十市皇女─死の妄想
第01話 間違いなく君だったよ 【大法螺葦原国史】
壬申の乱から6年目の四月七日。
その日は、倉橋川の上流に建てた斎宮から三輪山に向かい、
❖◇❖◇❖
乱の後、十市皇女は、大友天皇の遺児である
およそ4年振りの父娘の対面であったが、両者の間には、稲妻の
「赦す」
と、
大海人皇子の宣言に、緊張の糸が緩んだ十市皇女は、はらはらと涙を零しながら、しゃがみこみ、『けしてお母さまの足を離してはいけません』という言い付けに従い、十市皇女の裳ごと、両手で彼女の足にしがみついていた葛野王の小さな体を抱きしめ、歓喜の声と共に、滂沱の涙を流し続けた。
他の一切の近江朝廷側の臣を助命しても、絶対に摘み取らねばならない、小さい命だった。それを大海人皇子は、十市皇女の命を懸けた懇願と、高市皇子の提言を受け入れたのだった。
この瞬間から、葛野王は、皇子の位から葛野王と呼ばれる事になる。
❖◇❖◇❖
高市皇子は、
大海人皇子には、十市皇女の母の
高市皇子には、
十市皇女と葛野王は、大方の戦後処理が終わると、高市皇子の邸宅で暮らす事になった。高市皇子を監視責任者とした軟禁である。邸宅といっても、後に引っ越す事を前提に急拵えで造られた、
別舎の
葛野王の口に匙を運ぶ十市皇女の姿を、高市皇子は、にこにこと、手酌の酒を呑みながら、ただ見つめていた。
椀の中が空になる間際、
「十市は、やっぱり綺麗だなぁ」
と、高市皇子は、うっとりとした目で口走った。そう言う高市皇子に、十市皇女は、眉根を寄せて、ちらりと一瞥した後、再び、葛野王に視線を戻す。辛うじて葛野王に顔を見せる時には、笑顔を繕った。
葛野王が最後の一匙を嚥下すると同時に、高市皇子もまた、
「さぁ、やろうか。おいで」
と、にこにこと笑顔のままで、十市に右手を差し出した。
十市は、口をあんぐりと開けた。
高市皇子の監視の元、同じ舎で暮らす様に言われた時から、大海人皇子に耳打ちしていたのは、この事だったか。と、予感はあった。だが、こんな性急に求められるとは、思ってもみなかった。
「ちょ、ちょっと待って下さい。まだ、葛野が…」
そう言って、葛野王の両肩を掴む。そうする気は無かったが、彼を盾にする格好となった。
そうした十市皇女に、高市皇子は、初めて不機嫌の色を漂わせた。しかし、その色はすぐに霧散し、叱られた犬の様にしゅんとなった。
「すまない。つい。グズグズしていると、又、大友に十市を盗られる気がしたんだ」
俯いて、いかにも反省しています。と、言わんばかりの言い訳をしたが、俄かに、口角をぐいっっと引き上げ、
「そうだね。もう大友は、死んだんだから、十市を盗られる事は無いんだ」
と言って、呵々と笑った。
部屋の中に、寝台などという洒落た物は無い。高市皇子が運び込ませた、幾つかの藁袋が土間の端の一角に積み上げられており、どうやら、そこが寝所であ
った。高市皇子は、灯明を持って寝所近くの板間の床に置くと、即席の寝台の上に、ごろりと横たわり、袋を
「流石に、ね。本当なら、この国の頂点に君臨した筈の女を、を、板間に転がすわけにはいかないだろう。と、思ってね」
と、未だ葛野王の肩を掴んだままの十市に目を向けて、にっこりと微笑んだ。
葛野王は、母親が小刻みに震え、怯えている事を感じとりはしたが、四歳の子供である。夜も更け、腹も膨れれば、瞼が落ちて、欠伸も出る。
「ああ、葛野はもう眠いようだよ。早く、寝かせておやりよ」
十市は、もう逃れられない我が身の不甲斐なさに歯噛みする様に、眉根を寄せると、服の上に葛野王を寝かせた。体が横になると、葛野王はすぐに瞼を閉じて、寝息をたてた。息子の小さな手を握り、お腹をぽんぽんと叩いていたが、覚悟を決めてすくっと立つと、灯明を目指して歩を進めた。
土間に降り立つと、
「服は、板の間に置いておおきよ。明日、采女が起こしに来た時、藁くずだらけの服を着てたんじゃぁ、格好つかないだろう。………それに、私は十市の裸体が見たい」
そう言う高市皇子は、もう褌も外していた。
十市皇女が、言われた様にして寝台に近づいて来ると、高市皇子は、半身を上げて胡坐をかいて、彼女の腕を引き、自分の膝の上に座らせた。十市皇女の裸体を抱きしめた高市皇子は、十市の柔らかな頬に頬ずりしながら、
「夢じゃないんだな。本当にこれは十市なんだ」
と、泣きそうな声を出してそう言った。そして、十市の頬の滑らかさを堪能すると、十市を横たわらせ、灯明の火を吹き消す。
高市皇子は、ふふっと声を出して笑うと、十市の横に寝転がり、
「大海人様からは、貴方達二人を決して逃がさない様に厳命されているんだ。二人を逃がさない為には、こうして十市を抱きしめておくしかないんだ」
❖◇❖◇❖
大海人天皇は、十市皇女の亡骸を前に、声を
彼女の遺骸は、7日後の四月十四日に赤穂に葬られた。
それから1年後の五月。
飛鳥
その盟約の場に葛野王はいなかった。
正確には、高市皇子に付き従ってその場にはいたものの、親王では無い彼は、盟約を交わす基準に至っていなかった。
その後、夜の宴会までの時間。
高市皇子は、自分の宿舎で葛野王と二人きりとなったのを幸いに、あの日の早朝の話を振った。
「いつからだったんでしょうね。母がもう、僕の存在など無いものかの様に、女を丸出しにするようになったのは…あのままだと、母の変異は、誰の目にも明らかで、高市様の立つ瀬が無くなっておられたのではないですか? 母は、大海人天皇に、殊の外、愛されておりましたからね」
葛野王は、厳しい高市皇子の目に、
「僕は、高市様には、感謝しているんですよ。貴方様が母を請うたから、僕はこうして生きていられるんですから。でも、それとこれとは話は別です。僕から母を奪い、ああしてしまった責任をとって、これからも、僕の監視者で居続けていただけますよね?」
屈託のない笑みを浮かべ、小首を傾げる葛野王とは裏腹に、高市皇子の顔は真っ青だった。
「やはり…やはりそうだったか。見間違いかと思っていた。いや、まさかそんな筈はあるまいと…。あの朝、十市に、何も変わった所は無かった。大海人様に付き従う私の為に、皆、私の支度に追われて、誰も十市を見ていなかった。それが急に……十市の飲んだ白湯。あの白湯の椀を十市に渡したのは…
完
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後書
自主企画
主催者:香鳴裕人 様
[第2期] 同題異話SR -June- 『間違いなく君だったよ』
参加用書下ろし作品です。
キャッチコピー『十市皇女─死の妄想』
自作品『修羅の宝珠 ~梢求むと~』の世界観です。
書き終えた所だったので、もう、他の世界に頭が移行できませんでした。
『ああしてしまった』って、どうしてしまったんでしょうね? (すっとぼけ~)
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