十市皇女─死の妄想

第01話 間違いなく君だったよ 【大法螺葦原国史】

 壬申の乱から6年目の四月七日。十市皇女とおちのひめみこが亡くなった。


 その日は、倉橋川の上流に建てた斎宮から三輪山に向かい、天神地祇てんじんちぎに対して災異封じ祈念を行う為、大海人天皇おおあまのすめらみこと行幸みゆきに向かおうとした、まさにその朝だった。


 ❖◇❖◇❖


 乱の後、十市皇女は、大友天皇の遺児である葛野王かどのおうと共に保護された。この時、葛野は数え四歳の皇子だった。十市皇女は、それまでさしばよりも重い物など、持ち上げた事も無いような細腕で、もう充分に重くなった吾子を抱え上げ、自分達を誘導する兵士の後ろに付き従い、輿に乗った。


 およそ4年振りの父娘の対面であったが、両者の間には、稲妻の緞帳どんちょうが垂れ下がっている様な緊張感があった。それは、高市皇子たけちのみこが、大海人皇子の耳に向かって何かを呟き、それに対して二人が顔を見交わして頷きあった後、大海人皇子が、大きな溜息を吐き、

「赦す」

 と、のたまう迄続いた。


 大海人皇子の宣言に、緊張の糸が緩んだ十市皇女は、はらはらと涙を零しながら、しゃがみこみ、『けしてお母さまの足を離してはいけません』という言い付けに従い、十市皇女の裳ごと、両手で彼女の足にしがみついていた葛野王の小さな体を抱きしめ、歓喜の声と共に、滂沱の涙を流し続けた。


 他の一切の近江朝廷側の臣を助命しても、絶対に摘み取らねばならない、小さい命だった。それを大海人皇子は、十市皇女の命を懸けた懇願と、高市皇子の提言を受け入れたのだった。

 この瞬間から、葛野王は、皇子の位から葛野王と呼ばれる事になる。


 ❖◇❖◇❖


 高市皇子は、采女うねめの胎から生まれた、大海人皇子の長男である。

 大海人皇子には、十市皇女の母の額田王ぬかたのおおきみという最愛の女性がいたのだが、彼女に横恋慕した兄の葛城皇子に奪い取られ、その怨嗟に耐え切れず、鬱憤を晴らす為に同衾したのが、彼の母だった。


 高市皇子には、御名部みなべという名の葛城天皇の皇女の正室がいたが、彼女は、男女の事をするにはまだ幼かった事と、彼女の妹が、大海人皇子の嫡子の草壁皇子の正室であったので、姉妹と姉妹の母親は、大海人皇子が一家の邸宅としている敷地内に詰めていた。



 十市皇女と葛野王は、大方の戦後処理が終わると、高市皇子の邸宅で暮らす事になった。高市皇子を監視責任者とした軟禁である。邸宅といっても、後に引っ越す事を前提に急拵えで造られた、舎人とねり達のいえと同様に、馬小屋よりはましといった風情の掘っ立て小屋であった。

 別舎の厨所くりやどころから二人分の膳と、葛野王用の粥が運ばれてきていた。


 葛野王の口に匙を運ぶ十市皇女の姿を、高市皇子は、にこにこと、手酌の酒を呑みながら、ただ見つめていた。


 椀の中が空になる間際、

「十市は、やっぱり綺麗だなぁ」

 と、高市皇子は、うっとりとした目で口走った。そう言う高市皇子に、十市皇女は、眉根を寄せて、ちらりと一瞥した後、再び、葛野王に視線を戻す。辛うじて葛野王に顔を見せる時には、笑顔を繕った。


 葛野王が最後の一匙を嚥下すると同時に、高市皇子もまた、つきの中身を干した。と、同時に長紐を外し、胸紐も解く。がばっとほうを脱ぎ捨てて、襦袢姿になると、胡坐をかいている膝の上に手をついて勢いをつけて腰を上げると、片膝を立てて、

「さぁ、やろうか。おいで」

 と、にこにこと笑顔のままで、十市に右手を差し出した。


 十市は、口をあんぐりと開けた。

 高市皇子の監視の元、同じ舎で暮らす様に言われた時から、大海人皇子に耳打ちしていたのは、この事だったか。と、予感はあった。だが、こんな性急に求められるとは、思ってもみなかった。


「ちょ、ちょっと待って下さい。まだ、葛野が…」

 そう言って、葛野王の両肩を掴む。そうする気は無かったが、彼を盾にする格好となった。

 そうした十市皇女に、高市皇子は、初めて不機嫌の色を漂わせた。しかし、その色はすぐに霧散し、叱られた犬の様にしゅんとなった。


「すまない。つい。グズグズしていると、又、大友に十市を盗られる気がしたんだ」


 俯いて、いかにも反省しています。と、言わんばかりの言い訳をしたが、俄かに、口角をぐいっっと引き上げ、

「そうだね。もう大友は、死んだんだから、十市を盗られる事は無いんだ」

 と言って、呵々と笑った。


 部屋の中に、寝台などという洒落た物は無い。高市皇子が運び込ませた、幾つかの藁袋が土間の端の一角に積み上げられており、どうやら、そこが寝所であ

った。高市皇子は、灯明を持って寝所近くの板間の床に置くと、即席の寝台の上に、ごろりと横たわり、袋をならすように、パンパンと叩く。そうして、概ね良し。と思った頃合いで、

「流石に、ね。本当なら、この国の頂点に君臨した筈の女を、を、板間に転がすわけにはいかないだろう。と、思ってね」

 と、未だ葛野王の肩を掴んだままの十市に目を向けて、にっこりと微笑んだ。


 葛野王は、母親が小刻みに震え、怯えている事を感じとりはしたが、四歳の子供である。夜も更け、腹も膨れれば、瞼が落ちて、欠伸も出る。


「ああ、葛野はもう眠いようだよ。早く、寝かせておやりよ」


 十市は、もう逃れられない我が身の不甲斐なさに歯噛みする様に、眉根を寄せると、服の上に葛野王を寝かせた。体が横になると、葛野王はすぐに瞼を閉じて、寝息をたてた。息子の小さな手を握り、お腹をぽんぽんと叩いていたが、覚悟を決めてすくっと立つと、灯明を目指して歩を進めた。


土間に降り立つと、

「服は、板の間に置いておおきよ。明日、采女が起こしに来た時、藁くずだらけの服を着てたんじゃぁ、格好つかないだろう。………それに、私は十市の裸体が見たい」

 そう言う高市皇子は、もう褌も外していた。


 十市皇女が、言われた様にして寝台に近づいて来ると、高市皇子は、半身を上げて胡坐をかいて、彼女の腕を引き、自分の膝の上に座らせた。十市皇女の裸体を抱きしめた高市皇子は、十市の柔らかな頬に頬ずりしながら、

「夢じゃないんだな。本当にこれは十市なんだ」

 と、泣きそうな声を出してそう言った。そして、十市の頬の滑らかさを堪能すると、十市を横たわらせ、灯明の火を吹き消す。


 高市皇子は、ふふっと声を出して笑うと、十市の横に寝転がり、

「大海人様からは、貴方達二人を決して逃がさない様に厳命されているんだ。二人を逃がさない為には、こうして十市を抱きしめておくしかないんだ」


 ❖◇❖◇❖


 大海人天皇は、十市皇女の亡骸を前に、声をらして泣いた。

 彼女の遺骸は、7日後の四月十四日に赤穂に葬られた。


 それから1年後の五月。

 飛鳥岡本宮おかもとのみやで執り行っていた政務の場所を、少し離れた場所に大極殿を建て、浄御原宮きよみはらのみやという新しい都の骨組みの様なものが出来た頃、大海人天皇、鸕野讚良皇后、大海人天皇の四人の皇子と葛城天皇の二人の皇子でもって、吉野に行幸し、継承問題で争わない盟約を交わした。

 その盟約の場に葛野王はいなかった。


 正確には、高市皇子に付き従ってその場にはいたものの、親王では無い彼は、盟約を交わす基準に至っていなかった。


 その後、夜の宴会までの時間。

 高市皇子は、自分の宿舎で葛野王と二人きりとなったのを幸いに、あの日の早朝の話を振った。


「いつからだったんでしょうね。母がもう、僕の存在など無いものかの様に、女を丸出しにするようになったのは…あのままだと、母の変異は、誰の目にも明らかで、高市様の立つ瀬が無くなっておられたのではないですか? 母は、大海人天皇に、殊の外、愛されておりましたからね」


 葛野王は、厳しい高市皇子の目に、すくむ事もなく、どこにも力む様子の無い、澄んだ、あどけない瞳を向けていた。そうして、思い出した様に、ふっと小さく笑ったと思うと、


「僕は、高市様には、感謝しているんですよ。貴方様が母を請うたから、僕はこうして生きていられるんですから。でも、それとこれとは話は別です。僕から母を奪い、してしまった責任をとって、これからも、僕の監視者で居続けていただけますよね?」


 屈託のない笑みを浮かべ、小首を傾げる葛野王とは裏腹に、高市皇子の顔は真っ青だった。


「やはり…やはりそうだったか。見間違いかと思っていた。いや、まさかそんな筈はあるまいと…。あの朝、十市に、何も変わった所は無かった。大海人様に付き従う私の為に、皆、私の支度に追われて、誰も十市を見ていなかった。それが急に……十市の飲んだ白湯。あの白湯の椀を十市に渡したのは…


 完



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 後書


自主企画

主催者:香鳴裕人 様

[第2期] 同題異話SR -June- 『間違いなく君だったよ』


参加用書下ろし作品です。

キャッチコピー『十市皇女─死の妄想』



自作品『修羅の宝珠 ~梢求むと~』の世界観です。

書き終えた所だったので、もう、他の世界に頭が移行できませんでした。


『ああしてしまった』って、どうしてしまったんでしょうね? (すっとぼけ~)

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