122話 静かな夜【14】

 北東軍との戦が終結したその夜遅く。

 眠れずに天幕の中一人で物思いに耽っていたジーグフェルド。

 その耳に微かな歌声が届いてきた。

 それはよく響く優しいメゾソプラノの声である。

 

『こんな夜中に、一体誰が?』


 そう考えた次の瞬間。

 彼は確信する。


『イシスだ!』


 思った途端身体が勝手に動く。

 椅子の背に掛けていた上着を取り乱雑に着るとマントを握る。

 見張りの兵士に気付かれないように気配を殺しそっと天幕を抜け出す。


 昼間の戦闘での疲れと、この深夜という時間帯である。

 流石に皆、深い眠りについているのだろう。

 他の天幕や、その周辺で毛布にくるまり雑魚寝している兵士達も、とても静かであった。


 シンと静まりかえっている夜の気配と同じくらい外気の冷たさはその度合いを増している。

 吐き出す息が瞬く間に白く変わっていく。

 北にあるファンデール侯爵家の領地に比べてしまう。

 かなり南に下がっている分、冬が近いとはいえかなり暖かい。

 だが、日が差している昼とは比べものにならない程の寒さだった。


 ジーグフェルドは思わずブルッと身震いをする。

 自分の両肩に手を当て数回さすりマントの襟をたてた。

 そして微かに聞こえる声を頼りに歌姫を捜す。


 寝静まり返っている兵士達を起こさないように細心の注意を払う。

 足音を殺して彼等の間をゆっくりと進んで行った。

 所々に見張りのための篝火がユラユラと赤い炎を上げている。


『ふっ。国王のすることではないな。これではまるで諜報員のようだ。プラスタンス殿やラルヴァ殿に見つかれば雷が。カレルならきっと悪戯っぽく笑いながら皮肉るだろうな……』


 そう考えたら可笑しくて口元がほころぶ。

 声を出さずに笑うジーグフェルドを、満月近くなった青と赤の双月が明るく照らす。


 程なくして国王軍から少し離れた場所。

 火災の被害に遭っていない草原。

 青き光が神々しい程降り注ぐ静寂なる大地に、ポツンとひとつ佇む人影を見つけた。

 そのシルエットと声からして確かにイシスだ。


 彼女は月明かりの中。

 長い黒髪を風になびかせていた。

 スラックス姿にストールを羽織っただけという軽装で異国の歌を歌っている。

 そんなイシスの後ろ姿はとても美しかった。


 しかし、同時に悲しいほどの哀愁をも漂わせている。

 ジーグフェルドはそう感じるのだった。

 声を掛けることも忘れ、彼は暫しイシスの姿をじっと見つめる。


 ひとつの曲が終わったのか歌声が止む。

 すると彼女は何かを求めるかのように、二つの月に向かって両手を伸ばす。

 そのイシスの姿にジーグフェルドは何故か途轍もない不安を覚えたのだった。


「イシス‼」


 思わず叫んで駆け寄る。

 逞しい両腕で彼女を後ろからしっかりと抱きしめた。


「‼」


 珍しく人の近づく気配を全く感じ取れていなかったイシスは一瞬驚いた。

 しかし、自分を抱きしめている相手がジーグフェルドだと直ぐに分かる。


「どうしたんだ? ジーク」


 イシスはジーグフェルドの大きな腕に自分の手を掛けた。

 そしてゆっくりと顔だけを彼の方へと向ける。

 悪戯っぽく微笑している彼女の茶色の瞳と視線が絡み合いう。

 ジーグフェルドは自分の体温が一気に上昇するのを感じた。

 きっと顔は赤くなっていることだろう。

 だが、月明かりの青色が強いため、さほど目立たないことに彼は感謝する。


「どうしたんだって……。その……」


『そなたがあのまま月へと登って、消えてしまいそうだったから……』


 口ごもりながら心の中でそう呟いた。

 そんな彼の心の中で渦巻いている感情など知る由もないイシス。

 返答に詰まっている彼へ、更に言葉を続ける。


「国王ともあろう者が、一人で出歩くなんて危ないぞ」


 そう茶化すように言っている彼女は、剣すらも持っていない丸腰である。

 それに対しジーグフェルドの方は、一応剣を持ってきている。


『一体どちらの方が危ないのやら?』


 更にこのような時刻に天幕を抜け出し単身出歩く行為。

 諜報活動でもしているのではないかと、疑われても仕方がないほどの不審な行動である。


「そなたこそ。武器を何も持っていないではないか。剣はどうした?」


「必要ないから」


「どういうことだ?」


「剣などなくても、自分の身は守れるってことだよ。心配しなくていい」


「???」


 イシスの言っていることの意味がさっぱり理解できないジーグフェルドは首をかしげる。

 そんな彼の困惑している空気を感じ取ってイシスがクスクスと笑う。

 腕の中で彼女の身体が揺れるたび。

 その髪がジーグフェルドの鼻孔を優しく擽り、彼の顔がますます赤くなる。


『抱きしめたのが後ろからでよかった……』


 彼はつくづく思った。


「そんな薄着で寒くないのか?」


「平気。冬生まれなので、寒さにはわりと強いんだ」


 さらりと言われたイシスの言葉に、ジーグフェルドはドキリとした。

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