105話 光の灯す記憶【22】

 イシスが戻ってくると約束した日の深夜。

 まだ城のどこにも彼女の姿はなかった。

 皆が寝静まったランフォード公爵城の一室。

 ジーグフェルドは椅子に腰掛けひとり寝酒を煽っている。


『行かせるべきではなかった……か……』


 グラスに注がれている酒を大きな手の中で弄ぶ。

 そして彼は後悔し始めているのだった。

 少し時間が経ち冷静になって考える。


『漠然と感じていた不安が、確信に変わった……。あの一連の不思議な現象を機に、イシスは失っていた記憶を取り戻したのだ。だからあんなにも泣き。翌朝には行きたいところがあると言い出したに違いない』


 記憶とはその人間の歴史だ。

 人格を形成する上でも非常に重要な役割を担っている。

 それが一切なく、自分が何者かも分からない白紙状態。


『ましてやイシスは使っている言語が違う。普段口には出さなかったが、恐らくとても不安だったし、辛かったに違いない』


 ジーグフェルドはグラスを動かしている手を止めた。


『本当なら喜んでやるべきことなのだが……』


 だがそれはイシスを失うことになるのではないかと思う。

 彼は不安でたまらなかった。

 くどいようだが、言葉が全く違うのだ。

 この周辺の国の人間でないことは明らかである。


 昨夜アーレスに話した時。

 自信の無い自分の取るべき行動がいまいちわからなかった。

 思考は何度もそこで強制停止を行ってしまう。

 ジーグフェルドは頭を横に数回大きく振った。


『だが、たとえオレが言わなくても、イシスの方から言い出したら……。オレは一体どうするだろう? 引き留めるのか? それとも良かったな。と、笑って見送ってやるのか?』


 自問しながら彼はグラスの酒を一気にあおった。


『問うまでもない! 答えは決まっている! これほどまでに自分の心の中に入り込んでしまっているイシスを手放せるわけがない! ずっとオレの側にいて欲しい‼』


 心の中で叫んでジーグフェルドはやっと答えを出した。

 無意識に空のグラスを握りしめる。

 グラスが割れる寸前で我に返り、慌てて握りしめていた力を緩めた。

 そして次に項垂れる。


『だが、それはオレのわがままで。一方的な気持ちの押しつけでしかない。人生を共に歩みたいと願っても、イシスが同じように思ってくれなければ意味がない……』


 ジーグフェルドは頭をクッと上げた。


『沈んでいる場合じゃない! まず自分の気持ちをイシスに伝えること! そのためにはこの戦に勝ち、自分が何者なのかをハッキリさせることが最重要だ!』


 北東やドーチェスター城もまだまだ余談を許さない状況である。

 睡眠不足なんかで士気が低下しては大変なので、もう休もうと彼は思った。


「約束したのだ。きっとここに帰ってきてくれる」


 声に出し自分に言い聞かせる。

 燭台の蝋燭の火を消そうと立ち上がった。

 その時、柔らかい微かな風がジーグフェルドの頬を撫でる。

 同時に部屋の隅で覚えのある人の気配を感じた。

 彼は驚いてその方向へと振り向く。

 扉の開いた様子は全くなかった。

 だが、窓際で月明かりに照らされたイシスがそこに立っていた。


「イシス! 戻ったのか⁉」


 ジーグフェルドは約束通り自分の元に戻ってきてくれた彼女を強く抱きしめる。


「うん……。遅くなって、ごめん……」


 弱々しく答えながらイシスも彼の広い背に腕をまわす。

 暫しの間二人は無言で抱擁を続けた。

 そして抱きしめていた腕を緩め、ジーグフェルドは両手でそっと彼女の頬を包んだ。

 少し顔を上に向かせ覗き込む。

 言葉では言い表せないほど嬉しくて愛おしい。

 許されることならこのまま口づけを送りたかった。


「‼」


 だが、愛おしいその女性の顔は、別れた一昨日の朝より一層窶やつれている。

 ジーグフェルドは眉間に皺を寄せたが言葉にだすのは控えた。

 そんなことは本人が一番よく分かっているはずだ。

 他人からわざわざ言われたくはないだろうと思ったのである。

 イシスの身体を気遣い椅子に座らせ笑顔を向けた。


「よかったよ。心配した……」


「そう、か……。すまない」


「いや、いいんだ。食事はしたか?」


「……いや」


「まさかこの二日間、何も食べていないんじゃあ……」


「…………」


 彼女の答えは、肯定の沈黙だった。


「それはいかん! 軽いものを持ってこさせよう」


「ジーク! 欲しくないんだ。本当に……」


「食べろ! その口こじ開けて無理矢理にでも食べさせるぞ!」


「……乱暴な奴だなぁ…………」


 クスリと笑ったイシスの唇から白い歯がこぼれる。

 苦笑ではあったが、やっと見ることが出来た笑みだった。


「心外だな」


 ジーグフェルドはイシスの頬に再び手を伸ばした。

 また一段とやつれてしまっているその顔を、心痛な気持ちで再度見つめる。


「そなたの身体が心配なだけだ」


 そう告げると部屋の外に待機している兵士に、食事の用意を頼む。

 程なくして胃に負担のかからないような軽食、パンとスープが運んでこられた。

 仕度を急がせたので、本当に簡単なメニューである。


 イシスはそれらを時間をかけてゆっくりと口に運ぶ。

 その様子をテーブルの向かいに座ってジーグフェルドは眺めていた。

 少しずつでも食べてくれるのでホッと一安心する。


「ご馳走様」


 イシスは最後にスープを飲み終えた。

 すると何か言いたげな面もちで顔を上げ、ジーグフェルドを見つめるのだった。


「どうした?」


「ん……。ジーク。あの……」


「何だ?」


「えっと……。今夜ここにいてもいいか?」


「また眠らない気か?」


「いや……。そうじゃなくて……。一人で眠りたくないんだ。あの……側に、いて欲しい」


「!」


『何やら誘われているように受け取れる台詞だな……』


 しかし、憔悴しきった彼女の状況でそれはあり得ないであろう。


『思いを寄せる女性とベッドを一つにして添い寝だけとは……。何とも辛いところだが。今のイシスにそれ以上を求めるのは酷というものだろう』


 ジーグフェルドは自分の気持ちを押し殺した。

 イシスからの意外な申し出に苦笑しながら応じる。

 彼は自分のベッドへと誘いその半分を譲った。


 ベッドの中で彼女はジーグフェルドの方を向いて身体を丸め、安心しきった子供のように眠りにつくのだった。

 だが、その眉間には皺が刻まれ表情も苦悩に満ちている。


『何がそれ程までにそなたを苦しめる?』


 彼はイシスの寝顔を見つめて心が痛くなった。


「オレには癒すことは出来ないのか? そなたがオレの心を癒してくれているように……」


 眠っている彼女の額の髪をそっと掻き分け静かに口づける。

 そしてイシスを守るかのように腕を回し、ジーグフェルドも眠りにつく。

 窓の外には再び近づいた赤と青の二つの月が明るく輝いていた。

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