃあ、但馬にもしもの事があっても、こうやって支えられないだろう? 但馬の事は俺に任せて、お前は、もっと体を鍛えた方がいいな。いくらおつむが良くても、それだけでは御父上様大海人天皇のお役には立てない」


 私を横から掠め取られ、穂積様にそう言われた長屋様は、悔しそうに唇を噛み締めておいででしたが、年上の穂積様の体格が、より逞しいのは、火を見るより明らかでございましたので、穂積様の腕から、無理に私を引き離すような事はなさりませんでした。


 御父様が御隠れになり、もがりなどの儀式や、様々な慌ただしい出来事が続く中、私は初潮を迎えました。それは、領巾ひれの様に軽やかだった身体が、たっぷりと水気を含んだ衣に代わってしまったような重苦しいものでした。


「もう、になられたのですから、軽々しくお出かけになるものではありません」


 侍女からそうたしなめられ、私は、誰かの元を訪れる事も無く、また、誰かが訪ねて来るでもなく、いえに籠り、障りがなくとも、領巾であった身体に戻れる筈も無く、重い身体を引き摺る様に、無為に日々を過ごしておりました。


 何故、その夜、私がそうしたのかは、今となっては解りません。敢えて言うならば『月の煌めきが、あまりに眩しかったから』。


 几帳きちょうの向こう側で眠る侍女達を起こすのは忍びなく、私は一人で室内を抜け出して、濡れ縁へと出たのです。冷たい夜気やきに身を委ね、軒先から月を眺めていると、それと知らぬ間に、身体はすっかりと凍えてしまっていて、冴え冴えと尖る意識とは裏腹に、身体の方は、指一本さえ動かせなくなってしまっておりました。


 私は、降り立たれた月読つくよみ様の思し召しに従ったのでございます。


 私が、

「静かにしないと、鬼に捕まってしまうよ」

 とのお言い付けに従わず、穂積のお異母兄様に愛しんでもらえる嬉しさに、ついはしゃいでしまったのが、いけなかったのでございます。


 “誰が”とは解りませんが、恐らくは、私のはしたない声を漏れ聞いた侍女の誰かが、御名部様。それから、高市のお異母兄様に御しらせしたのでしょう。高市のお異母兄様の身舎へと連れていかれた私は、それはそれは恐ろしい形相をなさっていた高市様に、初めて頬をぶたれました。


「人妻の身で男を通わすとは! なんとふしだらな真似をしたんだ!」


 私は、ぶたれた勢いのまま床に倒れ込みました。高市様のお顔は、真っ赤に茹ったようになっていらして、背中からは湯気が立ち上っているようでした。

 高市様の後ろには、御名部様と長屋様。それから見知らぬ女性の様な男性がおりまして、更にその後方では、侍女達が、身を竦めたり、耳打ちし合ったりしながらも、一応に、私を蔑む様な目で見下ろしておりました。


御名部様は、

「恐ろしいこと。ええ、ええ。この娘は、お父様をすらたぶらかした、あの鎌足の孫ですもの。その娘達は、大海人天皇を誑かし、その孫娘ともなれば、誰彼かまわず、誑かさないといられない…もう、そういう血が流れてしまっているのですよ。この娘が幼い頃から、その毒牙を長屋に向けるのではないか? と、心配で、心配で…」

と、さしばで顔を隠したり、長屋様の背中を抱いたりしながら、そんな事を仰っておりました。


 高市様が、倒れ込んだ私の元へ、一歩、踏み込まれた後、私を立ち上がらせて更に…としようとしてらしたのを、止めて下さったのは、その見知らぬ男性──葛野かどの王様と仰る方でした。


 私は、葛野様の住まわれる邸宅の北ノ舎へと送られました。葛野様は、泣き濡れる私を、優しく慰める様な事はなさいませんでしたが、

「恋人に文なり送るというならば、届けさせますよ」

 と、仰って下さいました。


 ┌────────────────────────────┐

 │秋の田の穂向ほむきの寄れるかた寄りに君に寄りなな言痛こちたくありとも│

 └────────────────────────────┘

(通釈:秋の田で、風になびいて稲穂が片寄るように、世間で悪く噂されようとも、貴方に寄り添っていたい)



 ええ。そうです。

 この時の私は、いきなり人妻だとか、不貞だとかと罵られ、もう何も考える事が出来ず、ただひたすら(穂積のお異母兄様にお会いしたい)との想いをしたため、葛野様の御心遣いに感謝さえしていたのです。ですが、この歌が、私は、自分に決まった方がある事を知っていながら、穂積様と不倫をしていたという、決定的な証拠となってしまっていたのです。

 ええ。私と穂積様以外に、私がどなたとお逢いしていたかを知る者など、いらっしゃりはしなかったのです。


 そんな事になっているとも露知らず、愚かな私は、穂積様からの御返事を待ち続けておりました。ですが、文を託してから、それほどの日を待つ事なく、葛野様は、穂積様が、私との罪の禊に近江の志賀の山寺に遣わされる事が決まった事を告げられました。


 私は、葛野様に縋りつきにほうの胸を掴んで、文を届けてくださるようにお願い申し上げ、葛野様は、それを快諾して下さいました。


 ┌────────────────────────────┐

 │おくれ居て恋ひつつあらずは追ひかむ道の阿廻くまみ標結しめゆへわが背│

 └────────────────────────────┘

(通釈:後に一人残されて、貴方を思い恋に苦しむくらいなら、いっそ貴方を追いかけてゆきます。だから愛しい貴方。道の角々に標をつけておいて下さい)



 私のしたためた文を受け取ると、葛野様はそれを持って私が籠められている北ノ舎を出ていかれました。

 この舎は、まさに私を籠める為に建てられたような舎でございました。高床でありながらきざはしもなく、階のある身舎もやに渡る為の濡れ縁に置く簀子すのこは、所用のある時以外は取り外されて、身舎側に置かれており、私は、厳しく監視されました。

 室内にある物といえば、文台ぶんだいむしろ。心を慰める美しいものは何も無く、濡れ縁まで出たところで、無表情を装いながらも、私を汚らわしい物でも見るような冷たい視線を送る舎人達の目に晒され、到底、穏やかに外の景色を眺める事などできず、室内の突き上げ戸の明かり取りから、空を仰ぎ見るほかありませんでした。


 日中は、誰かしらの侍女が侍り、夕餉を終えると、灯明ごと膳が下げられ、唯一つの出入り口である妻戸は外から閉められて、突き上げ戸からでは、月を仰いで穂積様を偲ぶ事も出来ず、もう筵に横たわるしか何もできる事はありませんでした。


 ガタッ


 その音は、突然、聞こえました。

 とろとろと、夢とも現とも知らぬ場所に駆け出した私は、穂積様が結わえて下さっている筈の標を探していたところを、月明かりの照らす、閉ざされた舎に引き戻されてしまいました。


 すぅ~っと、戸口の方から、私の頬を撫でる冷りとした風が通っていきました。


 カタッ


 私は、もう一度、駆け出したいと思っていたのに、文台のある足元から、ぽっと灯る何かを感じました。そして、私に触れる熱が、舎の中に誰かがいる事を知らせたのです。


「クッ」


 その笑い声は、けして穂積様の口から漏れる声ではありませんでした。

 私は、私に触れる手から逃れる為に、掌と膝を使って壁まで這い、壁まで辿りついたところで、壁を登るようにつたい、やっと半身を起こしたところで振り返り、そうしてやっと私を触る手の主の方に顔を向けたのです。


 そこにいらしたのは、葛野様でした。

 彼は、私が無様な獣の様に床を這う間に、私の眠っていた筵の上で胡坐をかいたようでした。そうして、私の身体の脱殻ぬけがらがそこにあるかのように、掌を広げ、指の関節を動かしておりました。


 今は、直接、触れられているわけでは無いにも関わらず、それが、私を反芻している事は明らかでしたので、私は、得も言われぬ恥ずかしさで、堪りませんでした。


「やっぱりまだ堅いね。…でも、穂積とたっぷり契っていたせいかな。以前の、膨らみでもないものとは全然違う。うん、まあ、これなら…いいかな」


 葛野様はそう独りちられ、ようやく私自身を見て手招きをされました。


『これなら契ってやってもいい』

という旨の事を仰る葛野様は、以前、私の肌に触れられた事があるような口ぶりでした。ですが、私には、そのような時があった記憶は無く、私を愛おしんでくださったのは、間違いなく穂積様以外にはおりませんでした。


 私が、最初は小さく、やがて大きくかぶりを振りますと、眉間に皺をよせて、すくと立ち、不機嫌を隠そうともせずに、ずんずんと近寄って来られ、私を見下ろすと腕を掴み、立ち上がらせました。


「夫が『契る』と言ってるんだ。妻なら夫の手を煩わせないようにするもんだろ。…ちっ。まだまだ、全然だ。面倒臭いなぁ」


 私は、頭が真っ白になりました。


(夫? 妻? 私が葛野様の妻? 葛野様が私の夫なの?)


「きゃあっ」


 私は、葛野様に筵の上に転がされました。頭が混乱していたせいもあったのでしょうか。何かみぞおち辺りから、こみ上げてくる苦い物があり、私は、それを、もう一度飲み下す事が出来ず、筵の上に吐き出してしまいました。ですが、吐き出したはいいものの、それでも納まる事は無く、私は、苦い物の全てが胃の腑から出ていってほしくて、舌を出して、うめいておりました。


 私の後ろを、葛野様が通り過ぎて出ていかれ、しばらくすると、侍女達がわらわらと起きてきて、私の背中をさすり、筵を片付け、着替えさせてくれました。


 私は、赤子を宿しておりました。


 それから後、葛野様が私の前に姿を現す事はありませんでした。私は、一縷の望みを赤子に託しておりました。私の胎の中の赤子が、穂積様の赤子である事は、違えようの無い事実でありました。

 もしかしたら、この赤子をかすがいに、穂積様の正室になれるかもしれない。

 正室は無理でも、妾にならなれるかもしれない。

 妾にもなれなかったとしても、この赤子が無事に生まれれば、私は、この赤子だけをよすがに生きていく事ができる。


赤子を身籠っていると知れてからは、私は、自分の身舎へ返されました。これまで気づかなかったのですが、私の身舎は、葛野様の邸宅の真後ろにあり、葛野様の邸宅を母屋もやとするならば、私の身舎は、葛野様の母屋の北ノ対屋でありました。

 そして、更に言うならば、私達の邸宅は、高市の異母兄様の邸宅の敷地内にあったのでございます。


突き上げ戸の向こうでは、いつの間にか、雪が舞っておりました。

私は、自分の膨れて張ったお腹の上に、掌を重ね置いたり、撫でまわしたりして、穂積様に、この標を目指して帰ってきてほしい旨をしたためた文を、送る事はできぬだろうか。と、考えておりました。


初めて見る顔の侍女でした。

その侍女は、周囲を伺うように、こっそりと寝台のある壁代かべしろの内へ入ってきました。


「私は、穂積様のお母上であらせられる大蕤おおぬ様にお仕えする侍女でございます。大蕤様は、但馬皇女様が、穂積様の赤子様を宿しておられる事をお知りになり、このままでは、但馬皇女様が身二つになられると、赤子様を儚くさせるのではないかと、御心を痛められ、是非、但馬皇女様を匿いたいと、私を遣わされました。私の身を知らしめる証たる物はございませんが、私を信じ、是非、私と共に、大蕤様の宮に御出おいで下さいますよう、お願い申し上げます」


(穂積様のお母様が、私を匿って下さる)

私は、一も二もなく、その侍女を信じてしまいました。

輿では目立つと言われ、私は、籠の中に籠められました。

どこをどう通って舎を出て、そして、どこまで運ばれたのか…私は、今までになく長い距離を揺られておりました。二人分の身体の重みを支えているせいか、ともすれば眠ってしまう私は、この時も、いつの間にか、すっかりと寝入ってしまっておりました。


そのいおりに着いた時、もう夜も更けっておりましたので、『大蕤様にご挨拶するのは、明日が良い』と言われ、夕餉を頂戴すると、たちまち睡魔に襲われ、私は、また眠りにおちてゆきました。外では雪が舞っておりました。


私を目覚めさせたのは、流れる水音と凍える様な寒さでした。ぶるりと身体を震わせ、半身を起こすと、私は、襦袢姿のまま、雪を筵にしておりました。周囲を見渡せば、庵の屋根の下のひさしに座る葛野様と、女盛りに見える女性が、睦まじく、つきを酌み交わしていたのです。


葛野様の姿を目にし、しばし呆然としておりますと、半身を起こした私に気づいた女性が、葛野様の袖を引き、私を指さしました。葛野様は、私を一瞥すると、それは何でも無い事かの様に、女性に向き直られたのです。


女性は、庇から妻戸を潜って室内に入り、侍女達を引き連れて、別の壁の妻戸から私の傍までやって来られました。侍女達の中には、私をここまで連れて来たあの侍女の顔もありました。侍女達は女性の横を通り過ぎ、よってたかって私を羽交い絞めにしました。女性は、私のお腹を見ながら近寄り、指先で円を描くようにお腹を触りました。


「本当にくびりたきは別の命じゃが、仕方がない」


ぐるぐると外側から内側に向けて描く円は小さくなり、やがて指はへそへ至ったのです。


「…かれども、是に流るる血にも恨みの一滴がある事は否めぬし、何より、もうこの世に未練は無いと思うていた私を、優しゅう引き留めてくれた葛野からの供物。あのの降った三途の川に見立てた川の音が聞こえるか?」


女性は、そう言い終わると、私の臍の穴から指を抜き、きびすを返していかれました。空から雪の舞い散る中、私は侍女達によって、無理矢理、川の中へと連れていかれたのです。そして、決して堪えきれるものでは無い痛みが胎を襲い、白い夜着の裾が、赤黒いような色に染まっていきました。

 この世の穢れを何も知らぬ、舞い散る新雪の様な吾子。それを溶かしたのは、降る雪を呑み込み、薄氷の欠片さえ流れる、私の身も心も凍えさせた熱でした。


 ┌──────────────────────┐

 │人言ひとごとを繁み言痛こちたおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る│

 └──────────────────────┘

(通釈:人が噂するので、私は生まれて初めて夜明けの川を渡って帰ります)



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 後書


自主企画参加用に書いたつもりが、内容をよく読んでおらず、登場人物や粗筋まで決まっていたので、参加を断念。orz

同タイトル募集企画だと思ってしまった。



(私の妄想の中の)鬼畜な葛野王を、ついつい気に入ってしまい、書いてしまいました。

もう少しで、又、…だった。危ない×2

庵に住む女性は…あの女性です。

って、どこに手を出しとんじゃい!って怒らないでください。



念の為に書いておきます。

葛野王と但馬皇女は、男女の仲にはなってません。

但し、葛野王は、但馬皇女の初潮後、彼女の寝所に三夜通ってます。

但馬皇女は、初潮により重度の貧血になり、侍女が葛野王を寝所に連れて来た時には、ぐーすか寝てました。葛野王は葛野王で、当時の但馬皇女の身体が未成熟だったので、その気が失せた。って感じでしょうか。

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